Episode4 交わってはいけない二人

 いつの間にか、羽音は瑞稀に抱き締められたまま眠っていた。羽音は慣れないキスの連続に疲れ果ててしまい、その後の記憶がない。

「ああ……可愛いなぁ」

 うつらうつらと微睡みながら、羽音は優しい瑞稀の声を聞いた。

「羽音。起きてください」

「んんっ」

 瑞稀に耳元で囁かれれば、くすぐったくて思わず体が震えた。

「起きて。もうすぐ夕食の時間が終わってしまいます」

「夕食……?」

「はい」

 羽音が大きな目を擦りながら顔を上げると、至近距離で瑞稀と視線が絡み合う。その瞬間、羽音の顔が真っ赤になった。

「…………!?」

 つい先程までの自分の乱れた姿が、鮮明に思い起こされたのだ。瑞稀の唇に狂わされ、淫らに喘いで意識を失った、そんな姿を……。

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫……です……」

 羽音は顔から火が出そうになり、まともに瑞稀の顔さえ見ることができない。瑞稀の腕の中から逃げ出そうと身動いだ瞬間、

「離れようとしないでください」

 そう呟いた瑞稀に、腕の中へと引き戻されてしまった。

 再び瑞稀の腕の中に囚われてしまった羽音は、気まずさのあまり目をギュッと閉じた。つい先程まで、あんな行為をしていた自分が恥ずかしくて仕方ない。一体自分達は図書館こんなところでなんてことをしていたのだろうか。

「もしかして恥ずかしいんですか?」

「……はい。恥ずかしくて死んでしまいそうです……」

 素直にコクンと首を縦に振る羽音。今どんな嘘をついて強がったところで、こんな傍にいれば飛び出してしまいそうな程高鳴る心音も、熱を帯びて仕方ない頬も、きっと瑞稀にはバレてしまっているだろう。

 それでも、緊張から体を硬くする羽音と同じくらい、瑞稀の心臓もドキドキと鼓動を打っているのが伝わってきた。

「大丈夫。僕も恥ずかしいです。聞こえるでしょ? 心臓がドキドキいってるの」

「はい。聞こえます」

 照れくさそうに笑う瑞稀に、羽音は何だかホッとしてしまう。


「羽音、貴方は本当に可愛らしい人です」

「僕は男です。可愛いはずなんてありません」

 可愛いなどと面と向かって言われた羽音が、林檎のように顔を真っ赤にしながら思わず顔を背ければ、瑞稀はクスクス笑っている。

「いいえ。貴方は可愛らしいです」

 瑞稀はうっとりと微笑みながら、羽音の頬を両手で包みこんで、コツンと額と額をくっつけた。

「僕にとって、貴方は天使です」

「……天使……?」

「そう。天使です」

 ──違う。僕は、天使なんかじゃない。 

 まるで、今の自分は瑞稀を騙しているように思えて、羽音の胸は何かに抉られたかのように痛んだ。

 それでも瑞稀の傍にいたい羽音は、その真実を喉の辺りで咀嚼して、無理矢理心の奥底に飲み込んでしまう。

 まだ自分さえも思い出せていない、自分の本当の姿は…もしかしたら天使などとは程遠い正体かもしれない。自分の本当の姿を知った瞬間、瑞稀は自分の元を去っていってしまうかもしれない。羽音は、それが何よりも怖かった。ならば、例え瑞稀の前だけでも姿を偽り、天使で居続けたいと思ってしまう。

 それは、真実を欺くという罪悪感と、紙一重の感情だった。

「羽音……明日もこの時間に、図書館に来てくれますか?」

「え? 明日も?」

「はい。俺は、羽音と一緒にいたいです」

 普段は酷く大人びて見える瑞稀が見せた子供のような表情を見れば、羽音に拒絶などできるはずはなかった。

「わかりました。また明日……ここに来ます」

 顔を真っ赤にして、俯いたまま呟けば、

「本当ですか? 嬉しい……本当に嬉しいです」

 瑞稀がホッとしたように笑いながら、もう一度優しいキスをくれた。 

 

 次の日。

 いつもより長く感じた午後の授業。

 放課後が近づくにつれて、羽音は何だかソワソワしてきてしまう。授業だって上の空だし、食事だってなかなか喉を通らない。

 なのに、冬の弱々しい日差しがとても暖かく感じられたり、冷たい風が心地よく感じたり……羽音は、たったそれだけのことが、酷く幸せに思えた。

 校舎の大きな踊り場には、もうすぐ訪れるクリスマスの飾り付けが始まっている。色とりどりのモニュメントに、可愛らしいリボン。その全てが、今の羽音にはキラキラ輝いて見える。

