Episode11 悲しい別れ
「来栖君、来栖君。ちょっといいですか?」
「はい?」
それは、クリスマスイブの前日の夜。雪が深々と降りしきる、寒い寒い日だった。
ミスター・レンが夜中だというのに、羽音の部屋の扉を叩いた。
「なんだろう……」
羽音は強い不安を感じながら、そっと扉を開ける。
「どうしたんですか? ミスター・レン」
「こんな夜中に、すまない。ミセス・サラが……」
「え?」
その鬼気迫るミスター・レンの雰囲気に、羽音の胸が騒めいた。
「ミセス・サラがどうしたんですか?」
「つい先程、容体が急変して……非常に危険な状態だ」
「何ですって?」
「最後に、君に会いたがっているから……早く!」
「わかりました」
羽音は慌ててキャソックに着替えて、急いで部屋を飛び出した。
「あ、来栖君。よく来てくださいました。
「ミスター・ハル。ミセス・サラの容体は?」
「とりあえず、中に入ってください」
ミセス・サラの部屋には、校医であるミスター・ハルがいて、羽音を彼女のベッドサイドまで案内してくれる。
部屋の奥のベッドには、目を閉じたミセス・サラが横たわっていた。その姿は、羽音が知っている彼女ではなかった。長い間闘病生活を送ってきたためか、体は痩せ細り、疲れ切った表情をしている。それでも、その優しい雰囲気は変わらなかった。
「ミセス・サラ。羽音です」
静かにベッドの脇にしゃがみ込み、その細い手をそっと握る。その手は、とても温かかった。
「あぁ、羽音……よく来てくれました」
疲れ切った顔をしながらも優しく微笑んでくれる。弱々しい力で、羽音の手をそっと握り返してくれた。
「羽音、そろそろ神のお迎えが来そうです」
「何を言ってるんですか? 気を強く持ってください」
「フフッ、ありがとう。でもわかるのよ。私はそろそろ死んでしまう」
「そんな……」
悲しむ羽音を見たミセス・サラがフワリと微笑む。その笑顔は、まるで天使のように優しいものだった。
「羽音……貴方は、優しくて、賢くて、綺麗な子よ。どうか、幸せになってね」
「ミセス・サラ……」
「あらあら、泣かないで」
羽音の頬を伝った涙を、ミセス・サラが拭ってくれる。
「ハクは星屑になってしまったけど、きっと貴方は幸せになれるわ」
「嫌です。僕は貴女がいなければ何もできない……お願いします。僕を置いて行かないでください」
「まぁまぁ、困った子ね」
ミセス・サラが小さな声でクスクスと笑う。そんなミセス・サラの手を握り締め、羽音は肩を震わせた。
「インキュバスだって誰かを愛し、愛される権利を持っている。だから、貴方には幸せになって欲しい……」
「いいえ。貴女がいなければ、僕は不幸だ」
「大丈夫。貴方には九条君がいるわ。彼を信じて、ただ彼を愛し抜けばいい。そしたらね、きっと、幸せが訪れるでしょう。それにね、私最後に遺言を残しておいたから。本当にこれが私にできる最後の事だけど……きっと、大丈夫よ、羽音」
それが、羽音が見たミセス・サラの最後の笑顔だった。
その日の深夜、ミセス・サラは天国へと旅立ったのだ。
教会ではクリスマスツリーの飾りが眩い程に光り輝き、空からは白い天使がヒラヒラと舞い降りる……そんな、静かな静かな夜だった。
羽音にしてみたら、ミセス・サラとの思い出がこの学園中に溢れている。長い間、彼女の優しい笑顔と存在そのものに励まされてきたのだ。
「ミセス・サラ……」
羽音は、教会の祭壇の前に蹲り、ただ祈りを捧げることしかできなかった。
