Episode7 暴かれた真実

 羽音は夢を見た。

 ミセス・サラの前には、インキュバスが蹲っている。その背中には、烏のように真っ黒な羽が生えていた。

「さぁ、神に跪きなさい」

 その凛とした声とともに、そのインキュバスに聖水を振り掛ける。

「グハッ!! うわぁぁぁぁぁぁッ!!」

 静かな教会に、断末魔が響き渡る。その華奢な体からは煙が立ち上り、悪魔はもがき苦しみながら床を転げ回った。

「クソがッ!? 俺は、俺は……人間になんかなりたくねぇ!!」

「お黙りなさい。貴方は少々人間に危害を加え過ぎました。神の元へ召されなさい」

 そう言いながら、ミセス・サラは透明に輝く水晶玉を取り出した。

 ――あ、あの水晶玉は……。

 羽音には、その水晶玉に見覚えがあった。いつも羽音が肌身離さず持ち歩いている水晶玉……それに、とてもよく似ていた。

「カナデ、今日から貴方は人間として生きていくのです」

「ふざけんな、くそババァが……俺は、インキュバスの『カナデ』だ。人間になんかなるもんか…!」

「困った子ね……」

 ミセス・サラがカナデと名乗ったインキュバスの傍に座り込み、その体をそっと撫でながら、まじないを唱える。それは、古くキリスト教に伝わる、悪魔払いの呪文だった。

「クソがッ! クソがッ! クソがぁぁぁぁぁ!!」

 カナデの叫び声が消え、再び教会に静寂が訪れる。

 今、ミセス・サラの目の間にいる人物は、烏のように真っ黒な羽に、コウモリのように真っ赤な目をしたインキュバスではなかった。栗色のサラサラとした髪に同じ色の瞳をした青年だった。きっとこの青年を見た人々は、そのあまりに整った外見に、見惚れることだろう。

 この瞬間……インキュバスは、人間へと生まれ変わったのだった。


「夢……か……」

 羽音は一瞬で現実へと連れ戻される。何だか不思議な夢を見た気がした。

 重たい体を起こし、ふと園庭を見れば、大きなモミの木が運び込まれてくるところだ。

「もうすぐ、クリスマスか……」

 あれだけの騒ぎを起こしてしまった自分が、クリスマスを祈るなんて間違っていることだなんてわかりきっているけど、羽音の胸はときめいて仕方ない。もしかしたら、今年はサンタクロースが自分の所にも来てくれるかもしれない……そう思えてならないのだ。

「この恋が、クリスマスに魔法をかけてくれる」

 羽音は、生まれて初めて幸せを感じることができた。

 冬は驚くくらい日が差し込む時間が短い。あっという間に太陽は森の向こう側に沈み、いつの間にかキラキラと瞬く星々が空に浮かんでいた。

 謹慎処分中の羽音は、夕方に一度だけ教会への外出を許されている。

 出掛ける間際に、最後に瑞稀に会った時に付けられた、首筋と鎖骨のキスマークが薄くなっていることに気付き、少しだけ寂しさを感じていた。自分の中の瑞稀が、少しずつ消えていってしまうように思えたから……。

 羽音はコートを羽織って、教会へと向かった。


 教会の重たい木の扉を開けると、フワリと温かい空気に包まれる。

 大きな暖炉では、パチパチと音をたてて火が燃えている。ユラユラと揺れる燭の灯が、柔らかな光で室内を照らしていた。

「やっぱりここは落ち着くな……」

 羽音の顔が自然と綻んでいく。

 今日で、謹慎五日目だ。少しだけ、制限された生活に窮屈さを感じていた。

 羽音は教会の側廊をゆっくり歩き、祭壇の前で静かに跪く。持ってきたロザリオを取り出し、ギュッと握り締め目を閉じた。羽音はこうやってここにいる瞬間だけは、記憶を持たない自分でも、許されて認められて、様々な不安という名の枷から外れることができているように感じていた。

