Episode2 天使の翼
朝起きて、手元に置いてある水晶玉を手に取った羽音はホッと胸を撫で下ろす。
「よかった……冷たい」
水晶玉は、瑞稀に初めて会ったときのような、炎を思わせるほどの熱さはなく、逆に冷たい氷のようだ。彼に対する恐怖心は一晩たっても消え去ることはなく、起きたばかりだというのに、昨日のことを思い出した羽音の心を暗いものにしていく。
「九条君には会いたくない…」
しかし、この限られた学園の中で、どうやっても瑞稀を避けて生活することなどできない。
「生徒会長、おはようございます」
「おはようございます。来栖さん」
「あ、おはよう」
朝食をとる為に食堂に集まってきた生徒達の中に瑞稀の姿はなかった。
「まだ来ていないか……」
羽音はそっとため息をつく。こんな大勢の生徒達の前で、昨日みたいに取り乱すことなんてできない。妙な緊張感の中、羽音の額にじっとりと汗が滲んだ。
次の瞬間、ザワザワッと食堂がざわめくのを感じる。明らかに好奇と羨望の眼差しが、一人の生徒に向けられていた。
「あれが噂の編入生か……かっこいい」
「本当に噂の通り素敵な方だ」
「お近づきになりたいものだね」
ヒソヒソと話す声が、そこらかしこで聞こえてくる。生徒達が見つめる視線の先には、瑞稀がいた。そんな中、瑞稀がキョロキョロと辺りを見渡し始めたから、明らかに誰かを探しているのがわかる。すると羽音を見つけた瞬間、嬉しそうな顔をしてこちらに歩み寄ってくるではないか。
「来栖さん!」
「……えッ……?」
そう名前を呼ばれた瞬間、羽音の心臓が痛いくらいに拍動を打ち始める。
キャソックの胸ポケットにある水晶玉が、昨日のようにどんどん熱を持っていくのを感じた。それと同時に甘い花の香りが辺りを包み込む。
「嫌だ……駄目だ……」
それと同時に、背中をゾワゾワッと何かが駆け抜けていくのを感じた。
──なんだ、これは……?
背中に感じる違和感はどんどん強くなっていき、段々と呼吸が荒くなっていく。無意識に自分の胸を鷲掴みにした。
「来ないで! 来ないでください……お願いだから!」
泣きそうな顔で瑞稀に向かって叫んだ。突然大声を出された瑞稀が、驚いたような顔をした後、傷付いた表情を浮かべる。
「九条君、ごめんなさい……でも、僕は、僕は……」
次の瞬間、羽音の目の前が真っ暗になり膝がガクンと折れる。意識を失った羽音は力なく床に崩れ落ちた。
「だ、大丈夫ですか!?」
瑞稀は羽音を抱きとめようと、咄嗟に手を伸ばした。しかし、突然腕をつかまれて、その動きは阻止されてしまった。瑞稀が見やると、そこには自分の腕をしっかりとつかんだままの、ミスター・レンの姿がある。いつの間にか食堂に来ていたようだ。
「私が、来栖君を医務室へ運びますから、九条君は朝食を。一限目が始まってしまいますよ?」
「で、でも……」
「いいから朝食を」
「あ、はい……わかりました」
ミスター・レンに意味深な笑みを向けられた瑞稀は、不服そうな顔をしながらも黙って引き下がる。
「ん? 水晶玉が熱い。来栖君が言っていたのは、このことだったのか……」
ミスター・レンが羽音を抱き上げようとした時、羽音のキャソックのポケットに入っている水晶玉が異常に熱くなっていることに気付いのだろう。眉を顰めている。
完全に意識を失った羽音は、ミスター・レンに抱きかかえられて医務室へと運ばれたのだった。
◇◆◇◆
「うんッ……」
羽音が目を覚ましたのは、当たりが夕焼けに染まった頃だった。
「大丈夫ですか? 来栖君。朝倒れてから、ずっと寝ていたのですよ?」
「あ……ミスター・ハル……」
「ミセス・サラも心配していました」