「僕は、僕はどうしたら……もう、あの笑顔に会えないなんて……」
羽音に頬を、とめどなく涙が流れる。その涙は、拭っても拭っても止まることは無かった。
キャソックのポケットから水晶玉を取り出せば、氷のように冷たい。そして、流れ出る羽音の涙のように透き通っていた。
「羽音……」
優しい声と共に、羽音は温かい物に背中から抱き締められた。羽音は振り返らなくても、それが誰なのかわかってしまう。鼻腔をくすぐっていく白百合の甘い香り。その香りを感じても、今の羽音は激しく欲情することはなかった。
「瑞稀……」
「羽音、体が冷え切ってます」
そう言いながら、瑞稀は羽音に頬擦りをする。
「聖水、飲みますか?」
「大丈夫……今日は、あんまり白百合の匂いを感じないから……」
弱々しく俯く羽音を、瑞稀はギュッと抱き締めた。 ずっと泣いていたせいで、羽音の目元は赤く色付き腫れぼったい。泣き疲れて体は鉛のように重かった。あまりにも痛々しいその姿に、瑞稀の心までも痛んだのだろうか……一瞬、泣きそうな顔をする。
「羽音は、ミセス・サラがずっと心の支えだったんですよね」
「……はい……」
「でも、大丈夫です。これからは僕が貴方を支えますから」
瑞稀が、両手で羽音の頬を包み込んで、そっと自分の方を向かせる。羽音は少し戸惑いながらも、悲しそうな表情をしてる瑞稀を見つめた。
「でも……ミセス・サラが亡くなってしまえば、僕はインキュバスに戻ってしまう」
「そうですね」
「そしたら、僕はもう、君の傍にいられない……」
再び、羽音の大きな瞳から、ポロポロと硝子玉みたいな涙が溢れ出す。瑞稀がその涙を唇で掬い取ってくれた。
「僕は、インキュバスなんかになりたくない……」
「羽音……」
「僕は瑞稀が好き……だから、来栖羽音として、ずっと一緒にいたい……」
「大丈夫、俺が貴方を守ります」
「瑞稀と一緒にいたい……大好き……」
瑞稀が羽音に口付ける。甘い唾液に混じったキスは、塩辛い涙の味がした。
これから、自分はどうなってしまうのだろうか……そう思うと、羽音は不安に押し潰されそうになる。恐怖と言う津波に呑み込まれそうになった。
「瑞稀が好き……大好き……」
「俺も羽音が好き」
「離れたくない……ずっとずっと一緒にいたい……」
「大丈夫。離れることなんてないから。俺が、絶対に貴方を離さないから……」
瑞稀は、子供みたいに泣きじゃくる羽音を、ただただ抱き締めてくれた。
優しく羽音の髪を撫で、額に頬に、唇に……優しい口付けをくれる。
そんな瑞稀の優しさに、羽音は救われた。
「ずっとずっと一緒にいよう。俺が、貴方を守るから」
瑞稀の誓いのような言葉が、崩れ落ちそうになる羽音の心を支えてくれる。羽音は、力一杯瑞稀を抱き締め返した。
そして羽音は感じるのだ。
「僕はまだ、来栖羽音だ」
と。
◇◆◇◆
「ん?」
「……瑞稀、何かがいる」
「羽音、俺から離れないで」
突然瑞稀が羽音を庇うように自分に引き寄せる。
「何でだ? さっきまで、全然人の気配なんてしなかったのに……」
瑞稀は強く羽音を抱き締め、その気配がする方を睨み付けた。
──でも、この気配は人間じゃない。もっと、違う……凄く、邪悪な感じがする。
羽音は瑞稀にギュッとしがみつく。心臓が破裂しそうなくらい高鳴り、体中の血液が凍り付いていくように感じられた。それなのに、額に汗がじっとりと滲む。
「瑞稀、怖い……」
「大丈夫。俺がいます」
二人は強く抱き合いながら、自分達に向かってゆっくり近付いてくる存在に目を凝らす。