 今までは、自分に相応しくないと憂鬱だったクリスマスが、今年は楽しみで仕方ない。

 羽音は、生まれて初めて胸の高鳴りと、甘いときめきを感じていた。

 そうしてしばらくいると、教会の釣り鐘が、午後五時を知らせにやってきた。

 辺りは既に真っ暗で、校舎中のランプに火が灯され、柔らかな明かりで建物を包み込んでいた。校庭で遊んでいた生徒も、図書館で勉強をしていた生徒も、それぞれの寮へと戻っていく。そんな時間でもあった。

 寮へと向かう生徒の波に逆らうかのように、羽音はある場所へと足早に向かう。そう、瑞稀と約束している図書館へと向かっていたのだ。


 図書館の扉を開く瞬間、羽音は大きく深呼吸をした。つい先程から彼の心臓は、口から飛び出してしまうのではないか……というぐらいドキドキしている。

 早く瑞稀に会いたい気持ちは勿論あるが、それ以上に、今日は会った時に何をされるのだろう……という羞恥心と期待のほうが強い。

「今日も、キスするのかな……」

 羽音は、そっと自分の唇を指でなぞる。恐怖心や不安に思う気持ちは勿論ある。でも、それ以上に好奇心が勝ってしまった。

 羽音はキャソック胸ポケットから、小さな小瓶をそっと取り出す。相変わらずその小瓶に入っている液体は、月明かりを受けてキラキラと輝いていた。

 ミセス・サラがくれたこの聖水のお陰なのだろうか。昨日は瑞稀の傍にいても花の甘い香りはしなかったし、異常な程の体の疼きは感じられなかった。

 ずっとミセス・サラの元で、真面目に生きてきた羽音だったが、これから自分がしようとしていることが、どれ程罪深いものかだなんて重々わかっている。いつもそれが罪悪感となり、彼の心を締めつけ続けたけど、それ以上に瑞稀に会いたいという思いの方が強かった。

 もうその思いは、常識とか、規則とか……今まで羽音が大切に守ってきたものが、どうでもいいと思える程、強い強いものとなってしまっている。

 羽音は一度だけ聖水を口にしたが、もう一度それを飲むということは、非常に勇気のいることだった。

「よし!」

 意を決して、小瓶の液体を口に含んで、その苦い液体を胃の中へと無理矢理流し込んだ。液体が喉を通過しているのがわかるくらい熱く感じ、羽音は思わず顔を顰める。

 その苦みそのものが、今、自分が犯している罪に思えてならない。


 羽音は重たい図書館の扉をそっと開く。

 その瞬間、ふわりと温かい空気に包まれた。外は体中がかじかむ程寒いのに、今日は火が燃え盛っている大きな暖炉のおかげで、図書館の中はとても温かい。優しく図書館の室内を照らす、優しいランプの明かりにホッと息を整える。

 そのまま、長い長い螺旋階段を昇って三階を目指した。

 この時間、図書館に生徒の姿はなく、辺りは静まり返っている。パチパチと、暖炉の中にくべられた薪が燃える音だけが響き渡っていた。

 階段を一段、また一段と昇る度に、心臓がドキドキと高鳴っていき、いつもは息なんて切れないのに、今日は呼吸がしにくくて仕方がない。

 それでも羽音は、瑞稀に会いたかった。

「羽音」

 三階に辿り着いた瞬間、優しい声で名前を呼ばれる。胸を高鳴らせながら顔を上げた。

「羽音。来てくれてありがとう」

「瑞稀……」

 そこには、優しい顔で微笑む瑞稀がいた。

「大丈夫。あの花の香りはしないし、水晶玉だって冷たいままだ」

 羽音は、自分に言い聞かせるようにそっと呟く。

「おいで、羽音」

 瑞稀が両手を広げて微笑んだから、羽音は勢いよくその腕の中に飛び込んだ。温かい瑞稀の腕の中で、羽音は幸せに包まれて、胸から熱いものが込み上げてくるのを感じる。 自分の髪を優しく撫でてくれる大きな手も、耳元に感じる温かな吐息も……全てが愛おしくて仕方ない。

「瑞稀、会いたかった……」

 羽音は自分でもびっくりするくらい甘えた声を出しながら、瑞稀の胸に頬ずりをする。それは無意識の行動だったけれど、瑞稀の心を擽ったようだ。羽音の額に、優しいキスをくれる。

