Episode9 新しい朝

「ん、んん……」

 カーテンの隙間から差し込む真っ白な光に、羽音が目を覚ます。体を少し動かすだけで、鈍い痛みが全身を駆け抜け、羽音は顔を顰めた。

 すぐ隣に温かな存在を感じ視線を移せば、まだぐっすりと眠っている瑞稀がいる。

「……ようやく、結ばれたんだ」

 ズキンズキンという鈍い痛みと、体中に瑞稀が付けた鬱血痕が、それを教えてくれた。

「でも良かった。インキュバスには戻ってない」

 羽音が胸を撫で下ろしながら、そっと瑞稀の頬を撫でる。昨夜散々乱れた自分が、今になって恥ずかしくなってしまった。羽音は頭から布団を被って、体を丸くした。

「なんですか、その反応。昨晩、散々エロいことしたくせに」

「み、瑞稀……起きてたの?」

「あんなに乱れておいて、そんな初心うぶな反応をしないでください」

「そ、そんな風に……言わないで……」

 林檎みたいに顔を赤くしながら狼狽えている羽音を見て、瑞稀がケラケラと笑っている。

「あー、可愛い」

 瑞稀と迎えた初めての朝は、昨夜深々と降り積もった雪がキラキラと輝いていて、外では小鳥が可愛らしい声で鳴いている。

 一晩中、瑞稀が抱き締めていてくれて、とても温かかったのを思い出した。


「ほら、洋服乾きましたよ。着てください」

 ベッドから抜け出した瑞稀が、羽音の洋服を手渡してくれる。

「あ、ありがとう……」

 羽音は、自分も何も身に着けていないことに今更気付き、慌てて洋服を着たのだった。

 教会から出た頃には、雪はもう降りやんで空には綺麗な太陽が燦燦と降り注いでいた。教会の屋根に積もった雪が朝日を浴びて輝き、鳩が群れを作って空を飛び交っている。

 普段と変わらない光景なのに、二人で迎えた初めての朝は全てが真新しく、大切な物に思えた。


「羽音。貴方にどうしても話しておきたいことがあるんです」

「話しておきたいこと……?」

「はい」

 瑞稀が優しく微笑んだ瞬間、目の前に真っ青な湖が広がった。

 湖は、いつもと変わらず豊かな水を湛えて、雲一つないくらいに晴れ渡った空を映し出している。そして、真冬の日差しを浴びて、眩しいくらいに光を反射させている。昨日、死んでしまおうと、意を決して飛び込んだ湖とは全く違う姿に、羽音は目を細めた。

 あの時、瑞稀が助けにきてくれて本当に良かったと思う。

 涼しい風が、羽音の髪をサラサラと揺らした。

「奏が言っていた通り、俺はこの学園に来る前、インキュバスである彼を抱きました」

「…………」

「俺は、奏のせいで心に深い深い傷を負い、この学園にやってきたんです」

 瑞稀がニコッと笑って見せるんだけど、その笑顔は何だか痛々しく見える。羽音は、そっと瑞稀の頬を撫でててやった。

「だから、俺が悪魔を……インキュバスを憎んでいたのは本当です」

 瑞稀が少し寂しそうな顔をしながら羽音を見つめる。そのスッと切れた涼しげな目元には、うっすら涙が浮かんでいた。

「奏が、貴方もインキュバスだって言っていたのを聞いて、正直ショックでした」

「瑞稀……」

「でも、騙されたとは思わなかった。ねぇ、羽音……」

「……なに?」 

 羽音は酷く真面目で、それでいてどこか悲しそうな顔をする瑞稀の視線を、真正面から受け止める。瑞稀が自分に真正面からぶつかってきてくれたように、自分も瑞稀と正面から向き合ってみたいと思った。

 ──大丈夫。瑞稀ならなんでも受け止めてくれるから。

 羽音には、そんな確信があった。

「羽音は、貴方以外のインキュバスを抱いた俺を、汚いと思いますか?」

 瑞稀が、傷ついた子供のような顔で羽音を見つめた。その、すがりつくような瞳に、心がギュッと締め付けられる。

「それから、インキュバスを恨んでいた俺を、愛してくれますか?」

 今にも泣き出しそうな瑞稀の手に、羽音はそっと指を絡めた。 

 その時、羽音は初めて瑞稀の本当の言葉に耳を傾けたことに気が付く。今までは、自分が嫌われるかもしれないということばかりを気にして、自分だけが苦しいのだと思っていた。でも、そうではなかった。

