天使と悪魔が恋に堕ちて
舞々
Episode1 謎の転校生
「おはようございます、ミセス・サラ」
「あら、羽音。おはよう」
「お加減はどうですか?」
「ふふっ。まぁまぁかしら」
「では、授業に行ってきます」
「ええ。行ってらっしゃい」
ミセス・サラの部屋を後にし、羽音は学生達が生活する棟へと向かう。
ここは、世界各地から良家の子息が集まる『セイント・アクシオ学園』。学園長はミセス・サラだ。
数々の難関な試験を見事クリアした優秀な生徒達は若くして親元から離れ、『神父』になるための教えを十五歳になった年から六年間かけて学んでいく。この学園では、神父になる為に必要な知識だけでなく、世界中の伝統や歴史、更には礼儀作法や知性を身に付けていくのだ。
生徒達は、出身国ごとに寮を振り分けられ、共同生活を送ることとなる。羽音は日本人の集まる寮の寮長を任されていた。
「今日は風が強いな」
渡り廊下へと出た羽音は、思わず目を細める。サラサラの銀色の髪が風になびき、眩いばかりの朝日にキラキラと輝いた。聖職者の平服に用いられている、立襟で丈が長く黒色をしたキャソックと呼ばれる制服が強風に煽られ大きく揺れる。
人里から離れた山奥にあるこの場所は、普段はとても静かで耳をすませば小鳥の鳴き声や、木々がそよ風に揺れる音しか聴こえてこない。
羽音は、渡り廊下から見る教会が大好きだった。教会には大きな釣鐘があり、定時になると心地よい音色を響かせる。その全てが羽音には宝物に思えるのだ。
羽音は、ミセス・サラの元、穏やかな生活を送っていた。
大きくて重たい扉を開き、教会へと足を踏み入れる。これから、生徒が集合し朝の礼拝が行われるのだ。羽音が教会に姿を現した瞬間、その場にいた生徒がざわめいた。
「あ、来栖羽音様だ」
「今日も本当に美しい」
「容姿端麗、成績優秀。おまけに生徒会長を任されているなんて……なんて完璧な人なんだ」
「まるで天使みたい」
羽音の姿を見た生徒達が一瞬で色めきだつ。キラキラと瞳を輝かせ自分を見つめるその視線に、はじめは強い戸惑いを感じたが、いつの間にか慣れてしまった。
「おはよう、皆さん」
羽音が微笑めば、そこかしこから溜息が漏れる。そんな自分に向けられる敬意を含んだ眼差しに、羽音の胸は痛んだ。
キャソックの内側にある胸ポケットには、いつも小さな林檎ぐらいの大きさをした水晶玉が入っている。その水晶玉をそっと取り出し、ギュッと抱き締めた。水晶玉は、まるで学園の前に広がる湖の湖面のように透き通っていて、太陽の光を受けてキラキラと輝いた。それは、冷たくて頬に当てるとひんやりとして気持ちいい。
羽音には、この学園に来るまでの記憶がない。物心ついた時にはこの学園の生徒だった。そして、不思議なことに身につけていたキャソックのポケットに水晶玉が入っていたのだ。
自分が何者なのか、記憶を失う前はどこでどのように過ごしていたのか。そして、この水晶玉は一体何なのか……羽音にはわからなかった。それでも、そんな羽音をミセス・サラは気遣い労わってくれる。ミセス・サラの尽力もあり、学園で右も左もわからなかった羽音は、今日までやってこられたのだ。
水晶玉を見つめては、自分に言い聞かせる。
「僕は、本当にここにいていいのだろうか? だって、どこの誰かさえわからないんだから……。主よ、どうがこの罪深き存在をお許しください」
羽音は、教会で神に祈り続けることしか出来なかった。
「相変わらず、生徒達にモテてるんだな?」
「わっ! え? ミスター・レン。な、何かご用でしょうか?」
「ふふっ。驚かせてしまったようだな。すまんすまん」