 ここには、悪魔も天使も人間も……そういったものは関係ない。そう感じることができたから。

 次の瞬間、教会の扉が重たい音をたてて開き、冷たい外の空気が、サーッと教会の中に入り込んできた。

「え? こんな時間に誰だろう……」

 羽音は眉を顰めながらスッと立ち上がる。この時間は、他の生徒は外出禁止なはずだ。

 誰かが教会を訪れるなんて考えられない。

「なんだろう、この変な感じ……」 

 羽音の中の危険を知らせる警笛が、一斉に鳴り出すのを感じた。教会の扉の方を注意深く見つめれば、一人の人物がゆっくりと建物の中に入ってくるのが見えた。

「……誰だ? なんでこんな時間に……」

 服装からして恐らく生徒だろう。羽音は何とも言えない恐怖を感じて思わず体を震わた。ただならない雰囲気に自然と後ずさった。

「嫌だ、来るな」

 その人物は、ゆっくりゆっくりと羽音に近付いてくる。重たい靴音が、静かな教会に響き渡った。

 羽音の鼓動がどんどん速くなり、呼吸が浅くなる。

 二人の距離が近くなる度に、少しずつその人物の容姿が薄暗い教会に浮かび上がってきた。羽音はその姿に目を配り、じっとその場に佇む。

 ある程度距離が縮まったところで、羽音は思い切って、その人物に声をかけた。

「貴方は、誰ですか……?」

「初めまして。生徒会長様」

 羽音の目の前に現れた人物はキャソックに身を包み、気味の悪い悪魔サタンの仮面を付けていた。キリスト教でその存在は、神を冒涜し、人を欺くとされている。そんな悪魔の仮面があまりに不気味で、羽音の背中をサッと悪寒が走り抜けた。

 どこかで聞いたことがある声のような…? 羽音は必死で記憶を掘り起こそうとするが、仮面をつけているせいで声が籠ってしまい聞き取りにくい。それが、この人物の気味の悪さをなおさら際立たせていた。

「俺はかなで

「え?」

蓮見奏はすみかなでといいます」

 ……かなで、だって?

 羽音の目が見開かれる。それは今朝見たばかりの夢に出てきた、ミセス・サラが呼びかけていた名前ではないか。

 しかしあれは、ただの夢だ。現実との妙な符合。羽音は不気味さに眉を顰めた。さらに、羽音の目の前にいる青年は、夢に出てきた人物に背格好がとても似ていた。


「来栖羽音君」

 名を唐突に呼ばれて、羽音はわかりやすく肩を震わせた。仮面の奥の表情が、笑った気がする。

「君なら知っているよね? 俺がインキュバスだってこと」

「……インキュバス……?」

「そう、インキュバス」

 羽音は体から、一瞬にして体温が消え去っていくのを感じた。温かい血液が凍り付いて、そのまま魂が吸い取られていく……そんな感覚に襲われる。立っているのがやっとで、羽音は拳をグッと握り締めた。

 ミセス・サラやミスター・レンから、この学園にインキュバスがいるということを、羽音は聞かされたことはない。しかし目の前の人物は、本人が言うように確かにインキュバスなのだろう。夢を見たせいなのか…羽音はなぜかそれが紛れもない事実だということをよくわかっていた。

 学園に…まさかインキュバスが……羽音の額を冷たい汗が伝った。

「お前さ、九条瑞稀とどういう関係なわけ?」

「え?」

「だから、九条瑞稀だよ。知ってるだろう?」

 突然出てきた『瑞稀』の名前に、羽音は思わず目を見開く。この奏というインキュバスは、瑞稀のことを知っているのだろうか……羽音の鼓動が、どんどん速まっていく。

「あいつは俺のもんだ。ちょっかい出すなよ」

「俺のものだって……?」

 奏の一方的すぎる言葉に、羽音は思わず顔を顰めた。

「いつも放課後に、図書館とかでイチャイチャしてたみたいだけど、お前たちさぁ、体の関係あるの?」

「…………」

「あるのか聞いてるんだけど?」

 目を見開いたまま返答できない羽音を見て、奏が意地悪く笑う。

「へぇ……その反応……まだしてないんだ?」

 奏が一気に距離を詰めてくる。何か反応をする間もなく、羽音は顎に指をかけられて強引に上を向かせられた。その瞬間、二人の視線が絡み合い……仮面の隙間から覗く奏の目がゆっくりと細められた。

「近くで見ると、あんためちゃくちゃ綺麗な顔してんね」

「……ふざけるな!」

 羽音の両腕が勢いよく奏を突き飛ばした。後方に蹈鞴を踏む奏は、その瞳に明らかな怒りを浮かべた。

「ふざけるなは、こっちの台詞だよ」

「え?」

「九条瑞稀は俺の物だ」

「なんだと?」

「だってさ……」

 いつの間にか、大きな天窓からキラキラと蒼白い月光が差し込み、教会を淡く照らしていた。

 こんな夜は、インキュバスの動きが活発になるから注意しなければならない。インキュバスは、無慈悲に若い男から精液を搾り取る、低級な悪魔なのだから。


「九条瑞稀が、初めて抱いたのは俺だよ」

「……え?……」

「俺は、あいつと契ったんだ」

 羽音を見つめながら、奏がうっとりとした声を出す。

「……瑞稀と契った……? じゃあ、瑞稀を二度も襲ったインキュバスって……」

「そう、俺だよ。何もあの甘ったるい花の香りに影響を受けるのは、お前だけじゃないんだよ? あぁ、お前は毒されすぎだけどな。お前程じゃないにしても、少なからず影響は受ける」