スーッと冷たい風が吹き抜けた瞬間、薄暗い教会の明りに灯されて、ある人物の姿が浮かび上がった。
「……お前は……」
羽音は思わず言葉を失う。
なぜなら、今、自分達の目の前には……この世のものとは思えない程、美しいインキュバスがいるのだから。 漆黒のように黒々とした髪に、烏のように真っ黒な羽……何よりも目を引くのは、仮面の下から覗く炎のように真っ赤な瞳だった。
「なぁ、その戒めの白百合……俺にちょうだい?」
「お、お前は……あの時の……」
瑞稀が低い声で唸るように呟く。その獣のような声に、思わず羽音は瑞稀を見上げた。
その顔は真っ青になり、噛み締めた唇が、ガタガタと音を立てて震えている。羽音を抱き締める腕には、更に力が込められた。
「教会で……神の前で契りを結んだら、めちゃくちゃ興奮しそうじゃん?」
羽音と瑞稀の前に現れたのは、人間の姿ではなく、インキュバスの姿をした『カナデ』だった。
「そいつの精液、俺も欲しい。ちょうだい。ねぇ、ちょうだい?」
カナデが舌なめずりをしながら、二人に静かに歩み寄る。
羽音は、その美しくも邪悪な風貌に息を飲んだ。
「これが、インキュバス……」
「そう、俺はインキュバスだ。ミセス・サラが死んで、あのばあさんに封印されていたインキュバスが解放された……そして、はじめまして」
奏がスッと仮面を取り外す。
その仮面は、無機質な音をたてて教会の床に落ちた。
「そんな……嘘だろう……」
「これが俺の本当の姿だ」
目の前のインキュバスが、妖艶な唇をニヤリと吊り上げる。
羽音はそんなカナデを、見つめることしかできない。唇が小刻みに震え、目の前が真っ暗になり意識が朦朧としてきた。
「嘘だ、嘘だ……こんなの信じられない」
羽音は顔を歪めながら首を振る。
「……ミスター・ハル……」
羽音の消え入りそうな声が、静かな教会に響き渡った。 あんなに綺麗だったミスター・ハルの栗色の髪は、闇夜のように真っ黒になり、背中には大きな羽が生えている。
絵本に出てくるような悪魔そのものだった。
「嘘じゃない。俺は、ミセス・サラに人間にされた後、優しくて生徒からの人望も厚い、学校医のミスター・ハルとしてこの学園で暮らしてきた。その日々が、どんなに屈辱的だったか……」
奏が苦虫を噛み潰したように顔を顰める。もうその表情には、あの優しく微笑むミスター・ハルの面影なんてなかった。その姿を見るだけで羽音は泣きたくなってしまう。
そしていつか自分も、こんな姿になってしまうのだろうか……そう思うと、怖くて仕方なかった。
「嫌だ……嫌だ……」
羽音はギュッと目を閉じて瑞稀にしがみつく。この現実から目を背けてしまいたかった。
「戒めの白百合は俺のものだ。離れろ……!」
カナデが真っ赤な目を見開き、羽音にジワジワと滲み寄る。
「お前だけ、なんで戒めの白百合に愛されるんだ……」
「カナデ……」
「なんでお前だけ? 同じ、汚れたインキュバスなのに?」
カナデが真っ赤な目をカッと見開き、羽音を睨み付ける。それを見た瑞稀は、咄嗟に羽音を自分のキャソックの中へと隠した。
「許せない……俺だって、戒めの白百合に抱かれたい」
カナデが突然羽音に掴みかかり、その体を瑞稀から強引に奪い去る。
「カナデ! やめろ!」
瑞稀が慌てて羽音を取り戻そうとカナデに掴みかかろうとした瞬間、羽音は強く床に叩きつられた。
「……クゥッ!?」
「羽音!?」
羽音は体を強く床に打ち付けられた衝撃で、一瞬意識が遠退くのを感じた。