突然の背後からの声に、羽音は跳び上がる程びっくりしてしまう。振り返れば、世界史の担当の教師、ミスター・レンが立っていた。
クスクスと悪戯っぽく笑うミスター・レンは羽音から見たら大人の男性だ。彼の目の前に立つと若造の自分のことなんて、なんでも見透かされてしまっているような心地がして、嫌でもドキドキしてしまう。色素の薄い長い髪を一つに緩く束ねて、銀のフレームの眼鏡をクイッと上げる仕草をするミスター・レンは、妙に色っぽい。モデルのようにスラッとした体型は、彼の整った顔立ちを更に引き立てた。
「ただ、いただけないな。神父の卵が男色なんて……」
「それは、わかっています」
同性愛を良しとしない宗教は以外と多い。
この由緒正しい、伝統校でもあるセイント・アクシオ学園で同性愛なんて……世間にバレたら社会的な問題として取り上げられることだろう。しかし、この多感な時期の青年達が大勢集まれば、例え同性同士だとしても色恋沙汰に発展してしまうという問題は防ぎきれないのかもしれない。
現に、例え教員に見つかったとしても厳重注意を受ける程度で、何らかの罰を受けた生徒は今まで誰もいなかった。
「もし恋人が欲しいのなら……」
突然、耳元に熱い吐息を感じた瞬間、羽音はミスター・レンに腰を抱き寄せられ、その腕の中に囚われてしまう。
「恋人が欲しいのなら、俺にしておけ。俺は教師であり、神父ではないから」
そっと耳打ちされれば、全身を甘い電流が駆け抜けていくのを感じた。
「それに、教師と生徒の禁断の恋なんて燃えるじゃないか?」
「ちょ、ちょっとミスター・レン……こんなところ、誰かに見られたら……」
羽音は、耳がどんどん熱くなっていくのを感じ、思わずギュッと目を閉じた。
「可愛い可愛い羽音……」
このミスター・レンは、なぜかことある事に羽音にちょっかいを出してきては、「恋人になろう」と誘惑してくるのだ。自分にはない、大人の色香を持ったミスター・レンに言い寄られてしまえば、羽音も無意識に体が熱くなってしまう。
「しかし……残念ながら、今日は君を口説きに来たわけじゃない」
名残惜しそうな顔をしながら、ミスター・レンが羽音から体を離した。
「実は一週間後に、転校生がやって来ることになったんだ」
「転校生?」
「ああ。とある事情があり、このセイント・アクシオ学園に編入してくる事になった」
もうすぐ、クリスマスだという中途半端な時期に編入してくるなんて。よっぽどの事情があるのだろう……羽音はそう感じていた。
「その生徒は、君より二つ年下の日本人だ。その子のお爺様が神父をやっていて、ゆくゆくは彼がそれを引き継ぐ予定だった」
「お爺様が神父様を……それは由緒正しい良家のご子息なんでしょうね」
「そう。素晴らしい神父のお孫さんだ。しかし……」
「しかし?」
ミスター・レンが珍しく真面目な顔をしたから羽音は無意識に眉を潜めた。早く先が知りたいという好奇心が生まれる。
「ある事件に巻き込まれ、心に深い傷を負ってしまったそうなんだ。そんな孫を心配したお爺様が、彼の為を思い、この学園に編入させることを決めたらしい」
「そうですか…心に傷を負って転入だなんて、余程怖い思いをしたのかな」
その人は、どれ程怖い思いをしたのだろうか。どれ程心の傷を負ったのだろうか。転校生のことを思えば、羽音の胸は締めつけられる。明らかに寂しそうな顔をしながら俯く羽音を、ミスター・レンはそっと抱き寄せた。
「君にそんな顔をさせる為に、この話をしたわけではないぞ? 本当に、馬鹿が付く位お人好しだな」
「わかってます。でも、誰かが辛い思いをしていることが、僕は嫌なんです」