朝から昏々と眠り続けていた羽音を酷く心配した様子で見つめているのは、学校医のミスター・ハルだった。食堂で倒れた羽音を、ミスター・レンが医務室まで運んでくれたようだ。
ミスター・ハルは少しだけ長く伸びた栗色の髪と同じ、栗色の瞳がとても綺麗で……まるで女性のように柔らかな雰囲気を持った男だった。
「気分は悪くないですか?」
「はい……大丈夫です」
不安そうに俯く羽音の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「どうして僕は、九条君の傍にいるとこんな風になってしまうのでしょうか……」
「こんな風?」
「はい。心臓がドキドキして、息ができなくなって……僕おかしいんです。水晶玉は熱くなるし、九条君からは甘い花の香りがするし……」
今にも泣きそうな顔をしながら、シーツを握り締める。そんな羽音の背中を、ミスター・ハルはそっと、さすってくれた。
「そうですか…私は医者ですが、貴方の身に起きていることの、原因はわかりそうにありません…ごめんなさい」
「いえ、ミスター・ハルが謝ることではないですから」
「本当にごめんなさい。一番不安なのは、貴方でしょうに」
自分に全く非はないのに自分のことのように心を痛めてくれる優しい男に、羽音は逆に申し訳なくなってしまった。
「もう大丈夫ですから、寮に戻ります」
「それは結構ですが、九条君がいる限り、また同じような事態になりかねません。それでも大丈夫ですか?」
「はい。重々承知しています」
ミスター・ハルは、いつも羽音を気にかけては、温かい言葉をかけてくれる。ミスター・ハルには、普段他人に相談などできない性格の羽音もなんでも話せる気がした。
「大丈夫です。行ってみます」
「そうですか……しかし、十分に気をつけてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
端正な顔立ちのミスター・ハルに至近距離で覗き込まれれば、羽音はドキドキしてしまう。こんなにも、誰かが傍にいるということに慣れていない自分が情けなくなってしまった。
「今日は満月なんだ」
真っ直ぐに寮に戻ることに躊躇いを感じた羽音は、渡り廊下を抜けて庭へと足を伸ばした。
学校の目の前に広がる大きな湖は、ユラユラとさざ波を作りながら、ゆっくりと揺れ続けている。それと同時に、湖面に映し出された満月も頼りなさそうに揺れていた。湖面が揺れる音だけが、鎮まり返った世界に響いているように思えて、強い孤独に襲われる。
「僕は一人ぼっちなのかな……」
羽音は湖の淵にしゃがみ込んだ。その瞬間……羽音の体中が熱くなり、背中にムズムズと虫が這うような違和感を感じる。それと同時に心臓が大きく高鳴り出した。
「んぁ……あ、あん……な、何だこれ……」
キャソックが少し胸の飾りに擦れただけで、ビクンビクンと体が跳ね上がるほどの快感に襲われる。徐々に羽音自身にも熱が籠り、呼吸が荒くなっていった。「あ、あぁ……く、苦しい……苦しい……」
その時、シュッと一つの流れ星が、綺麗な尾を引いて夜空を駆け抜ける。後から後から、まるで流星群のように空を駆け抜けていく。それはまるで星屑のシャワーのように、羽音の上へと降り注いだ。
「あ、あぁ……あ、あぁぁぁ……!!」
バサッ、バサッ。
羽音が絶叫すると同時に、その背中からはキャソックを切り裂いて、真っ白くて大きな片羽が姿を現した。その純白な片羽にたくさんの星屑が舞い降りて、キラキラと眩い光を放つ。それはまるで、花嫁が身に纏う純白のウェディングドレスのようだった。
「はぁはぁ……なんで、羽が……」
突然の予期せぬ出来事に、羽音は強い戸惑いと恐怖を感じた。
そして今も、羽音自身は熱く昂りおさまる様子など見られない。軽く自身に触れてみれば、今まで感じたことのない強い快感が頭の先から爪先へと駆け抜けていき、それだけで軽く果ててしまった。