 瑞稀はよく、「自分の体は汚い」と言っていたのを思い出す。彼も、自分と同じように苦しんできたのだ。

 羽音は、ずっと瑞稀はインキュバスを恨んでいることを知っていた。愛してもいないインキュバスを抱いてしまったことを、ずっと後悔していて苛まれていたに違いない。

 それだけではない。自分とは関係のない、全てのインキュバスを恨んでしまった事さえ悔やんでいる。

「瑞稀。君は、本当に優しいんだね」

 涙が溢れ出そうになるのを、唇を噛んで必死に堪えた。その優しさが、痛い程体に胸に突き刺さる。

 息もできない位苦しいのに、体が震えるほど幸せなのだ。羽音は、心の底から愛される、ということを瑞稀から教えてもらった。


「瑞稀、僕はね……インキュバスのおさの孫として生まれました」

 羽音は、瑞稀にそっと語り掛ける。昨日の晩に思い出したこと、全てを彼に打ち明けよう……そう心に決めていた。

「インキュバスは、今まで奏がしてきたように、不特定多数の生殖能力のある若者を襲い、その精液を搾り取ります。僕達インキュバスは、精液がなければ生きていけないからです。……でも、僕にはできなかった」

 羽音は唇を噛み締めたまま俯いた。打ち明けると決めたものの、言葉が漏れるたびに胸が締め付けられそうだった。それでも必死で、言葉を紡いでいく。

「僕は、インキュバスのくせに、愛してもいない人と契る事ができなかったんです。僕は、本当に心から愛する人とだけ抱き合いたかった」

「羽音……」

「僕は、長の孫のくせに出来損ないのインキュバスでした。だから、片羽をもぎ取られて、人間界に追放されたのです」

「片羽をもぎり取られて……だから、貴方には片羽しかないんですね」

 瑞稀が納得したように何度か頷く。羽音は、そんな瑞稀に笑いかけた。

「そして行き着いたのがここでした。僕はミセス・サラの力で、来栖羽音として生まれ変わったんです」

 羽音の心に迷いなんてなかった。

 これで、裏返しにされていた、自分のカードが全て表になった。己のことを思い出し、それを愛する人に打ち明けられた。

「僕は、瑞稀が自分以外のインキュバスを抱いていたって構いません。汚いとも思わない」

「羽音、羽音……」

 瑞稀が涙をうっすらと浮かべながら懸命に微笑む。その笑顔に、羽音も微笑み返した。

 ──君もずっとずっと怯えてきたんだね。でも、大丈夫。これからは、僕がいる。

「瑞稀が僕の全てを受け入れてくれるのなら、僕も君の全てを受け入れます。僕は、瑞稀を愛してます」

 その瞬間、羽音は瑞稀に抱き締められた。強く強く……。あまりの力強さに、背骨が折れるのではないか、と不安になる位だった。

「ありがとう、羽音」

 瑞稀がまるで真綿に触れるかのように、優しいキスをくれた。 

 それでも、昨夜キスをし過ぎた唇は、腫れぼったくてズキッと痛む。そんな事さえ、愛おしかった。


「羽音、朝食に急ぎましょう」

「はい。きっと無断外出なんてしたから、ミスター・レンが怒ってるでしょうね」

「きっとそうですよね。あーあ、また謹慎処分かな……」

「さあ、わかりません。僕は優等生だったので、無断外泊なんてしたことがないし」

 青ざめた顔をしている瑞稀を見て、羽音がクスクスと笑った。

「大丈夫ですよ。一緒に怒られましょう」

「羽音、貴方やけに男らしいですね? 昨夜はあんなに可愛かったのに……」

 それを聞いた羽音は、また赤面してしまった。

「僕は、瑞稀となら怖いものなんてありません」

 顔を真っ赤にしながら歩き出す羽音を瑞稀は後ろから抱き締めて、その首筋に口付けた。

「俺も、羽音と一緒なら、怖いものは何もありませんよ」


◇◆◇◆


「二人で仲良く無断外泊とはな……」

 食堂で待ち構えていたミスター・レンが、羽音と瑞稀を見て苦笑いをしている。

「天下の生徒会長様が、謹慎開けて早々、随分大胆じゃないか?」

「は、はい。すみません!」

 羽音が深々と頭を下げている横で、瑞稀はスンと涼しい顔をしている。

「九条君は、反省してないのか?」

「しています。申し訳ありませんでした。でも……」

 瑞稀も羽音に倣い、頭を下げる。

「羽音は僕の物ですから、もうちょっかいは出さないでください」

 真面目な顔をしてミスター・レンに言い放った。

「ほう……昨夜は、随分熱い夜を過ごしたようだな……」

「そうですね。お陰様で、今日は体が気怠いです」

「成る程、成る程……」