「本当に優しいんだな? そんな来栖君を、今からベッドの中で慰めてやろうか?」
「はぁ? 貴方という人は……こんな時まで冗談を言うのですか?」
「よかった。ようやく笑ってくれたな」
いつの間にか、夕焼けが校舎を真っ赤に染め上げていた。羽音が大好きな教会も、夕日に照らされている。冬は太陽が出る時間が短い。もうすぐ、悪魔が活動を始める夜がやって来る。そんな寂しそうな景色を眺めながら、羽音はまだ見ぬ転校生を思い、また密かに胸を痛めた。
◇◆◇◆
祖父に連れられ学園の門をくぐった
「はじめまして。九条瑞稀です。これから宜しくお願い致します」
自分に向かって礼儀良く頭を下げる青年に、ミスター・レンは思わず目を見開く。
目の前にいる瑞稀と名乗った青年は、美形というわけではないが整った顔立ちをしていた。何かスポーツをしていたであろうその体は、程よく筋肉がつきスラッとしている。その落ち着いた佇まいは瑞稀を酷く大人びて見せる。きっと、さぞや生徒からモテるだろうと、ミスター・レンは溜息をついた。
ただ、その表情はまるで凍りついてしまっているように見えた。もしかしたら本来の瑞稀は、社交的で友達も多い性格…なのかもしれないと想像してしまう。常に人の輪の中心にいるような、誰からも好かれる存在であったのであれば…この子のお爺様はどれだけ、孫を不憫に思ったことか。
瑞稀のあまりにも痛々しい姿に、ミスター・レンの心は痛む。
「ひとまず、寮の中を案内します」
「はい」
瑞稀がようやく少しだけ浮かべた笑顔に、ミスター・レンは安堵する。どうやら全く笑えないわけではなそうだ。
「授業が終わったら、ここの寮長に紹介しますから」
「わかりました。ありがとうございます」
本当に十六歳とは思えないほどの落ち着いた態度で、大人しくミスター・レンの後をついて回りながら、案内に耳を傾けている様子の転校生。少しの時間一緒にいるだけでも良家に生まれ、きちんとした教育を受けてきたことが伝わってきた。
「ミスター・レン。遅くなってすみません!」
突然、食堂のほうから聞こえてくる足音に、ミスター・レンと瑞稀が振り返る。そこには、分厚い教科書を抱えて走ってくる羽音の姿があった。
「あ、来栖君」
「ハァハァ……申し訳ありません。六時限目の授業が長引いてしまって……」
「構わんよ」
息を切らせながら、自分達の方へと駆け寄ってくる羽音に、ミスター・レンは笑いかける。
ふと、ミスター・レンの視界に羽音を見つめる瑞稀の様子が入る。瑞稀は何かに吸い込まれるかのように、呆然と羽音を見つめていた。銀色の髪に栗色の瞳をもった姿を、つぶさに見つめる瑞稀の顔は、紅潮していた。
「へぇ……」
まるで、熱に魘されたかのように顔を赤らめる瑞稀を見たミスター・レンは、目を細めた。
「彼は 来栖羽音。この学校で生徒会長をしていて、君が暮らすことになる寮の寮長も勤めてくれています」
「はじめまして……僕は来栖と言います……え?」
羽音が瑞稀に向かって手を差し出し握手を求めようとした瞬間、まるで凍りついてしまったかのように動きを止める。
「……な、なんで……?」
瑞稀に差し出した手を、羽音は慌てて引っ込めてキャソックの中にしまってしまった。硝子玉みたいに真ん丸な瞳を更に見開いて、体がカタカタと震え出す。額には冷や汗が滲み、何かに怯えているのが傍目にもわかった。
「どうした? 来栖君?」
ミスター・レンが明らかに様子のおかしい羽音の顔を覗き込んだ。
「いえ、なんでもありません」
「なんでもないわけないだろう? 大丈夫か?」