「…………」

 黙って俯いてしまった羽音に、奏は再び近付いてその顔を覗き込んだ。

「ショックか? 瑞稀と体の関係を持った男が、目の前にいて……。しかもその相手がインキュバスだった、なんてな?」

「…………」

「あんだけエロい事をしてたんだから、さっさとヤッちまえば良かったのに。本当に馬鹿だなぁ」

「な、なんで知ってるんだ?」 

 羽音の顔に困惑の色が濃く浮かぶ。それを見た奏は殊更おかしそうに笑った。

「だって見てたもん。図書館や薔薇園でのエロいキス」

「……なんで……」

「まさか、あの優等生で有名な生徒会長様が、あんなエロいことしてるなんて、思いもしなかったけどな」

 ククッと羽音の目の前で、奏が笑う。

「でもさ、あんまりエロいから、見ててめちゃくちゃ興奮したよ」

 そっと耳打ちされれば、カァッと顔が火照っていくのを感じた。

「因みにさ、あの写真を掲示板に貼ったのは俺だよ」

「え?」

「だって、面白くないじゃん。俺の瑞稀に手を出すなんて。だから、二人の関係をぶっ壊してやろうと思った」

「なんで……なんでそんな事……」

「瑞稀を自分だけの物にしたいから……に決まってるじゃん? お前なら、この気持ちわかるだろう? それに……」

 軽薄そうな声色から、地を這うような低い声になっていく奏の迫力に、その場の空気がピリピリッと張り詰めているように感じた。

「愛してるとか、ずっと一緒にいたいとか……見てて本当にウザいんだよ。めちゃくちゃ腹が立つ。俺、そういう綺麗事を並べて悦に入ってる奴、大っ嫌い」

 奏の言葉に、羽音は恐怖とともに、怒りを覚えた。震えそうになる口元を、力をこめて開いて。そうして出た羽音の声は、それでも小さく震えていた。

「綺麗事なんかじゃ……僕と瑞稀は本気で……」

「ふーん。本気で愛し合ってるって言いたいわけ? 何を捨ててもいいっていう覚悟があるくらいに愛し合ってるって……」

「それは……」

「ズルいよ、お前だけ。なんでお前だけ、瑞稀にそんなに愛されるんだよ?」

「…………」

「あんな写真を貼り出して、お前等を引き離そうとしたって、結局別れそうにないし」

 奏がズカズカと羽音の近くに歩み寄り、整った羽音の顔を覗き込んだ。

「瑞稀から手を引かないなら、俺、瑞稀にバラしちゃうよ?」

「な、何を?」

「お前の正体」

「……え?……」

「俺、知ってんだよね。お前がなんなのか」

 羽音の震えが、全身に広がっていく。

 この悪魔が、自分のことを知っている……?


「来栖羽音。記憶喪失なんだって?」

「…………!?」

「てことは、自分のことをよく知りもしないまま、瑞稀に言い寄ってたってことだよな」

 羽音は罪悪感に胸が痛んだ。

 それが不誠実に映るかもしれないということは、自分が一番よくわかっている。それがどうしたと言ってやりたくもあったが、自分のことに関して一切わからないままであることは事実で。