 そんな瑞稀を、力一杯抱き締め返した。

「ふふっ。俺も会いたかったです」

「本当ですか? 嬉しい……」

「やっぱり貴方は可愛いですね」

 そのまま視線が絡み合い、どちらともなく唇が重なる。どんどん深くなってく口付けを、羽音はたどたどしい舌使いで、一生懸命に受け止めた。

「本当に可愛い……」

「瑞稀、瑞稀……」

「はいはい。ここにいますよ」

 二人の甘い吐息が、淡い月明かりにそっと溶けていった。

 羽音は、すっかり瑞稀という青年の虜になってしまっている。それが嬉しかったけど、とても怖かった。


 聖水の効果のおかげで、理性を失うことなく瑞稀と向き合えている冷静な自分が、警笛を鳴らし続けていた。

 『これ以上、瑞稀に夢中になってはいけない』、と。

 それでも、若く健康な羽音にしてみたら、瑞稀に惹かれるな、というのが無理なのかもしれない。

 それに、羽音はいつも気になっていた。自分に愛おしそうに触れる瑞稀が、いつも、一瞬だけ酷く寂しそうな顔をするのだ。

「どうしたの?」

「いいえ。なんでもありません」

 そう寂しそうに笑う瑞稀は、今にも泣きだしそうに見えた。

 こんなにキスをして、抱き締め合っているのに、瑞稀はそれ以上のことを求めては来ない。熱い口付けを交わした後、切なそうに顔を歪める。 まるで、羽音に触れることに躊躇いを感じているかのように……。

 もしかしたら、羽音と瑞稀は決して交わってはいけない存在なのかもしれないと、羽音は思う。

 自分が闇夜みたいに真っ黒な絵の具だとしたら、瑞稀は真綿みたいに真っ白な絵の具。お互い、別々に存在していれば綺麗な色なのに、一度交わった瞬間に汚い灰色へと、その姿を変えてしまう。だからこそ、決して交わってはいけないのだ。

 それでも、真っ暗な闇は眩い真っ白な光に憧れて、真っ白な光は闇夜に癒しを求める。

 相反する場所にある二つの物が、激しく惹かれ合う瞬間でもあった。


「ねえ。このまま、一つに結ばれたい……」

「……え?……」

 瑞稀の苦しそうな呻き声に、羽音は慌てて瑞稀を見上げた。

「僕は、貴方と、身も心も結ばれたいです」

「……瑞稀……」

 その顔を見れば、瑞稀が本気でそう思っていることぐらいは、いくら鈍感な羽音にも伝わってきてしまった。

 瑞稀は、きっと心の奥底から、自分を抱きたいと思ってくれているんだ……そんな瑞稀の気持ちを思えば、心がキュッと締め付けられる。

「どうしてだろう……君からは、甘い花の香りはしないのに……」

 羽音は不思議でならなかった。今の自分は目の前の男に欲情し、抱かれたいと思ってしまっている。この人になら、全てを委ねてみたい……。

 瑞稀に守られながら、愛されてみたい。

 今まで、たった一人で生きてきた羽音は、誰かと一緒に生きてみたいと思った。

「もしかして、僕は……君のことが……」


 羽音は、自分の心の中にいつしか芽生えていた、あるひとつの感情に気付いてしまった。

 今まで、素敵だな……と思う人は何人かいた。しかし、この思いはそんな軽い感情ではない。もっともっと深くて、強くて、自分の魂までをも支配してしまう。

 今まで大切にしてきた、モラルとか、ルールとか……全てを破ってでも一緒にいたい。そんな強い衝動と激情。そのくせ、瑞稀の事を少し考えるだけで、胸の中が焦げるように熱くて、泣きたくなってしまう。そんな弱い自分もいる。 瑞稀が恋しくて、会いたくて……一緒にいる時は、幸せで。こんな感情があることを、羽音は初めて知った。

「これが、恋……なのかな……」

 羽音は、瑞稀の頭を撫でてから、そっと唇を重ね合わせる。マシュマロのような柔らかい感触に、目を細めた。

 羽音の初恋の種は、いつの間にか心という畑に撒かれ、芽を出した。そして、瑞稀から与えられる日光の日差しを一心に受け、ぐんぐんと成長し、そして今……真っ赤な薔薇を咲かせたのだった。

 ──この思いを言葉にして伝えたい。

 そんな叶わない夢を抱いてしまったことに、羽音はガッカリしてしまう。自分のような存在が、神父を志していた青年と結ばれていいはずかない。この幸せな時間と瑞稀を失うことが、何よりも怖かった。

「僕を……君の好きにしてください」

「羽音……」

「瑞稀になら、何されてもいい。怖くないから」

「嘘つき。怖くて震えてる」

 そんな羽音を見て、瑞稀が愛おしそうに笑う。

「羽音、俺は貴方が……貴方が……」

「え?」

「いえ、なんでもありません……」

 いつもみたいに、困ったかのように、寂しそうに笑う瑞稀を見れば、心がズキンズキンと痛む。

 ──瑞稀はいつも、何を言おうとしてるのだろう?