「羽音! 羽音、大丈夫か!?」
瑞稀が羽音の体を抱き起し、その顔を覗き込んだ。
コロコロと何かが床を転がる音が静かな教会に響き渡る。
「あ、水晶玉が……」
羽音が床に叩きつけられた瞬間、キャソックのポケットに入っていた水晶玉が、教会の床に転がり落ちたのだ。それを見た羽音が、慌ててその水晶玉に手を伸ばしてつかみとろうとする。が、その水晶玉の変貌の様子に、手の動きが一瞬止まる。
水晶玉は、夜の海のように黒く濁っていた。
ミセス・サラが生きていた頃は、太陽の光を受けて、あんなにキラキラ輝いていたのに……。あの美しかった水晶玉は、どこにもない。
「そんな……」
羽音の目に、熱い涙が溜まっていく。
もう、自分が人間でいられる時間は、短いのかもしれない。それでも、羽音はその水晶玉が大切だった。ミセス・サラがくれた水晶玉。いつも、肌身離さず持ち歩いていた。
「待って!」
瑞稀に抱きかかえられたまま水晶玉に手を伸ばすけど、もう少しで手が届く……羽音がそう思った瞬間、その水晶玉はカナデによって奪われてしまった。
「返せよ! それは羽音のものだ!」
「うるさいな」
瑞稀が声を張り上げながらカナデに掴みかかれば、意図も簡単に再び突き放されてしまう。
「くう……ッ!」
所詮、人間が悪魔の力に適うはずなどないのだ。羽音は唇を噛み締める。
「返して! お願い……! それだけは……!」
「へぇ……そんなにこれが大事なんだ?」
「大事だから……お願い……返して……お願い……」
羽音の涙が、教会の床にポトリと落ちて、消えていく。
「水晶玉が割れれば、その中に封印されたインキュバスが目覚めてしまう……」
羽音の体がガタガタと震え出す。もう目の前にいる悪魔に許しを請う以外に方法はないのだろうか? そんな自分が心底情けなくなってくる。
「僕は、人間でいたいんだ……」
「へぇ? 人間でね?」
カナデがニヤリと微笑む。その、あまりにも冷たい笑顔に、羽音の背中にゾクゾクっと寒気が走り抜けた。
「そんな事できるはずないだろう? 俺達は、所詮、インキュバスだ」
「違う……!」
「お前は所詮、インキュバスだ」
「嫌だ! 嫌だ!」
「戻っちまえよ。ハノンに……」
「………ッ!?」
カナデが低く呟き、水晶玉をグッと握り締める。その瞬間、ピキピキッと小さな亀裂が走った。
「くたばれ」
「嫌だぁぁぁぁぁ!!」
硝子が割れる音が響き渡り、羽音の目の前で、水晶玉が粉々に砕け散る。羽音はそれを、まるで映画のワンシーンのように眺めた。クリスマスツリーのオーナメントがキラキラと輝き、他人事のように「綺麗だな……」と思う。
「そうだ、今日はクリスマスイブだ……」
羽音は、生まれて初めて、クリスマスが楽しみだと思えた。
それでも、羽音は特別豪華なパーティーをしたかったわけではない。ただ、瑞稀とクリスマスツリーを眺めながら、二人きりでお祝いをしてみたかった。ただ、それだけだった。
「羽音!!」
瑞稀が、自分の名前を呼ぶ声が、遥か遠くで聞こえた気がした。
「ごめん、瑞稀……もう、君の傍にいられない……」
羽音の瞳から、ハラハラと涙が溢れた。
そんな羽音の身体の内側から、大きく軋むような音がする。
「くぅぅ……く、はぁはぁ……!!」
全身の血が沸騰し、物凄い速さで流れ始める。それと同時に、鼓動がどんどん速くなった。毛穴という毛穴が開き、冷たい汗が滝のように流れ落ちる。息もできなくて、羽音は自分の胸を鷲掴みにして蹲った。
「苦しい……苦しい……!!」
