Episode6 引き離された二人
引き裂かれた二人 人間とは、非常に噂話が好きな生き物で、一度噂話に火が点けば、瞬く間にその火は燃え広がってしまう。ミスター・レンは、身を持ってそれを知ることとなる。
ある朝、食堂前にある掲示板に一枚の写真が貼られていた。普段その掲示板は、行事のお知らせのポスターだったり、成績の順位表だったりが貼られている。そんな掲示板に張り出された一枚の写真に、全生徒の視線が釘付けになっていた。
「ん? なんだ?」
いつものようにミスター・レンが食堂に行くと生徒がいつになくざわついている。
「あの生徒会長が、こんな淫らなことを……?」
「なんかガッカリだなぁ」
「本当だよ、騙された気分だ」
掲示板の前にできた生徒の人混みを掻き分け、掲示板へと向かえば、そこには生徒達に取り囲まれ俯く羽音の姿があった。いつもは、学園の高嶺の花として生徒達の憧れの的だった羽音が、他の生徒に責め立てられる姿など想像がつかなかっただけに、ミスター・レンは思わず眉を顰めた。
「一体何事だ? ……ん? あれは……」
ミスター・レンの目に飛び込んできたのは、掲示板に貼られた一枚の写真だった。
その写真を目にした生徒は、批判をする者もいたが、明らかに頬を赤らめて欲情している者もいる。
「まさかあの生徒会長が……」
「ヤバい……興奮しちゃう」
「あの生徒会長と転校生が……」
咄嗟に、ミスター・レンは羽音を自分の後ろに隠し庇おうとした。ざわめき立つ生徒に向かい、ミスター・レンは声を張り上げる。
「さぁ、皆さん朝の礼拝の時間になります! 速やかに教会へと移動してください!」
咄嗟に掲示板に貼り出された写真を取ろうとしたミスター・レンの腕を羽音がギュッと掴んだ。
「いいんです、ミスター・レン。悪いのは僕ですから」
「来栖君……」
「本当に、申し訳ありません…処分はきちんと受けますから」
「いや、それは……はぁ…参ったな……」
それも仕方ない。その写真に写し出されていたものは、羽音と瑞稀が熱い抱擁を交わしているものだったのだから。まるで『何があっても離れたくない』と言わんばかりに、瑞稀の腕は羽音の腰に回され、羽音は瑞稀の首に腕を回し強く抱き合っている。深く重ねられた二人の唇が、嫌に艶かしい。
これを、年頃の男子生徒が見ようものなら、興奮するのも無理はない。それ程衝撃的なものだったし、刺激的なものでもあった。
「しかし、一体誰が……」
明らかに故意に晒されたこの写真。
正直、年頃の青年達が集まって寮生活を送っていれば、いくら同性同士と言えど色恋沙汰に発展することは珍しくはない。現代の神父には昔のように厳しくはなく、タブーとされていることもほとんどないため、そういった生徒には厳重注意くらいで、特に罰則などは与えられていないのが現状だ。
しかしながら、ここまでの騒動になってしまったのならば、何らかの対処をしなければならないだろう。しかも、写真に撮られているのが、生徒達の憧れの的である来栖羽音だ。生徒会長まで勤める彼の不祥事を、見て見ぬふりはできないだろう。
「はぁ……マジかよ」
ミスター・レンは大きな溜息をつく。
それでも写真の中の二人は、幼いながらも真剣に思い合っているように見える。
若い二人の事を思えば、引き離してやることがそれぞれの幸せだと思っていた。しかし、かたや記憶を失い過去も本当の己もわからないままの青年。かたや心的な外傷を受けて志し半ばで立ち止まっていた青年。そんな二人が、今現在、必死に思い合ってることがミスター・レンには痛いくらいに伝わってきた。
「もう、引き戻す事はできないところまで来ていたのか……」
出来ることならば、物語が始まる前に止めてやりたかった。それが教師として、大人としての自分の役割だと思っていただけに、ミスター・レンは奥歯を噛み締めた。
しかも、羽音は瑞稀と会う為に、ミセス・サラから譲り受けた聖水を使ったに違いない。あの冷静な優等生を狂わせてしまう程、恋は人を盲目にするのだと改めて思い知らされた。
「生徒会長……最低だな」
羽音の避難する言葉が聞こえてくる中、羽音は俯いたまま顔を上げることもできない。
「ごめんなさい、ミスター・レン」
華奢な体がカタカタと震え、今にも消えてしまいそうな程儚く見えた。「ごめんなさい」
自分に向かい、頭を深く下げる羽音に近付いて、ミスター・レンはその髪を優しく撫でてやる。
「とりあえず、こっちに来い。他の生徒はすぐに教会に向かうように」
不満げな生徒たちを残し、ミスター・レンは羽音の手を引いて食堂を後にした。
「来栖君、大変なことになりましたね…」
突然医務室に押しかけてきた羽音とミスター・レンに嫌な顔をするでもなく、ミスター・ハルが心配そうに羽音の顔を覗き込んだ。
「だから、私にしろって、あれ程言っただろうに?」