 そう問いかけたくても、瑞稀があまりにも辛そうな顔をするものだから、羽音はその先を促すことができなかった。だから、いつも優しく頭を撫でてやる。まるで、幼子をあやすかのように。


「瑞稀……雨が降ってるね」

「あ、そういえばそうですね……」

「明日は晴れるかな…」

「羽音、こっち向いて……キスしたい……」 

「ねぇ明日……明日さ……」

「もう、いいから……こっち向けって……」

「だって、んっ……あ、あん……」

「もう、好きにさせて……うるさいよ……」

「あ、はぁ……あ、あぁ……」

 この瞬間、羽音と瑞稀は恋に落ちた。

 外から聞こえてくる雨音が止んで、いつの間にか空からは白い蝶々が舞い降り始めている。きっと、外は凍えるような寒さだろうけど、抱き合っている二人は全く寒さなど感じてはいなかった。


 瑞稀に抱き締められたまま、その顔を見上げれば、やっぱり寂しそうな顔をしていて……羽音はもう一度、優しく瑞稀の頭を撫でてやる。

「羽音。俺は、貴方に話しておかなければならないことがあるんです」

「話しておかなければならないこと?」

「はい……」

 瑞稀が悲しそうに目を伏せたのを見て、羽音は不安にかられた。何を話すつもりかなんて、もちろん想像はついていない。疑問符を浮かばせたような表情で、羽音は瑞稀を見つめて、続きを促した。

 瑞稀は堰を切ったように口を開いた。

「僕の、過去のことです」

「……君の、過去」

「はい。でも、僕の過去を知った貴方は、僕の目の前から去ってしまうかもしれない」

「……そ、そんなことはありません……誓ってもいい…!」

 その優しい外見からは、想像がつかない程の羽音の強い口調に、瑞稀が一瞬目を見開いてから微笑んだ。その笑顔が、今にも泣き出しそうな子供のようで、羽音の胸はズキンズキンと痛み始める。

 一体何が、あの明るくて元気な彼をこんな風にさせるのだろう。羽音は、それが知りたかった。

「今からする話を聞いても、俺を嫌いにならないでください」

「嫌いになんてなりません。絶対に」

「ありがとう」

 瑞稀はフワリと笑って、羽音にキスをくれた。

 まるで、地上に音もなく舞い降りる雪のように。優しく、そっと。


「僕は、子供の頃にインキュバスという悪魔に襲われたんです」

「インキュバス……?」

 その言葉に、一瞬にして羽音の血の気が引いていくのを感じた。

 手足は冷たくなり、自然と体がカタカタと震えてくる。心臓は張り裂けそうなくらい拍動を打ち始めていた。

「子供の頃に会った時は、特に何もされることもなく、その悪魔は去って行きました。でも、つい最近……あいつは、再び俺の目の前に現れた」

 恐怖に顔を引きつらせ、どんどん瑞稀の顔が真っ青になっていく。当時の記憶が、鮮明に思い起こされているのかもしれない。鍛え上げられた逞しい体が、震え出した。

「大人になった俺は……俺は……」

「大人になった瑞稀はどうしたんですか?」

 瑞稀の頬を両手で包み込み、自分の方を向かせる。只事ではない瑞稀の雰囲気に、羽音は恐怖に押し潰されそうになった。

 羽音の頬に一粒の雫が落ちる。その雫は、羽音の頬を伝い、音もなく床へと落ちる。その雫の正体は、冷たい瑞稀の涙だった。

 羽音は、初めて瑞稀の涙を見た。いつも向日葵のように笑う瑞稀の涙に唇を寄せて、ペロッと舐めとる。今の羽音には、それくらいしかしてやれることがなかったから。

「俺は……そのインキュバスに襲われて……」

 瑞稀の瞳にたくさんの涙がみるみるうちに溜まっていき、顔を恐怖で引きつらせた。いくら泣くのを我慢しようと唇を噛み締めても、次から次へと、涙がその頬を伝う。ガタガタと震えるその体は、もう自分の意志ではどうにもならないのだろう。

「よっぽど怖い思いをしたんですね……」 

 まるで、怖い夢を見て飛び起きた子供のような瑞稀を、そっと抱き寄せれば大した抵抗もなく自分の腕の中に逞しい体が落ちてくる。羽音は、そんな瑞稀を受け止めて強く抱き締めた。