あまりの辛さに、ボロボロと涙が止まらない。その瞬間。
「……来る……」
羽音は目を見開いた。あの時と同じ感覚。背中が熱くて熱くて仕方ない。
「あ、あぁぁぁ、はぁ……あぁ!! わぁぁぁぁぁぁッ!!」
羽音の絶叫と共に、大きな鳥の羽ばたく音が静かな教会に響き渡り、烏のように真っ黒な羽がヒラヒラと宙を舞った。
「フフッ。なかなか綺麗じゃん。ハノンも……」
カナデがクイッと口角を上げる。
「はぁはぁ……うッ……」
「羽音……羽音……!!」
ガクンと羽音が脱力し床にドサッと崩れ落ちる。そんな羽音に瑞稀は駆け寄り、抱き起こしてくれた。
「羽音、羽音……大丈夫ですか?」
「んッ……み、ずき……」
瑞稀がギュッと羽音を抱き締めれば、羽音は虚ろな瞳で瑞稀を見つめた。
「見ないで……こんな僕を……」
羽音が苦痛に顔を歪める。そんな羽音の頬を瑞稀は優しく撫でた。
「僕は……インキュバスだから……」
「羽音……」
「もう、君の知っている羽音じゃない」
「これが、羽音の本当の姿……」
今、瑞稀の腕の中にいる羽音の髪は黒々と輝き、瞳は綺麗なピンク色をしている。
あの、クリスマスプレゼントの包み紙のような銀色の髪も、茶色の瞳も、今の羽音にはない。
そして、真っ黒な大きな片羽が、その背中でユラユラと揺れていた。
「ごめん……なさい……」
羽音の頬を、幾筋もの涙が伝う。瑞稀はその涙を、愛おしそうに舐め上げた。
「綺麗です」
「……何だと?」
瑞稀の言葉に、カナデが綺麗な眉を顰める。
「凄く……綺麗です」
そう呟いて、瑞稀は優しく微笑んだ。
「お前、頭狂ってんのか? そいつの本当の姿を見て、『綺麗』なんてあり得ないだろう? そいつは淫乱な悪魔であるインキュバスだ」
カナデが唸るように呟く。
瑞稀は、自分の腕の中で、まるで捨て猫のように震える羽音を、ギュッと抱き締めてくれた。
「綺麗に決まってるだろう?」
「何だと?」
「心の底から惚れた人なら、どんな姿をしてたって綺麗なんだよ」
「はぁ?」
「羽音は、綺麗だ」
瑞稀はもう一度、自分のコートに羽音を包み、そっと床に寝かせる。それから羽音のキャソックのポケットから、小さな瓶を取り出した。それを羽音は呆然と眺める。一体、瑞稀は何をしようとしているのだろうか。
「羽音。少しだけ、ここで待っててください」
「瑞稀……駄目、行ったら駄目です」
「大丈夫ですよ。必ず戻ってきますから」
瑞稀を引き留めようと伸ばした羽音の手は、瑞稀にそっと掴まれてしまう。
「大丈夫だから。神よ……ミセス・サラよ。我々をお守りください」
そっと囁いて、瑞稀は羽音の手の甲に口付ける。
小瓶を握り締めた瑞稀は、カナデと真正面から向き合った。
「カナデ……俺は、今まではインキュバスを前に、何もできなかった」
瑞稀が苦しそうに顔を歪め、そのままカナデを睨み付けた。
「でも、今は違う。俺には愛する人が……守るべきものができた」
一歩一歩とカナデとの距離を詰めれば、カナデが思わず後ずさる。
「俺は、ミセス・サラ程の力はないかもしれない。でも……」
カナデを見つめる瞳には、一切の躊躇いは見られない。そのあまりに凛とした姿に、羽音の胸は熱くなった。
「俺だって神父の卵だ。お前を封印することができるかもしれないぞ?」
「なんだと……?」
「ミセス・サラが羽音に残してくれた、この聖水で、俺はお前をもう一度封印する」
「できると思うのか?」
「できる。今の俺には、怖いものなんてない」
「…………」