「こら、ミスター・レン。こんな時に冗談なんて言うもんじゃありません」
不貞腐れたような顔をしているミスター・レンを、ミスター・ハルが嗜めている。
「いえ。全て、僕の責任ですから」
酷く落ち込んだような顔で俯く羽音に、ミスター・レンは大きな溜息を付く。
ミスター・レンも、まさかこんな結末になるなんて、全く想像もしていなかったのだから。ただ、彼の想像以上に、瑞稀が羽音に惚れ込んでしまったのだろう。それが、大きな誤算だった。
「どんな罰でも受ける覚悟はしています。ただ……」
「ただ?」
「ミセス・サラをこんな形で裏切ってしまったことが、心苦しくてたまりません」
羽音が、自分の胸の辺りをギュッと掴み、唇を噛み締めている。
「僕を守るためにくださった『滅びの黒薔薇』を、僕は瑞稀に会うために使いました」
「やっぱり九条君に会う為に、あの聖水を使ったのか?」
「はい」
「それは、困った坊やだ」
「申し訳ありません」
羽音が俯いた瞬間、
「お?」
ミスター・レンは羽音の首筋に残る、赤い花弁を見つけてしまう。それはまだ真新しくて、痛々しくさえ見える。明らかに故意に付けられたものだということが見てとれた。
「ところで……君達は、体の関係があるのか?」
「はい?」
「ふふふっ」
羽音が顔を真っ赤にしながらミスター・レンを見るものだから、思わず楽しくなってしまう。この真面目で初々し過ぎるこの青年は、本当にからかい甲斐があるのだ。実に、ミスター・レン好みの可愛らしい反応をしてくれる。
「いやな、君の恋人は非常に独占欲が強そうだから」
「え?」
「ここだよ。あと、ここにも」
ミスター・レンは羽音の首筋と鎖骨をツンツン突ついてみせる。
「キスマーク……あるぜ?」
「えっっ!?」
「あははは。うっかり君に手を出すと、九条君に噛み付かれそうだな」
「ミスター・レン。貴方は意地が悪いです」
「おや、今頃気がついたのか?」
羽音の表情が、少し和らぐのを感じたミスター・レンはホッと胸を撫で下ろす。彼は、このどこまでも真面目で、意地らしい青年が愛おしくて仕方ないのだ。
「ミスター・レン。来栖君を虐めるのはそれくらいにしてあげてください。困ってるじゃありませんか」
すかさずミスター・ハルが助け舟を出してくれる。
「はいはい。…じゃあ、ミセス・サラの所へ行くか」
「……はい……」
ミスター・レンが大きな溜息を付きながら籐の椅子からゆっくりと立ち上がる。続いて立ち上がった羽音の顔色が、より暗くなっていくのを見たミスター・ハルが、思わず羽音へと声をかけた。
「怖いですか? 彼女に会うのが」
ミスター・ハルに羽音が視線を向ける。今にも倒れてしまいそうな顔をしながら、羽音は小さく頷いてみせた。
「ええ。凄く怖いです……」
「大丈夫、俺がついて行ってやるから」
ミスター・レンはそっと囁いてから、優しく羽音の背中を押したのだった。
しかし、ミセス・サラは羽音を非難したり、叱責したりはしなかった。ただ悲しそうな顔をして、
「私が聖水を渡したばかりに……こうなることはどこかで予想していたというのに…でも私は、あなたを放っておくなんてできなかったわ。羽音、学園の秩序も大事ですが、あなたの心の安寧を…私はいつだって願っていますよ」
と、いつも通り微笑んでくれたが、羽音は黙って俯く他なかった。
一思いに、「裏切者!」と罵倒されてしまったほうが、余程楽だったかもしれない。
「大切に使ってね、これが最後だから」
それでも、ミセス・サラは去り際に聖水をもう一瓶だけ、羽音に手渡したのだった。
ミセス・サラの部屋を後にしてからも、羽音は浮かない顔をしていた。
「ミセス・サラ……どんどん衰弱されてますね」
「あぁ…もう長くはないかもしれない」
ミスター・レンの言葉に、一瞬羽音が泣きそうな顔をした。羽音の心痛は、こういったところにも重なってくる。なんて災難続きなんだ…そう思いながら、ミスター・レンはそっと羽音の頭を撫でてやる。
ミセス・サラが羽音に言い渡したのは『一週間の自室謹慎』。礼拝以外の外出を、一切禁止したのだ。勿論、瑞稀に会うこともできなくなる。
「恋人に会えなくなるのが辛いか?」
「九条君は、こ、恋人なんかじゃありません! でも……」
「でも?」
顔を真っ赤にしながら狼狽える羽音は、やはり可愛らしい。
「でも、寂しいです。すごく……」
今にも泣きそうな顔で、何とか笑顔を作る羽音はとても綺麗だった。
ミスター・レンはこの青年を、やはり放ってはおけない。あまりも真っすぐで汚れていなくて、清らかで……それ故、今にも崩れ去りそうな危うさを持っている。
「だって、今すぐにでも会いたい…」
「来栖君」
泣きそうな羽音の頬に触れようとした時、その表情が一瞬にして強張ったのを、ミスター・レンは見逃さなかった。