 まるで蔑むような、悪魔の笑い声が聞こえる。

「じゃあ、俺が言っちゃおっかなぁ。お前の正体。瑞稀にさ」

「それは! それは駄目だ!! それだけは……」

 羽音は俯いたまま、震える自分の体を抱き締めた。指先は氷のように冷たくて。あんなに瑞稀と重ねた唇が、カタカタと音をたてて震える。

 全てが壊れていく……羽音はそんな強い恐怖に襲われた。

「じゃあ、瑞稀から手を引いてくれるよね?」

 クスクスっと、耳元で奏が微笑んだ。

「じゃなきゃ言っちゃうよ?」

 羽音は俯いたまま、フルフルと首を横に振る。

「お前が誰かと愛し合おうなんて、笑わせんなよ?」

 やはり本当の自分は、瑞稀のような青年と愛し合う資格などない、そんな存在なんだろうか。

 奏の冷たく言い放った言葉が、まるで薔薇の花の棘のように、羽音の胸に突き刺さった。


 ◇◆◇◆


 奏と出会ってから、羽音はずっと考えていた。

 これからの、自分と瑞稀の事を……。


 奏が言った通り、自分が誰かと愛し合うなんて夢を見過ぎていたのもしれない。今、魔法が溶けて現実に戻っただけ。ただ、それだけだ。

 瑞稀に幸せになって欲しい……それが、一番の羽音の望みだった。

「別れよう」

 羽音の中で決意が固まる。

 今なら、瑞稀から離れられる。彼を自由にしてあげられる……そう思えたから。 

「別れようって言ったら、瑞稀はなんて言うだろう」

 別れを受け入れて欲しいのに、別れを拒絶して欲しくもある。羽音の心が、まるで湖面に写り込む三日月のように儚く揺れた。

「でも……瑞稀に会いたい」

 羽音の心は、大きく揺れる。揺れて揺れて、心が硝子玉のように粉々に砕け散りそうになった。


 羽音の謹慎処分が終わりを迎えた朝。

 その日は、朝日がキラキラと眩しくて、教会の鐘が朝を知らせるべく心地よい音色を響かせる。

 羽音は、七日ぶりにミセス・サラの元へと向かう。また、いつものように彼女に会えることが嬉しかった。

「おはよう、羽音」

「おはようございます、ミセス・サラ」

 ミセス・サラはいつものように笑顔で羽音を迎えてくれた。でも、その姿は最後に羽音が見た時よりも、更に衰弱していた。それは、痛々しい程で。その姿を見た羽音の胸がズキンと痛んだ。

「今日からまた頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

 羽音は、ミセス・サラの笑顔を見ることが、とても辛く感じられる。

 今回の騒動で、ミセス・サラは羽音を責めることはしなかった。だからこそ、常に彼女を裏切ってしまった、という罪悪感が羽音の心を苦しめ続けているのだ。

 ミセス・サラの部屋を後にして、羽音は朝食のために食堂へと向かう。

 他の生徒が、自分を見てどう思うだろうか……というのも、やはり気にはなるが、羽音は何より瑞稀と顔を合わせることに戸惑いを感じていた。

「いつ別れを切り出せばいんだろう」

 それに、瑞稀の顔を見てしまえば、きっと心が揺れてしまう。せっかく瑞稀から離れようと決心したのに、その決意は簡単に揺れてしまうだろう。だから、羽音は瑞稀に会うのが怖かった。


「おはようございます、生徒会長」

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「生徒会長!」

 あっという間に羽音は生徒達に囲まれてしまい、びっくりしてしまう。

 きっと自分は、生徒達に冷やかな視線を向けられるだろう……と覚悟をしていただけに、少しだけ拍子抜けしてしまった。

「えっと、心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 羽音が丁寧に頭を下げると、彼を取り囲む生徒達は一様に目をキラキラ輝かせている。

『九条君と、お付き合いされているのは本当なんですか?』

『キスはもうお済なんですよね?』

『体の関係はあるのですか?』

 明らかに、そう羽音を問い詰めてみたい……と、興味津々の生徒達。それが手に取るようにわかってしまい、思わず羽音は苦笑いを浮かべた。

「復帰早々、人気者は大変だな」

 それを見た、ミスター・レンがククッと笑っている。ようやく訪れた日常に、羽音は少しだけ安堵した。

 次の瞬間、食堂が一気にざわめき出す。たった今、食堂に入ってきた一人の生徒に、その場にいた生徒全員の視線が向けられたのだ。

「あ、九条君だ……」

「相変わらずかっこいい」

「生徒会長と、何かお話をするのだろうか……」

 生徒が明らかに色めきだった。

 瑞稀が食堂に入ってきてから、その場は甘い花の香りに包まれて、羽音の呼吸が浅くなる。鼓動が静かに高鳴り、頬が火照る。体が無意識に稀瑞を求め始めたことを感じた。それと同時に、キャソックのポケットの中にある水晶玉が、どんどんと熱を持っていくのがわかる。