「嫌だ……何だよこれ……」
どうにかこの熱から逃れたい。しかしその本能に抗わなければ、もっと醜い存在へと堕落してしまいそうで……羽音は強い恐怖を感じた。
「来栖さん」
「え……?」
その時、羽音の背後から聞き覚えのある声が聞こえてくる。羽音の脳裏を最悪な結末が過っていく。恐る恐る振り返ったそこには、羽音の予想通り、瑞稀が立っていた。
「何で九条君がここに……」
「部屋の窓から、貴方の姿が見えたから心配になって……。やっぱり貴方は、天使だったんだ……」
羽音の体はカタカタと音を立てて震える。そんな羽音に、瑞稀の優しい声が聞こえてきた。
「来栖さん。これから、俺は少しずつ貴方に近付いていきます。でも、逃げないでください」
「…………」
「行きますね。大丈夫です。僕は貴方に危害を加えませんから」
少しずつ二人の距離が近付く度に自然と体に力が入り強張っていく。そんな羽音に、瑞稀は優しく語りかけ続けてくれた。
「お願いです。俺から逃げないで。俺は……俺は、貴方の近くに行きたいだけです」
「九条君……」
「だからお願いです。そのまま、そこにいて……」
段々近付いてきた瑞稀が、今にも泣きそうな顔をしていることに気付いた羽音は、逃げようという気持ちが少しずつ和らいでいくのを感じた。
「ありがとう。来栖さん」
そのまま、瑞稀は羽音を抱き締めた。
「何……この花の香りは……」
瑞稀の体温を感じた瞬間、羽音の周りを甘ったるい花の香りが包み込む。その香りを、羽音は思い切り吸い込んだ。
「なんて綺麗な天使なんだ……」
瑞稀の体温が心地良くて、蕩けてしまいそうな意識の中で、瑞稀の優しい優しい声が羽音の鼓膜を震わせた。
「来栖さん、大丈夫ですから」
瑞稀が囁きながら優しく頭を撫でてくると、羽音はどうしたらいいかわからなくなる。
それなのに、体が火照って、下半身が甘く疼き始める。
「なんなんだよ、これ……」
羽音の頬を幾筋もの涙が伝う。もう、素手では触れないくらい熱くなった水晶玉が、羽音の身も心も焼き尽くしていくように思えた。
「大丈夫ですか? もしかして……泣いてるの?」
羽音のそんな思いなど露も知らない瑞稀が、不安そうな表情で自分の顔を覗き込んでくる。こんなにも自分を心配してくれている瑞稀を前に、意味も分からないまま欲情している自分自身が、羽音は許せなかった。
「大丈夫? 羽が片方しかないから、痛いんですか?」
羽音の背中で、湖から吹き抜けてくる風にフワフワと揺れる羽を撫でながら、瑞稀まで泣きそうな顔をしている。
「お願いです。泣かないで……」
そのまま瑞稀の指先がスルりと滑り落ちて、首筋に触れた瞬間、
「んぁ、あんっ……」
「え?」
たったそれだけの刺激で、羽音の口からあられもない声が漏れる。瑞稀が驚いたように手を引っ込めてしまったから、羽音は慌てて俯いた。
「ごめんなさい、変な声出して。今、僕の体はおかしいから、お願いです……僕に近寄らないでください」
羽音は唇を噛み締めたまま、俯くことしか出来ない。
「僕は、醜い存在なんです」
自分の言葉に、羽音が一番傷付いていた。次から次に溢れ出した涙が乾いた地面に落ちて、音もなく吸い込まれていく。『気持ち悪い』、そう瑞稀に罵られる覚悟はできていた。
「そんなことはないです」
「え?」
もう一度優しく抱き寄せられた羽音は思わず眼を見開いた。
「来栖さんは、凄く綺麗です。なんで片羽しかないのかはわかりませんが、この羽も、髪も、瞳も肌も……全部、全部綺麗です」
「九条君……」
「来栖さん、可愛いです。凄く可愛い」
「んッ……」
低い声で耳打ちされた後、少しだけ強引に上を向かされて、瑞稀の唇と羽音の唇が優しく重なった。