「ん?」
羽音が、顔を引きつらせながら見つめる先には……。
「あぁ、九条君か……」
そこには、ミスター・ハルに連れられた瑞稀がいた。
瑞稀もミセス・サラに呼び出されたのだろうと、ミスター・レンは咄嗟に思う。羽音同様、瑞稀も何らかの処罰を受けるのだろう。
「大丈夫か? 来栖君」
「はい。何とか……」
聖水を飲んでいない羽音が、瑞稀の傍にいるということは、きっと苦しくて仕方がないだろう。そう思ったミスター・レンが足早に渡り廊下を通過しようと、羽音の腕を掴んだ。既に羽音の頬は赤く火照り、呼吸が酷く浅い。目は涙で潤み、妖艶な表情を浮かべている。明らかに瑞稀の影響を受けているのがわかった。
「さっさと行くぞ」
「はい」
どんどん余裕が無くなっているだろう、羽音が苦しそうに頷いた。
「九条君、早くミセス・サラの所へ……」
それを感じたミスター・ハルもいつものように穏やかな声ではあるが、瑞稀の背中をそっと押した。
渡り廊下は弱々しい朝日が差し込み、教会の屋根に積もった雪がキラキラと輝いている。教会の周りを鳩の群れが飛び、授業開始を知らせる鐘の音が響き渡った。
真冬の冷たい風が瑞稀の黒髪をそっと撫で、揺らしていく。その整った外見に、ミスター・レンは眉を顰めた。
九条瑞稀でなければ……この青年でなければ、例え転入生が羽音の前に現れても、羽音は恋に落ちることはなかったかもしれない。こんなに苦しい思いをすることも……。
──もう少しだ。 いつもは飄々としているミスター・レンでも、さすがに緊張は隠せない。
もし、今ここで羽音が瑞稀から溢れ出す花の香りに飲まれてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか……そう考えれば、いくら肝っ玉の据わっている彼でも、強い戸惑いを感じた。
──このまま何事も無く、この場をあとにできれば……。
二組がすれ違う瞬間、ミスター・レンとミスター・ハルはお互いに会釈をしあったが、羽音と瑞稀は視線すら合わせることなくすれ違った。
ミスター・レンが緊張から解放され、大きく息を吐いた瞬間。隣にいる羽音の気配が一瞬で消えた。
「え?」
ミスター・レンが羽音に手を伸ばしたが、それはあと少しの所で届かなかった。気付いた時には、羽音は瑞稀の腕の中に攫われてしまっていた。
「何をするんだ!?」
そう言いかけたミスター・レンを、ミスター・ハルがそっと宥める。その視線は、まるで「少し見守りましょう」と言っているように見え、ミスター・レンはその言葉を飲み込んだ。
強く羽音を抱きしめている瑞稀の腰に、恐る恐る羽音の腕が回された。言葉こそ交わされることは無いのに、この幼い二人がどれ程真剣に思い合っているのかは、痛いくらいに伝わってきた。
だからこそ、今この場で、無理矢理この二人を引き離すことなど、ミスター・レンにも、ミスター・ハルにもできなかった。
しばらくの間、無言で羽音を抱き締めていた瑞稀が、優しく羽音の唇に自分の唇を重ねた。その口付けを、羽音はそっと受け止める。それから、瑞稀が羽音の耳元で何かを囁いてから、名残惜しそうに体を離した。
キラキラと輝く朝日の中で、微笑み合う二人は、とても綺麗で……ミスター・レンは思わず俯いた。
「まだ子供のくせに……」
小さく呟いて、ミスター・ハルの元へと大人しく戻っていく瑞稀を、羽音と一緒に見送った。
「来栖君、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。ただ、水晶玉が熱くて……」
「おっと……」
フラフラとその場に崩れ落ちた羽音を、ミスター・レンは優しく抱き留めた。
羽音と瑞稀が謹慎処分を受けたその日から、学園は二人の噂で持ち切りだった。
噂と言っても、ミスター・レンが学生達の噂話に聞き耳を立てれば、ほとんどが羨望や嫉妬……と言った内容だった。
容姿端麗、文武両道。おまけに生徒会長を務める羽音の人気は、ミスター・レンの想像以上のもので。食堂で泣いている者もいたし、ショックのあまり寝込んでしまう者もいるほどだった。
加えて、転校早々、所謂『猫側』の生徒の心を鷲掴みにした瑞稀がその相手だったものだから、生徒達が受けた衝撃は凄まじかったようだ。
それぞれが嘆き悲しむ中、それでも、
「あんなにお似合いなのだから仕方ない」
「黙って身を引こう」
という雰囲気が、学園中を包み込んでいる。
ミスター・レンからしてみたら、『生徒会長のくせに何事だ!』という反発が、尾を引かなかったことが何よりの救いだった。
「もう、こんな騒ぎは懲り懲りだからな」
そう呟きながら、授業へと向かったのだった。
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