「嫌! 触らないで!」
羽音の肩に触れようとしたミスター・レンの手を羽音が勢いよく払い除けた。
その顔は赤く火照り、「ハァハァ」と肩で荒い呼吸をしている。瞳は涙で潤み、その姿が嫌に艶かしい。ミスター・レンは明らかにいつもと様子が違う羽音から、そっと体を離した。
「ミスター・レン。すみません、僕、体調が良くないので、これで失礼します」
そう伏し目がちにお辞儀をしながら、羽音はミスター・レンと瑞稀の横をすり抜けて行ってしまった。
「あ! ちょっと……!」
そんな羽音を追いかけようとした瑞稀の腕を、ミスター・レンが咄嗟に掴んだ。
「君は部屋に戻っていてください。彼は俺が追いかけますから」
「でも……」
「大丈夫です。俺に任せて」
「……はい……」
不服そうではあるが、素直に自分の指示に従ってくれた瑞稀の頭を撫でてから、ミスター・レンは足早に羽音の後を追いかけた。
──なんだったんだ、あれは……。
ミスター・レンは眉を顰める。いつも冷静な羽音が見せた明らかな動揺に、ミスター・レン自身も強い戸惑いを感じていた。
ミスター・レンがそっと教会の扉を開けば、ギギっと重たい無機質な音が静かな礼拝堂に響き渡る。冬の昼間は驚く程短い。教会の中は、薄暗くなってきていた。
「来栖君。…来栖君? どこにいるんだ?」
名前を呼びながら、彼を刺激しないよう静かに教会の中を探して回る。ミスター・レンはこの寒い場所から、早く羽音を暖かい寮へと連れて帰ってやりたかった。
「いた……」
ミスター・レンの予想通り、教会の隅の椅子に蹲るように座っている羽音を見つける。
「大丈夫か? 来栖君」
そっと羽音の肩に手を置けば、体がビクッと大きく跳ねて怯える瞳でミスター・レンを見上げた。体は未だにカタカタと震え、形の良い唇を噛み締めて必死に恐怖と戦っているように見える。しかし、その表情は、明らかに欲情を滲ませていた。
「一体……何にそんなに怯えているんだ?」
あまりにも羽音が可哀想になり、ミスター・レンはその華奢な体を優しく抱き寄せた。普段は冷静な羽音も、余程取り乱しているのか必死にしがみついてくる。
「話してくれるか? 君が、何にそんなに怯えているかを……」
その言葉に背中を押されたかのように、羽音がそっと口を開いた。
「わからないです」
「わからない?」
ミスター・レンが羽音の顔を両手で包み顔を上げさせれば、子供のような大きな瞳にたくさんの涙を浮かべていた。
「ただ、九条君を見た瞬間体が熱くなって、甘い花の香りがして……今までに感じたことのない感覚に襲われたんです。それに、水晶玉が急に触れないくらい熱くなった。今までこんなことはなかったのに……」
「甘い花の香りに、熱くなった水晶玉……。まだ水晶玉は熱いのか?」
「九条君から離れたら、また冷たい水晶玉に戻りました」
羽音が水晶玉を抱き締めたまま、フルフルと首を横に振る。
「怖い、怖いです。僕は……九条君が怖い……」
ハラハラと涙を流しながら、自分に縋りついてくる羽音を、ミスター・レンは強く抱き締める。
「大丈夫。大丈夫だから」
何度何度も、羽音の頭を撫でながら、言い聞かせるように囁き続ける。
「怖い……九条君が怖い……」
カラン。羽音の手から、水晶玉が床に音を立てて落ちてゆく。そんな水晶玉は、いつの間にか空に浮かんだ三日月を歪に浮かび上がらせていた。
その夜、生徒達が自室に戻り自習をしている頃、ミスター・レンはミセス・サラの部屋をそっと訪れたのだった。
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