怖い位静かな時間が、瑞稀とカナデの間に流れていく。空気がピリピリと張り詰めて、痛い位だ。羽音は、必死に這って瑞稀へと近付いた。
「瑞稀!! 目だ!! 目に聖水を!!」
「え?」
「僕達インキュバスの弱点は目だ!! 目を狙って!!」
羽音の悲痛な叫び声と同時に、瑞稀は意を決したように小瓶の蓋を開ける。
「ミセス・サラ…! 俺に力を与えてください…!」
小さく呟いて、目を閉じた。
瑞稀が再びスッと目を開いた瞬間、瑞稀の姿に、ミセス・サラの姿が重なったように羽音には見えた。瑞稀の腕が振り上げられる。
「神よ! 我々を邪悪なるかの者から、お守りください!」
瑞稀は、カナデの真っ赤に燃え盛る炎のような瞳に向かって、勢いよく小瓶を投げつけた。
「ぎゃあぁぁぁ!!」
カシャン、と小瓶が割れる音と共に、カナデの断末魔が教会に響き渡った。
「んッ……」
「あ、羽音! 大丈夫ですか?」
羽音が目を覚ますと、心配そうな顔をしながら、自分の顔を覗き込む瑞稀と視線が合った。余程心配してくれていたのだろう……心から安堵したような顔をしている。
ここはどこだろう……と、羽音がキョロキョロと辺りを見渡せば、教会にある小部屋だということに気が付く。そこは、二人が初めて結ばれた場所だった。暖炉からは薪が燃える音が響ている。
羽音は、近くにいる瑞稀の顔をそっと覗き込んだ。
「瑞稀、カナデは?」
羽音が静かに問えば、瑞稀の顔が一瞬曇る。そして、静かに首を横に振った。
「残念ながら、俺の力では、カナデを完全に封印することはできなかった。でも、この学園からは姿を消しましたよ」
「良かった……」
羽音が弱々しく微笑めば、その頬を瑞稀が優しく撫でてくれる。
「黒髪の羽音も可愛いです」
「え?」
「それに艶っぽい……」
意地悪く囁く瑞稀に、羽音は思わず赤面してしまう。
「それに、黒い羽だって綺麗……まるで夜空みたい……」
羽音の真っ黒な片羽を、優しく優しく慈しむように撫でててくれた。
「しばらくの間、ここに身を隠しましょう。悪魔の姿をした貴方が、この世界で生きていくのは難しい」
「でも……」
「大丈夫。僕が貴方を守ります」
それでも羽音は不安で仕方なかった。
自分はインキュバスに戻ってしまったのだから、誰かの精液がなければ生きていくことはできない。
それにミセス・サラがくれた聖水を失った今、いつ『ハノン』が暴れ出し、自分自身を見失ってしまうのかなんて全く想像がつかなかった。
瑞稀から精液を貰わない限り、きっと『戒めの白百合』の誘惑にも、インキュバスの本能にも……打ち勝つことなどできないだろう。
「それでもインキュバスの姿をした僕は、もう瑞稀に抱かれるわけにはいかない……」
羽音は、愛おしげに自分を撫でてくれる瑞稀の手を取り、そっと頬擦りをした。
「悪魔の僕が、君と結ばれるなんて……それに、僕は、瑞稀から精液を奪い取ることなんて絶対にしたくないんだ……」
つい再程、瑞稀に口付けられた時に、羽音は無意識に瑞稀の唾液を「美味しい」と感じてしまっていた。自分が、インキュバスに戻りつつあることに気付いた羽音は、強い恐怖を感じる。
──もう、二度と、インキュバスになんて戻りたくなかったのに……。
「僕は、絶対に瑞稀を汚したりはしないから」
羽音は、瑞稀の胸に顔を埋めながら誓ったのだった。
◇◆◇◆
「羽音、少しは食事をとってください」
「ごめんなさい。食欲がなくて」
「羽音……」
瑞稀がミスター・レンに、事情を話して用意してもらっている食事を、羽音は一切食べようとしない。元々華奢だった体が、どんどんやつれていくのを感じた。