「ふぁ……んッ……」
チュッと音をたてて口付けられた後、チュウっと軽く吸われる。その感触だけで、羽音の背中をゾクゾクッと甘い痺れが走り抜け、膝まづいている足がブルブル震えた。苦しいぐらいに唇を奪われて、羽音は必死に息を整えようと口を開いた。
そんな無防備な羽音の口内に、瑞稀の熱い舌が侵入してくる。夢中で舌と舌を絡ませながら、瑞稀の体にしがみついた。
「来栖さん、キス……初めてですか?」
「ふぁ……はぁ……初めてです……」
「ふふっ、可愛い。でも僕も初めてです」
満足そうに微笑む瑞稀に、再び口付けられる。舌を絡まされて、唇を吸われて。敏感な口内を遠慮なく犯されていった。
「あ、あん……ふぁ……んッ……」
唇が離れていくときにする水音がやけに鮮明に鼓膜に響いて、羽音はどんどん欲情していくのを感じた。
「綺麗ですよ」
そう優しい顔で微笑む瑞稀に、思考が麻痺していく。ただ、瑞稀から溢れ出す甘い花の香りに堕落していく自分を感じていた。
「九条……くん……」
「瑞稀……俺は瑞稀です」
「瑞稀?」
「はい。瑞稀です」
その穏やかな瑞稀の笑顔に、羽音の胸が甘くときめく。優しく抱き寄せられながら、羽音は花の香りをそっと吸い込んだ。
「いきなり……すみませんでした」
「あ、ううん。大丈夫」
「しかも、ファーストキスだったのに……」
「え! べ、別に気にしないでください!」
羽音は顔を真っ赤にしながら、ブンブンと頭を振る。瑞稀に、今更どんな顔をすればいいのか、羽音はわからなかった。あの時の自分を思い出すだけで、顔から火が出そうになる。ただ、瑞稀との口付けにより羽音は不思議と落ち着いていた。
瑞稀からは変わらず花のいい香りはするけど、あの獣のような欲情は消え去っていたし、ポケットの中にある水晶玉は冷たくなっている。
キラキラ輝いていた純白の片羽は、いつの間にか消えていた。
瑞稀は何も無かったような素振りで、羽音の手を引いて歩いている。自分より大きくて、筋張った瑞稀の手に羽音はドキドキしてしまった。
自分を抱き締める腕が力強かったことも、名前を呼ぶ低い声が甘く鼓膜を震わせたことも……温かくて柔らかかった唇も。今思い出しても心臓が甘く高鳴る。
もうすぐ羽音の部屋に到着するという廊下で、瑞稀が羽音を振り返った。廊下にある大きな窓からは、蒼白い月明かりが差し込んで、瑞稀を優しく包み込む。
月明かりに照らされた瑞稀の姿は、凛々しく美しかった。今まで自分を抱き締めていた人物は、こんなに見惚れてしまうような姿をしていたんだ……そう自覚した瞬間、羽音は更に恥ずかしくなってしまった。
「今日は、突然あんな事をしてすみませんでした。ただ、窓から苦しそうにしている貴方を見つけた時……体が勝手に湖に向かっていたんです。でも俺は、誰にでもあんな事をするわけではありません。貴方だから……貴方が、あまりにも綺麗で可愛かったから」
手を繋いだまま、瑞稀は羽音に向かって軽く頭を下げた。それから、照れくさそうにはにかんだ。
「俺のファーストキスを、もらってくれてありがとうございました」
「…………ッ」
「あんなにキスが気持ちいいなんて、思いもしませんでした」
少しだけ頬を赤らめて微笑む瑞稀は、やっぱりかっこよくて、羽音は思わず袖口で唇を覆った。そのまま、羽音はギュッと瑞稀に抱き締められる。
彼は自分より年下のはずだ。しかも、心に傷を負っているという話だったではないか。そんな彼なのに、なぜこんなにも余裕の態度を見せてこれるんだろう……そう不思議に思っていた羽音は、瑞稀に抱き締められた瞬間に目を見開いた。瑞稀の鼓動も、自分のものと同じくらいドキドキしていたのだ。