 生徒の視線など関係なく、瑞稀は羽音に歩み寄り、その目の前で立ち止まった。

 一瞬にして食堂が騒がしくなる中、みんなが身を乗り出して二人を見守っている。傍にいたミスター・レンが羽音を庇うかのように身構えた。

 久しぶりに見る瑞稀の姿に、羽音の胸は締めつけられる。

 思わず、その姿に見惚れてしまった。そして、別れようと決意しつつも、久々に見る彼に一層魅力を感じてしまう自分に失望もしてしまう。

「やっぱり僕は……」

 羽音は唇を噛み締めながら俯いた。少し力を抜いただけで、涙が出そうになる。

 瑞稀が恋しくて仕方なかった。今すぐ抱き締めて口付けしたい思いを、羽音は必死に堪えた。


「おはようございます、来栖さん」

「あ、おはよう。九条君」

 瑞稀がふわりと微笑むと同時に、花の香りが濃くなる。その香りを、羽音は控えめに吸い込んだ。

 その香りがより一層強く感じられた瞬間、瑞稀の顔が近付いてきてそっと耳打ちされる。

「話がある。今日の放課後、薔薇園で待ってるから」

「え……?」

「ひゃあああああ!!」

 それと同時に、食堂は生徒達の黄色い声援が飛び交う。

「もし、今、俺と別れようって考えてるなら……そんな事はさせないよ」

「どうして……それを……」

「お願い。離れてかないで……」

 羽音の頬に、フワリと温かくて柔らかい物が触れから、瑞稀はそっと羽音の傍から離れて行った。

「やっぱり僕は……瑞稀から離れることなんてできない……」

 羽音の心の中で、一つの新しい感情が芽吹いていた。


 その日一日、羽音は上の空だった。

 たった一つの答えに向かって突き進もうとと決心しても、その思いは簡単に揺らぎ始める。それでもまた悩んで、答えを導き出して、また悩んで……そんなことの繰り返し。

「数学の計算式より難しい。全然答えが出ないや……」

 一日を終える鐘の音が、学園中に響き渡る。空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうだ。いつも淡く校舎を包み込む月も、今日は見られそうにない。

 その透き通った鐘の音色に耳を澄ませているうちに、心が洗われていく思いがする。

「あ、雪だ……」

 最後に瑞稀に会った時、彼はウェディングドレスという薔薇を教えてくれた。真っ白で綺麗な薔薇が、羽音みたいだと照れくさそうに笑っていた。あの日も、今みたいに雪が降っていた。空から舞い降りてくる白い天使に、羽音は目を細める。

「記憶喪失なんだって、伝えてみようかな……」

 羽音はそっと呟いた。

 もしかしたら、瑞稀だったら全てを受け止めてくれるかもしれない……羽音の心に、僅かな希望の光が差し込んだ気がした。

 こんなに自分を思ってくれている瑞稀なら、伝えたことで、一緒に悲しんでくれるかもしれない。もし真実を打ち明けて、瑞稀の心が離れて行ってしまうとしたら、それはそれで仕方ない。また、一人ぼっちの世界へと戻るだけだ。

 ――一人ぼっちなんて、慣れている。

 それでも、羽音は瑞稀を信じてみたいと思った。

「きっと、瑞稀なら大丈夫だ」 

 ヒラヒラと舞い落ちてくる白い天使が、瑞稀の背中をそっと押してくれている気がする。

「行こう……薔薇園へ」

 羽音の気持ちは決まった。それと同時に、自分の中で瑞稀への思いが、揺るぎないものになっていることを感じていた。


 雪は止むどころか、深々と降り続いている。

「うぅ、寒い……」

 羽音はコートを目深に被り、薔薇園へと向かった。 

 辺りはすっかり暗くなり、目を凝らさないと一寸先も見えない……湖のほとりは、暗闇と静寂に包まれていた。

 校舎を出る時、羽音は再び聖水を飲んだ。相変わらず苦くて、喉が焼け付くように痛んだけど、そんなことも今の羽音には気にならない。羽音はもう迷うことなんてなかった。

 薔薇園に向かって、ただ夢中で走り続けた。

「はぁはぁ……」

 薔薇園に着いた羽音は、扉にもたれかかって息を整える。

「ここに瑞稀がいる……やっと会える……」

 そう思うと凄く嬉しいのに、怖くて仕方ないのだ。かじかんだ指先が小さく震えている。

「大丈夫、怖くない……羽音、もう少しだけの我慢だ……」

 勇気を振り絞って薔薇園に一歩踏み入れる。その瞬間、薔薇の甘い香りに包まれた。

「瑞稀はきっと、あの場所にいる」

 羽音の胸が高鳴ってく。

「早く早く会いたい……会いたい……!!」

 一番奥まで進むと、ヒラヒラと舞いちてくる雪の結晶に似た大輪の花を咲かせる、真っ白な薔薇が目に飛び込んでくる。

 ――本当に、雪の妖精みたいだ。

「あった……ウェディングドレス……。瑞稀はきっと、ここにいる」 

 羽音は泣きたくなる思いを堪えて、辺りを見渡す。

「瑞稀……瑞稀……」

 今にも消え入りそうな声で、愛しい人の名前を呼んだ。

「羽音」

「瑞稀……?」

「羽音」

 羽音は、声のする方をそっと振り返る。何度も何度も夢にまで見た、愛おしい声……。

 嬉しくて、鼓膜が甘く震えた。


「瑞稀!!」

 瑞稀の姿を見た瞬間、羽音は勢い良く、その胸の中に飛び込んだ。勢いよく自分に向かって飛びついてきた羽音を、瑞稀は強く抱き締めてくれる。久しぶりに感じるその温もりと、優しい香りに、羽音の心が一気に幸せで満たされていった。