「やっぱり、人間の食事は受け付けませんか?」
「……はい……」
羽音は素直に頷く。
自分がどれだけ瑞稀に迷惑を掛けているのが分かる羽音は、苦しくて仕方ない。今すぐ、ここから消えてしまいたかった。
「なら、俺の精液を……」
「駄目!! それは絶対に駄目です!!」
羽音は今にも泣きそうな顔で瑞稀を見つめた。
「お願い……僕は、もうインキュバスには戻りたくないから……」
「羽音……」
「だから、君の精液は貰えない」
その揺るぎない瞳に、瑞稀は溜息を付いた。
「わかりました」
「ごめんなさい」
「いいえ。大丈夫ですよ」
瑞稀は羽音をギュッと抱き締める。羽音はそんな瑞稀の温もりを感じながら、そっと目を閉じた。
「また痩せたか?」
羽音は、眠る時には羽があるせいで、ベッドの上で体を丸めるようにして眠った。
段々とやつれていくその姿に、瑞稀は強い焦燥感に襲われているようだ。ギュッと拳を握り締めている。
「いっその事、無理矢理抱いてしまおうか……」
瑞稀の頬をそっと涙が伝う。
「羽音が、あんなに楽しみにしていたクリスマスが終わってしまいました。来年のクリスマスは、二人でお祝いできるかな……」
羽音が眠るベッドの脇に、瑞稀がそっとしゃがみ込む。恋人である瑞稀が、こんなに心を痛めていることが羽音は辛くて仕方がない。心が粉々に砕け散りそうだ。
「キス、じゃ駄目かな」
両頬を大きな手で包み込まれ、柔らかなものが唇に触れた感覚に羽音は瞳を開いた。
「瑞稀……?」
「ん?」
「瑞稀のキス、気持ちいい……」
「少しは、栄養になりそうですか?」
「はい。温かくて……すごく甘い。まるで、ココアを飲んだ時みたい」
羽音がフワリと微笑んでから、瑞稀の首にそっと腕を絡めた。
「ねぇ……もっと、キスして……?」
「はい。もっと……しましょう?」
「ありがとう」
羽音が目を閉じたのが合図だったかのように、再び瑞稀の唇が、羽音の唇と重なった。
その日は寒い寒い日だった。昼間だというのに、雲の切れ間から弱い日光が差し込むだけで、今にも雪が降り出しそうだ。小部屋から外を眺めていれば、クリスマスツリーが庭師によって片づけられるところだった。
ミセス・サラの葬儀も、厳かに行われたようだ。その式に参加できなかったことが、羽音は悔やまれてならない。
「最期のお別れがしたかったな……」
壁に寄りかかったまま崩れるように座り込む。ミセス・サラのことを思い出すだけで、目頭が熱くなるのを感じた。
インキュバスになってから、明らかに衰え始めた羽音の体……。もう、立っている事さえ辛かった。
「瑞稀……早く会いたい……」
明日から冬休みに入ると、瑞稀が話していた。そんな事も、遥か遠い出来事のように感じられる。羽音は、人間の世界から、切り離された空間に閉じ込められてしまった。それでも、自分の為に冬休みも学園に残ってくれる瑞稀の優しさに、羽音の胸は熱くなる。
困らせたくないのに、今の自分には瑞稀がいなければ生きていくことさえできない。
背中に少し力を入れれば、真っ黒な羽がバサバサと音を立てた。
「両方の羽があれば、ここからいなくなれたのに……ここでは、死ぬことさえできやしない」
羽音は、自分の存在さえ呪いたくなる。
もうあの頃みたいに、片羽で飛ぶ力など羽音には残されていなかった。
「このまま消えてしまいたい……」
窓の外には、いつの間にか雪が降り出していた。