「僕が転校して初めて貴方を見かけた時、あまりにも綺麗で……。天使だって思いました」
「天……使……?」
「はい。天使です」
その瞬間、羽音の胸がまるで鷲掴みされたかのように痛みだす。ついさっきまで、温かくときめいていた心が、一気に冷めていくのを感じた。こうして瑞稀と触れ合うことが自体が、凄くいけない事をしているんだ……そう思った途端、今までの甘い時間が虚しく感じた。
「おやすみなさい」
優しく頬を撫でてから、瑞稀が羽音の唇にそっと触れる。チュッという甘い音と共に、唇に温かくて柔らかい物が触れる感触に、それでも羽音の心は小さく震えた。
「お願い……もっとキスして……」
「ふふっ。俺とのキス、気持ちいいですか?」
「うん。気持ちいい……」
「可愛い。いいですよ、もっとしましょう」
優しく唇を奪われて、舌で口内を愛撫されて。羽音の意識が再び蜂蜜のように蕩けていくのがわかる。
淡い月明かりの下、羽音と瑞稀は飽きるまで口付けを交わした。
◇◆◇◆
「昨日は、ずいぶん盛り上がったようだな」
「はい?」
「なんやかんやで、九条君と仲良くなれたじゃないか?」
朝からニヤニヤしながら自分に近付いてきたミスター・レンの言葉に、羽音は心臓が止まりそうになる。冷や汗が、タラタラと背筋を流れていくのを感じた。
「な、なんの事でしょうか?」
羽音は何とか冷静を装いながら、皿に残されていた朝食を慌てて咀嚼してから飲み込んだ。そのまま食器を片付けようと立ち上がる。
昨夜は結局、就寝時間を過ぎてからも瑞稀と甘い時間を過ごしていたし、あんな事があったせいか体が火照ってなかなか寝付けなかったのだ。今も、少し気を抜くだけで眠ってしまいそうになる。ミスター・レンに見つからないように、そっと欠伸をした。
「だいたい、来栖君がこんな遅い時間に朝食を食べるなんて、珍しいじゃないか。寝坊でもしたのか?」
「まぁ、そんなとこです。昨夜は遅くまで勉強をしていたので」
「ほぅ……それは、大人になる為の勉強かな?」
「え?」
「悪い子だ……」
突然ミスター・レンの整った顔が近付いてきたと思った瞬間、フニッと唇を指でそっとつつかれた。
「まさか、成績優秀、スポーツ万能。更には学園の生徒会長まで勤める君が……こともあろうことに、あんな場所で転校生と熱い口付けを交わしていたなんて……」
「あ、え?」
「誰かに見つかったらどうするんだよ?」
スルッとミスター・レンの長い指が、羽音の形のいい唇をそっと撫でた。
「あまりにも濃厚なキスだったので、思わずムラムラしちまったじゃねぇか?」
「な……!?」
「どうだ? 今夜は私と、熱い夜を過ごさないか?」
羽音は持っていた皿を、うっかり落としそうになるのを耐えて、思わずギュッと目を瞑った。
「さぞや、転校生の存在にお困りかと思って心配していたら、まさかあんな事になっていたとは……」
「ご、ごめんなさい」
「いや、駄目だ。これは、教師からお仕置をしなければならない」
羽音が恐る恐る目を開ければ、そこには満面の笑みを浮かべたミスター・レンがいた。
「本当に君は可愛らしいな」
「ごめんなさい。ミスター・レン」
「いや、許さない……悪い子にはお仕置きだ」
再び感じるミスター・レンの熱い吐息を顔に感じた羽音は、思わず全身に力を込める。
『止めてください』、そう声を振り絞ろうとした瞬間。
コツンコツンと静かな食堂に、足音が響き渡ってきて。
「何をやってるんですか?」
その足音の主は、躊躇う様子もなく羽音達の方へと向かってきた。
「何をしてるんですか? ミスター・レン」
「おはようございます。九条君」
「おはようございます、じゃないですよね?」
瑞稀は淡々と話続けているものの、その声色はまるで己の縄張りを主張する、雄の狼のようだった。