 瑞稀への強すぎる思いが、心の器から次々と溢れ出して言葉にならない。

「ずっと会いたかった」

「ごめんなさい。瑞稀……僕のせいでこんな……」

「羽音のせいじゃない」

「ごめん。ごめんなさい」

 伝えたい思いはたくさんあるのに、目の前の瑞稀が愛おし過ぎて、言葉を失ってしまった。

「もう、うるさい。そんなんじゃないから!」

「んむぅ……あッ!」

 突然、羽音は瑞稀に唇を奪われてしまう。それはまるで「言葉で伝わらないなら、体でわからせてやる」、そう瑞稀に言われているようだった。

 一週間ぶりの口付けは激しくて、瑞稀に食べられてしまいそうになる。

 深く深く唇を重ね合わせて、舌を絡め合う。もう、どちらかの唾液かもわからないくらいに口の中に溜まった甘い蜜を、羽音は夢中で飲み込んだ。

「あ、はぁはぁ……あ、ん……」

 あまりにも激しい口付けに、羽音は酸素を求めて瑞稀の唇から逃げると、

「逃げんなよ……」 

 そう耳元で囁かれて、呆気なく唇を捕らえられてしまう。舌を絡め取られて、歯列をなぞられる。敏感な上顎を舐められた瞬間、羽音の背筋をゾクゾクっと甘い電流が駆け抜けた。

「はぁ……苦し……あ、あぁ……」

「羽音……んっ……羽音……はぁはぁ……ん……」

 唇を重ねる音と二人の甘い吐息だけが、静かな薔薇園に響き渡って。逃げたいくらい苦しい口付けに羽音は頭の芯がボーッとしてくるのを感じた。悪戯に耳を撫でられると、ピクンピクンと体が小さく跳ね上がる。腰が抜けてしまいそうになるのを、瑞稀にしがみついて必死に耐えた。

 ようやく解放された唇で羽音は言葉を紡いだ。

「瑞稀……会いたかった……」

 温かい涙が羽音の頬を伝えば、瑞稀がその涙を舐め取ってくれる。

「別れようなんて考えて、ごめんなさい。僕は今でも……」

「羽音、もういいから……」

「ごめんなさい」

「もういい」

「ごめ……あ、んん……はぁ……」

 羽音の言葉を遮るように、瑞稀に再び唇を奪われてしまい……そのあまりの苦しさに溜まらず「嫌々」をする。もう、立っているのも限界だった。

「羽音、可愛い」

 再び強く抱き締められて、深く深く重なる唇。後はもう瑞稀に、口内を犯されるだけだった。離れていた分、熱の籠った口付けに、羽音の頭はボーっとしてくる。自分の唇を貪り続ける瑞稀に、全てを委ねるしかなかった。

「あ、あん……瑞稀……キス気持ちい……気持ちいい……」

 思わず零れた本音に、瑞稀が満足そうな笑顔を浮かべた。

「ようやく、会えた……」

 瑞稀の頬をそっと撫でた。

 離れていた期間はたった一週間だったのに、それは酷く長い時間に感じられた。

「羽音、大好き……」

「僕も……」

 お互いの唾液でキラキラ光る唇を、もう一度重ねわせようとした瞬間。


「ん?」

「……え?」

 瑞稀が何かの気配を感じたらしく、サッと羽音を自分のコートの中に隠した。

「……瑞稀……?」

「シッ。静かにしてて」

 突然の瑞稀の豹変ぶりに、只事ではない……と、羽音は体を強張らせた。

「誰だ、そこにいるのは?」

 瑞稀が暗闇のほうに向かい、静かに声を掛けた。

 少し離れた所から、ギュッギュッと雪を踏む音が聞こえてくる。その足音は、ゆっくりと羽音達に向かって近付いてきた。

「あーあ……結局これか……」

「何だと?」

「あんな写真まで貼り出したのに、結局あんた達は別れてはくれなかった」

「あんな、写真?」

「そう、あんた達が、今みたいにキスしてる写真だよ」

 少しずつ浮かび上がってくるそのシルエットに、羽音は血の気が引いていくのを感じる。あんなに温かかった体が、再びカタカタと震え出した。

「奏……。どうして、あいつがここに……?」

 羽音と瑞稀の前に現れたのは、あの仮面の男だった。仮面の隙間から覗く瞳が、ゆっくりと三日月のように細められていくのがわかる。そんな仮面の男が、瑞稀に向かってそっと歩を進めた。