 触れ合う胸からは、お互いの激しく鳴り響く鼓動を感じることができる。そんな羽音の耳に、今にも消えてしまいそうなか細い瑞稀の声が聞こえてきた。


「インキュバスと契りました」

「……え?」

「俺は、自分の意志では無いにしても、インキュバスを抱いたんです」

「インキュバスを……抱いた……?」

「俺が生まれて初めて抱いた相手は、インキュバスなんです」

 羽音は、目の前が真っ暗になるのを感じていた。

 瑞稀が深いトラウマを抱えている事は、ミスター・レンに聞いて知っていた。しかし、まさか、瑞稀がインキュバスを抱いていたなんて……予想もしていなかった告白に、羽音は酷く戸惑い、困惑した。

 きっとどんなに抵抗しても、人間がインキュバスの誘惑から逃れることはできないだろう。瑞稀の意志など関係なく、無理矢理契りを結ばされたに違いない。

 どんなに怖かっただろうか。どんなに屈辱的だったろうか……そう考えれば、インキュバスという悪魔が、羽音は憎く思えてくる。

「俺は、悪魔という汚らわしいものを抱きました」

「…………」

「はい。だから、俺の体も汚いんです。こんな体で、貴方に触れていいのかって、いつも悩んでいました」

「……瑞稀……」

「こんなに汚い俺が、貴方みたいな綺麗な人の傍にいていいのかも……」

 抱き締める瑞稀の瞳から、大きな涙が再びポロポロと溢れだし、羽音の素肌にスッと浸透していく。

「じゃあ、瑞稀がこの学園に転入してきた理由っていうのは……」

「はい。インキュバスと契ったことで、俺は身も心もボロボロになった。そんな俺を心配した祖父が、この学園に転入させたのです。ミセス・サラがいる限り、この学園に悪魔が来ることは無いだろうって……」 

 子供のように泣きじゃくる瑞稀がかわいそうで、しかし滅多にあらわにはしないのであろう弱い姿を晒してくれる彼が愛おしくもあって、羽音はその体を抱き締めた。

「それでも俺は、貴方に会いたかったし、触れたかった。それに……」

 瑞稀が顔を上げれば、二人の視線と視線が絡み合った。瑞稀の瞳には羽音が映っていて、瑞稀の瞳の中の自分自身が揺れているように見える。


 彼が明かしてくれたのは、とても悲しく辛い過去だった。そこから逃げるように学園へとやってきて、自分と出会った。

 瑞稀にとって、人と交わることはどんなに勇気がいることだっただろうか。よりにもよって、その相手は自分になるかもしれないところだ。己の過去もわからず、わけのわからない片羽を晒して、瑞稀に……さながら『インキュバスのように』欲情した、この自分と。

 ……インキュバスのように? ……じゃあ僕は、彼にとってはもしかしたら……悪魔のような存在になるかもしれないじゃないか。

 そこまで考えるに至り、羽音は唐突に、己の身体中に酷い悪寒が走るのを感じた。

 自分が瑞稀の傍にいることで、彼は一生苦しみ続けることになるかもしれない。たとえ結ばれたとて、彼の心を真綿のように締め続ける存在になってしまうかもしれない。そんなことは……絶対に嫌だ。

「……報いか……」

「羽音?」

 神から罰を受けたのだ……羽音はそう感じていた。いや、はじめから自分と瑞稀は結ばれることなどなかったのだ。こんな当たり前の事を、なぜ今更気づいてしまったのか。得たいの知れないこんな男と、彼が、結ばれていいはずがない。

 それでも、瑞稀のそばに居たいと羽音は思ってしまった。


「羽音……俺は、貴方のことが……」

「駄目!」

 何か言いかけた瑞稀の口を、羽音は咄嗟に自分の手で塞いだ。その瞬間、瑞稀が驚いたように目を見開く。

「それ以上は、言ったら駄目です」

 瑞稀は言葉こそ発しなかったが、酷く悲しそうな顔をしている。

 それでも、羽音は瑞稀が自分に何を言いたかったのかが、痛いくらいわかってしまった。だからこそ、その言葉を言ってほしくはなかったのだ。瑞稀の口から、愛の言葉を囁かれてしまったら、羽音はもう自分の気持ちを抑えるすべを失ってしまうだろう。

「お願い。その言葉を、どうか飲み込んでください」

 たくさんの瞳にたくさんの涙を浮かべながら、何も言えずに二人は静かに見つめ合った。

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