 お互いが、和やかな笑顔で話しているものの、その笑顔は心の底から笑っているように思えず……羽音はハラハラしてしまった。

「まぁ、もうミセス・サラもお二人のことは公認のようなので、今回はお咎めなしだそうだ」

「え? 本当ですか?」 

 羽音の表情が一瞬で明るくなる。それを見て、ミスター・レンが大きな溜息をついた。

「だからと言って、あんまり羽目を外してイチャイチャしないように」

「あ、はい。わかりました」

 顔を真っ赤にしている羽音の横で、瑞稀は相変わらず「我関せず」と言った顔をしている。

「わかりましたか? 九条君。あんまり来栖君にちょっかい出さないように」

 それを聞いた瑞稀がニヤリと不敵に笑う。

「善処はしますが、何せ僕の恋人は可愛いので」

「君って人は……」

 ミスター・レンは顔を引き攣らせた。

「とりあえず、これ以上学園の風紀を乱すような行為は慎むように。今後も、十分気を付けてください」

 打って変わって、ミスター・レンが真面目な顔をして二人を見つめた。


「瑞稀は、なんであんなにミスター・レンに歯向かうんですか?」

「え?」

 放課後、二人で待ち合わせをしていた渡り廊下からは、湖に沈んでいく夕日がよく見える。一日の終わりを知らせる鐘の音が学園中に鳴り響き、古い教会に蝋燭の火が灯された。

 園庭には大きなモミの木が運び込まれ、庭師たちが様々なクリスマスの飾り付けをしている。そのオーナメントがキラキラと光り輝いていて、とても綺麗だ。段々とクリスマス色に染まっていく学園を見ることが、羽音は楽しくて仕方なかった。

「はぁ……無自覚に周りの男を振り回すなんて、本当に天然って怖い……」

「ん? 何ですか?」

「なんでもありません」

 鈍感な羽音は、まさか瑞稀が自分の恋人を守る為に、ミスター・レンに牽制をしたとは思いもしない。そんな羽音を見た瑞稀が大きな溜息をついている。

「それにしても、ミセス・サラは何で僕達を容認してくれるんでしょうか? いくら彼女が優しく理解のある御仁とは言え、こんなに迷惑をかけたのに…」

 羽音が、渡り廊下の手摺にもたれながら首を傾げた。そんな姿も、瑞稀には無邪気で可愛らしく映るのだろう。自然と口角が上がっていく。

「俺の予想なんですが、ミセス・サラは、過去にインキュバスと縁があったのでは?」

「ミセス・サラが?」

「はい。まぁ、あくまでも想像なんですが……」

 瑞稀が、遠くを見つめながらポツリと呟く。

「羽音も、そして蓮見奏のことも。彼女ならインキュバスひとりを葬ることぐらい造作もないはず……でも、良き悪しきに問わず、悪魔の力を封じて人として生かした。ミセス・サラはインキュバスに、何か強い思い入れがあるような気がしてなりません」

「……そう言われると確かに……」

「憶測の域を、出ませんけどね」

 羽音はずっと不安だった。鼻の奥がツンとしたから静かに瑞稀を見上げる。そこには優しい笑みを浮かべた瑞稀がいた。

「でも、奏が瑞稀を誘惑してきたら、君はまた、奏に欲情してしまうのでしょうか?」

「え?」

「君は、悪魔を魅了する『戒めの白百合』だから」

 拗ねた子供みたいに下唇を尖らせる羽音を見て、瑞稀はびっくりしたように目を見開く。

「嫌なんです。君が、僕以外の人間を触ることが……」

 常に平常心を保っているように見える羽音の、目まぐるしく変わる表情に瑞稀は釘付けになってしまっている。

「もしかして、羽音……ヤキモチ妬いているの?」

「はい!? ま、まさか、ヤキモチなんて!?」

 分かり易く狼狽える羽音を見て、瑞稀が嬉しそうに笑っている。

「大丈夫ですよ。俺はあの時抱いたインキュバスの顔さえ覚えていないんです。ただとても怖かった記憶しかない」

「瑞稀……あ、あの、変なこと言ってごめんなさい」

「いいえ。大丈夫です。それに僕は、羽音以外の人に欲情することなんてありません」

「え……?」

「貴方以外の人を抱く事なんて、一生ありませんから。だから、覚悟していてくださいね。」

「瑞稀……んッ」


 瑞稀が笑いながら羽音に不意打ちのような口付けをすれば、その場にいた生徒が一斉に黄色い悲鳴を上げて渡り廊下が騒然となる。

「せ、生徒会長様と九条君が、く、口付けを……」

「ヤバいヤバいヤバい!!」

「なんて神々しい……!!」

 その騒ぎを聞きつけたミスター・レンが、血相を変えて瑞稀を叱りにきたなんて……言うまでもないだろう。

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