「久しぶりだね、九条君」

「……誰だよ、お前」

 そう声を掛けられた瑞稀が、怪訝そうに眉を顰める。

「忘れるはずなんてないだろう? だって、俺は、お前の初めての相手なんだから」

「…………」 

 瑞稀は奏を前にしてもなお、相手のいうことにいまいちピンときていないようだった。

 怪訝そうな表情を崩さない。

「相変わらずいい男だな」

 瑞稀の反応など構わず、そう言いながら、奏が仮面の中でクスクスと笑った。

「お前が、あの写真を?」

「そうだよ。お前達の仲を引き裂くために」

 瑞稀の言葉に、奏が冷たく言い放つ。

「だって、瑞稀は俺の物だろう?」

「は? お前、何言ってやがる」

「本当にわからないの? 俺はさ……」

 奏が少しずつ羽音達の方に近付いてくるのを見て、瑞稀は咄嗟に自分の後ろに羽音を隠した。その様子を見て、奏が眉を顰める。

「思い出してよ。俺は、あの時お前を犯したインキュバスだよ」

「……は? 何言ってんだよ……意味がわかんねぇ」

「覚えてない訳ないだろう? あんなに激しく抱き合ったんだから」

 怒りからか、瑞稀の顔が一気に強張り全身がガタガタと震え出す。奥歯を噛み締めて、奏を真正面から睨み付けた。

「お前と契った後、お前のじいさんの企みのせいで、ミセス・サラに捕らえられた。それで、無理矢理人間にさせられたんだ」

「人間に……?」

「そうだ。ミセス・サラ程、力があるシスターなら、俺達悪魔を封じることくらい、わけないだろうから」

 奏が悔しそうに舌打ちをする。仮面で覆われて顔を見ることはできないが、その場に立っているだけで妙に扇状的で魅力に満ちている……そんな雰囲気を奏は持っていた。元はインキュバスだという話を、簡単に信じてしまうほどに。

