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でも――想像することはできる。
分かり合おうとすることはできる。
イメージを膨らませることは、できる。
その人物がどのような社会構造の中に存在し、どのような過程を経て今に至り、どのような状態・状況でその形を保ち、何をして生きているのか――それを想像することはできる。
苦難の連続であることに代わりはない。
誰かの気持ちを、想像する――ずっとそれを怠ってきた、一歩後ろで見てきた私への罰だろうと思う。
小説を書くことが苦しいと、生まれて初めて思った。
辛いと、心の底から思った。
もうやめてしまおうかと、何度も何度も思った。
小説界には、私の代わりなんて幾らでもいるではないか。
別に、投げてしまっても、良いではないか。
毎年どれだけの小説が、発刊されると思っている。
何かの賞に応募する訳でもない。
どうしても注目を浴びたいほど、生計が立たぬわけではない。
この一作が
必要以上に頑張り、無理をする意味はどこにもない。
無理なら無理とはっきり言い、断ることだってできる。
仕事だからと全てを受け入れる時世ではない。
辞めたければ辞めて、降りたければ降りて、良いのである。
そういう生き方も、決して間違いではないのである。
むしろ、安全策を作っておくという意味では、正しい方法論であろう。
常に舗装された道を歩むことこそ、人生においての正しさに直結する。
正しくありたいなら、目を背けたって良いのだ。
でも。
それでも。
ここで逃げたら。
現実と向き合った彼ら彼女らに、示し合わせが付かない。
彼らは、向き合い、逃げなかった。
逃げることだけは、しなかった。
たとえ死ぬことになろうとも、自分の現実を生き抜いた。
泥臭く、汗臭く、醜く、汚く、そんな人生を、自ら選んで完遂した。
それは、誇らしいことではないか。
素晴らしいことではないか。
そんな彼らの生を、命を。
ただの現実にして、なるものか。
生きづらくとも、死にたくとも。
逃げたくとも、悔しくとも。
辛くとも、苦しくとも。
私たちは、決して。
可哀想なんかじゃあ、ないだろう。
キーボードを打鍵する音だけが鳴り響く。
脳髄に不気味にこだまする。
手先、足先の感覚が消失してくる。
徐々に、辛い、しんどい、逃げたい、という言葉の輪廻だけが、頭を巡るようになる。私は頬を叩き、画面に集中した。
書け。
書き続けろ。
打鍵を続けろ。
脳にそう命令をして、ほとんど過集中の状態であったように思う。
今までずっと逃げてきた、人間を描写することから逃げてきた小説家が、人間を書こうとしている。
逃げるな。
――失敗から、逃げるな。
――彼らが、そうであったように。
――私も、そうであれ。
そう自分に言い聞かせて、私は書き続けた。
二度ほど意識を失いかけ、そろそろ限界に近付いてきた。打鍵を続けるにも、もうほとんど手先の感覚は無くなっていた。
長時間の集中、過労働。
当然の結果である。
その頃には、私は最終章に入っていた。
最後の、最後。
物語の
その結末で、小説全体の評価が決まると言っても過言ではない。
しかし私は止まらなかった。
集中力が枯渇する寸前まで、書き続けた。
書け。
書くんだ。
それこそが、私にできる唯一の。
世界への。
(
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