突然、室内に冷気が入り込んできたものだから、羽音はそっと窓に目をやる。そして、突然の訪問者に目を見開いた。
「……え?……」
「おい、お前は馬鹿なのか?」
「カナデ……」
窓の外に突然姿を現したのは、インキュバスのカナデだった。瑞稀に聖水を掛けられたせいか、目元が痛々しく爛れている。
「お前、このままじゃ死ぬぞ? 瑞稀から精液を貰えよ?」
「…………」
羽音は俯いたまま静かに首を横に振った。
「なんで? お前、死にたいのか?」
カナデが声を荒げる。
「お前が瑞稀に抱かれれば、何の問題もないだろう? なのに何で?」
「何でって……。僕は、インキュバスとして瑞稀に抱かれたくなんかない」
「なんだと?」
「僕は、来栖羽音に戻りたい……」
「本当に強情なアホだよ。死んじまったら意味なんかねぇだろうが……」
そう話している間にも、羽音は少しずつ意識が遠退いていくのを感じた。
「俺の友人だったインキュバスも、そんな綺麗事を言って死んでいった」
「え?」
「あいつも本当に馬鹿な奴だったよ」
「死んだ友人って……もしかして、ハク」
「ああ、そうだ。俺はそんなハクを見ていることしかできなくて悔しかった。だから、俺は好きでもない男を犯すことを躊躇いもしなかった」
今まで見たことのないカナデの辛そうな表情に、羽音は言葉を詰まらせる。
「それに、お前を見ているとハクを見ているようで辛い。だから、放っておけない。とりあえず、これを置いておくから食え」
「何それ?」
「白百合だ。これを食えば、少しは生き長らえるぞ」
「ありがとう。でも、いらない」
「いらない? お前、本当に死にたいのか?」
「うん。そうだね……僕は、死にたいのかもしれない」
そう言いながら笑う羽音が、透き通るように綺麗で……カナデの背中をゾクゾクっと寒気が走り抜けた。
「僕は生まれ変わったら人間になりたい。そしたら、もう一度、瑞稀と恋をするんだ」
それは、羽音の儚い夢だった。
「瑞稀……会いたい……」
羽音は少しずつ、意識が遠退くのを感じて静かに目を閉じた。
「羽音。遅くなってすみません」
優しい声が聞こえてきた瞬間、羽音の体が宙に浮いた。
「羽音、お待たせしてすみません」
「あ、瑞稀だ……」
「はい。明日から冬休みだから、ずっとずっと一緒にいられますよ」
瑞稀がふわりと微笑めば、白百合の甘い香りが室内を満たしていく。
今の羽音には、その香りで欲情する力さえなく、逆にそれに生かされているような気がする。
「いい香り……」
羽音は、白百合の香りを思いきり吸い込んだ。
瑞稀は、羽音を抱き抱えたままベッドに腰を下ろす。そして、羽音を抱き締めてくれた。
「羽音」
優しく微笑まれてから、そっと口付けされる。その柔らかい感覚に、唇に感じる温もり……凍えそうな心に、小さな蝋燭が灯されたようだった。
「瑞稀のキス好き」
「俺も、羽音とのキスが好きです」
「んッ、ふぁ……んん」
「はぁ、ん、こら、羽音逃げるな……」
羽音が酸素を求めて瑞稀から離れて行けば、腕を引かれて再びその唇に捕まってしまう。
「僕の生気を……受け取ってください」
「はぁ、あ、あぁ……」
いつの間にか瑞稀に両手首を掴まれてしまい、羽音は唇を差し出す以外に方法は残されていない。瑞稀の熱い舌と、熱い唾液を口一杯に頬張った。
「羽音、お願い……星屑にならないで……」
瑞稀の悲痛な声が、静かな夜に吸い込まれていった。
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