「あの夜……お前は俺との口付けを拒絶した。それなのに、羽音とはあんなに熱い口付けをして……」

 奏が、苦々しく羽音を睨み付ける。それを察知した瑞稀が、羽音を庇うように抱き寄せた。そんな瑞稀に羽音は必死にしがみつく。

「瑞稀、お前は俺の物だ」

「何をふざけたことを……俺はお前の物なんかじゃない!」

 瑞稀が大声を出せば、奏はひるむどころか楽しそうな声で笑う。

「ふふっ。俺はふざけてなんかいないよ。でも、忘れらんないんだ。逞しい腕も、蕩けそうな程甘い精液も……今思い出すだけで、体疼く……」

「やめろ、いい加減にしてくれ!」

「なぁ? もう一回、俺を抱いてくれないか?」

「お前、いい加減にしろよ?」

 羽音を抱く腕が、怒りからブルブル震えている。整った顔には血管が浮かび上がり、瑞稀が怒り狂っているのが伝わってきた。

「お前みたいな悪魔を、誰が抱くか……」

 その言葉に羽音は反応し、瑞稀の顔を見上げた。


「瑞稀は、インキュバスが嫌いなの?」

 おかしそうにしながら、嫌にゆっくりとした口調で奏は瑞稀に問いかける。

「当たり前だろ? 誰がお前みたいな悪魔を……」

 それを聞いた奏が嬉しそうに微笑む。きっと、この言葉を待っていたのだろう。

「でもこの学園には、もう一人インキュバスがいるんだよ?」

「なんだって? インキュバスがもう一人?」

 その言葉に、羽音の心臓がバクバクと鳴り響く。呼吸がどんどん浅くなり、体が小刻みに震え出した。この場から逃げ出したいのに、体が凍り付いてしまったように動かない。

「そう。そのもう一人のインキュバスは、人間の皮を被って、お前たちを欺いて生きているんだ」

「…………」

「案外、お前のすぐ傍にいるかもよ?」

「お前、何言って……」

 瑞稀の声が、震えているのがわかる。

「ね? 羽音。ううん。もう一人のインキュバス」

「何だって……」

「もう一人のインキュバスは、来栖羽音だよ」

「ぅ、嘘だ……そんなの信じられるわけがない」

 瑞稀が恐る恐る羽音を振り返る。その顔は真っ青で、今にも泣き出しそうだ。羽音の心が鷲掴みにされたかのように痛んだ。

「違う。僕はインキュバスなんかじゃない。僕は、人間だ」

「ふーん。君は自分がインキュバスだって認めないんだ?」

「違う。違う……僕は、僕は……人間だ! インキュバスなんかじゃない!」

 だって自分のことは何もわからないのに。悪魔に言われたことを真に受けて、そうなんだと認められるはずがない。

 羽音は必死に首を横に振り続ける。


「なら、いい事を教えてあげる」

 奏は自慢げに両腕を組んだ。

「羽音は、瑞稀から甘い花の香りを感じた事があるだろう?」

「甘い、花の香り……」

「へぇ……その顔だと、思い当たる節があるようだな?」

 羽音の心臓がトクンと跳ねる。思わず奏を見つめた。

「瑞稀、お前は俺達インキュバスの天敵とされている『戒めの白百合』だ」

「戒めの白百合……」

 瑞稀が唸るように呟く。

「そう、お前は、生まれながらに俺達の天敵であり……俺達を誘惑する甘美な存在。戒めの白百合の体から発せられる甘い百合の香りは、俺達インキュバスの本能を目覚めさせ、欲情させる」

「そんな……」

「ただ、俺達インキュバスが戒めの白百合に会える確率は限りなく低い。だからこそ、俺はお前を逃したくなかった。戒めの白百合の精液は、俺達からしたら何よりのご馳走だからな」

 瑞稀の顔が青ざめ、その小刻みに震える唇は何か言いたそうに開かれたけど、それは言葉にはならなかった。ただ、呆然と天を仰いだ。

「瑞稀の白百合の香りに反応し、欲情した……それが、羽音がインキュバスであるという、何よりの証拠だ」

 その言葉を聞いた羽音も、目の前が真っ暗になるのを感じていた。


 羽音が瑞稀から感じていた甘い花の香りは、確かに、白百合の香りだったのだ。

 瑞稀は、インキュバスの本能を目覚めさせる、戒めの白百合だったから、羽音はあんなにも瑞稀に欲情してしまった……バラバラになっていたパズルのピースが、パチンパチンと音をたててハマっていった瞬間だった。

「だから残念なことに、羽音が瑞稀の傍に居続ければ本能が覚醒し……再び、インキュバスになってしまう。お前たちは、出会ってはいけない運命の二人だったんだ」

 仮面の中で口角が、ニタリと吊り上がったのがわかる。

 羽音は体も思考も、すべてが崩れ落ちそうになるのを必死に耐えていた。寒さとは別に、体が震えてくる。そんな羽音の頬に、雪の結晶が落ちて……音もなく消えてった。

「瑞稀、わかっただろう? そいつも、ミセス・サラに人間にされたインキュバスだ」

「羽音……本当なのか?」

 瑞稀が取り乱しながら、羽音の華奢な肩を掴んだ。

「羽音……何か言ってよ……お願いだから……」

「…………」

「なぁ、羽音……俺は羽音の言ったことを信じるから……」

 俯いたまま何も言えない羽音の肩から、瑞稀の腕がダランと落ちていった。

「そいつは、インキュバスの身分でお前に近付き、心を弄んでいたんだ」

「嘘だ、嘘だ……! そんなわけが……」

「お前は、結局インキュバスを魅了する存在なんだよ。そもそも、羽音は戒めの白百合としてのお前に欲情していただけで、愛してなんかいなかったのかもよ?」

「羽音……」

「どんなに抗ったって、それが真実。つまり、ゲームオーバーだ」

 奏がクスクス笑った瞬間、羽音は瑞稀の腕を振りほどき走り出す。

 背に、彼の声が届いた気がしたが、そんなものは羽音の足をとめることはできなかった。


 走りながら、羽音の大きな瞳からボロボロと水晶玉のような涙が溢れ出してくる。

 奏の言葉に、何も反論ができなかった。 瑞稀は自分が記憶喪失だということすら知らなかった。今更そんなことを言っても、まるでその場を取りつくろうために出てきたでまかせのようではないか。

 きっともう何を言っても、信じてもらえそうにない。何より、羽音は自分で自分のことが信じられずにいた。

「もう、瑞稀の傍にはいられない……」

 胸が締め付けられて、苦しくて……。いっそ、このまま湖に身を投げてしまおうかとさえ思う。

「羽音! 羽音!」

 遠くから瑞稀が自分の名前を呼ぶ声が再びしたものの、羽音は振り返ることはせず、夢中で走り続ける。

 行く当てなどなかったけど、ただ必死に瑞稀から逃げ続けた。とにかく瑞稀から逃げたい一心だった。

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