──その人に、手を出すな。
口にこそ出さないが、瑞稀の切れ長の瞳がそう物語っている。
「いいから、離れてあげてください」
「『何をしてるんだ?』はこっちの台詞だろうが? はぁ……。こんな風に横取りされるくらいなら、さっさと手を出しちまえば良かった……」
あまりにも真剣な表情を浮かべる瑞稀を見たミスター・レンは、大きな溜息をついた。そんなやりとりをする二人の側で、唐突に羽音の体躯が、軽く傾いた。
「ミスター・レン……やっぱり駄目です。僕、僕……」
「あ?」
「九条君が傍にいると……変な気分になる……はぁはぁ……」
ミスター・レンが羽音の顔を覗き込めば、大きな瞳をユラユラと潤ませて、唇はまるで苺のように赤く色付いている。頬は熱く火照り、首筋はほんのりと桃色に染まっていた。
またかと、ミスター・レンは小さく吐息しながら、目を細めて羽音の様子をよくよく観察するように視線を滑らせた。
「艶っぽい。まるで女みたいだ」
ミスター・レンは、そんな姿を見て思わず呟きつつ、息を飲んだ。
「来栖君。今日はまだ、ミセス・サラへの朝の挨拶は済んでないんだろう?」
「あ、はい…こ、これからです」
「なら、早く行きなさい。授業が始まってしまう。ひとりで行けるか?」
「だ、大丈夫です。では、失礼します」
「あぁ、そうそう」
羽音は慌てて返却棚に食器を戻し、息が乱れている状態もかまわずに、駆け出そうとした。あまりにも恥ずかしくて、顔を上げることすらできない。すると、そんな羽音の肩を掴み、ミスター・レンがそっと耳打ちをした。
「昨夜の逢い引きのことは、僕とミスター・ハルしか知らないから」
「えっ、えっと……し、し、失礼します!!」
「おいおい、転ぶなよ!」
カァッと頬が熱くなるのを感じ、羽音は大声で叫んだ後、一目散に食堂の出口へと向かった。
そんな羽音を可笑しそうに眺めてから、ミスター・レンに瑞稀は静かに話しかける。その声は、感情を押し殺してはいるものの、明らかに怒りが滲んでいた。
「ミスター・レンと来栖さんはお付き合いをされているんですか?」
「いや、してないよ」
「本当ですか?」
「今は、な」
明らかにホッとしたような表情を浮かべる瑞稀に、ミスター・レンは突き放すように言い放った。
「遊びであの人にちょっかいを出しているのならやめてください。そもそも貴方は教育者でしょう? 生徒に手を出すなんてルール違反だ」
「……なに?」
「あの人は、本当に綺麗で素直で優しい人なんです。だから、からかい半分で関わってほしくない」
「へぇ……」
ミスター・レンは、幼さを残しながらも、真剣に自分に向かってくる瑞稀を見て、目を細めた。
「来栖さんは、俺が守ります。だから、もうちょっかいを出さないでください」
「来栖君と知り合ってまだ日が浅いくせに、なかなか生意気なことを言うんだな? 君は、来栖君に惚れてんのか?」
「は? そ、そんなの貴方には関係ないでしょう? お願いですから、来栖さんにもう近付かないでください」
「そんなん、俺の勝手だろうが? 大体、俺はここの教員なんだぞ。近づくなという方が無理に決まっている。そうじゃないか?」
「…それはそうですが…っ!……あなたって人は…」
お互いが一向に引こうとしないため、その場はピリピリした雰囲気に包まれる一方だた。
羽音は重たい食堂の扉を閉めて、必死に息を整える。冬の冷たい風が、火照った体には心地よかった。
「びっくりした……」
全身の力が抜けた羽音は、その場にグズグズとしゃがみ込む。扉一枚挟んだ向こう側で、二人の男がそんな遣り取りをしていたなんて、羽音は全く気付いてなどいなかった。
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