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 根石盤希。


 井津々井啄木鳥。


 押流波浪。


 芍薬咲矢。


 具備いるか。


 柿川画行。


 彼ら彼女らは、六者六葉ながら「生きづらさ」を抱えている人間達である。


 それを「生きる」というかせをはめて、、無理矢理「これが現実だ」と読者に表明すること――それが、の現実なのだろうか。


 なのだろうか。


 


 ――


 狂言回しの、名の明かされぬ、現実を冷徹に綴る小説家などではない。


 ――白稲葉苗代。


 虚構を語る、小説家だ。


 そう思い至って、私は。


 第六章まで書き終えた小説のWord 文書を削除した。


 ゴミ箱からも完全に消去した。


 


 


 虚構を。


 物語を。


 それは時に、夢を諦めきれなかった男の不細工な失調であり、他人よりも上に立とうとする女が辿り着いた登頂であり、辛酸を舐め続けた男の帰り道の暗路であり、ぼうとしているという烙印レッテルから逃れられない天然であり、不幸であることが存在価値レゾンデートルである女が生涯気付かぬ充足であり、ちゃんとしている自分の虚像に己を縛られた男の抑圧であり――現実を虚構に塗り替える私が自分も彼らと同様の人間であると了解する、そんな物語。


 私は、原稿にかぶりついて、画面を見開くように見て、執筆を続けた。


 寝食を忘れて小説を執筆したのは、これが初めてだった。


 新人賞を受賞した時も、締め切りに追い立てられた時も、仕事が立て込んだ時も、いつでも私はどこか冷静だった。


 三人称であった。


 白稲葉苗代になる前も、白稲葉苗代になった後も。


 私はどこか、自分というものに興味が無かったのだと思う。


 元々俯瞰的な所があった。


 人間観察が趣味で、俯瞰的に鳥瞰的に、人を見て、それを文章として書き起こすのが得意で――それが偶然、小説と合致したから、書き始めたのだ。それがたまさか結果として、白稲葉苗代として、努力が結実することになった。


 そして今回の「生きづらい」小説執筆に関しても同じである。取材の末に勝手に「生きづらい」人々が救済されるという現実を追加することに、何ら抵抗は無かった。


 どこかの誰かが救ってくれるだろう、という都合の良い現実。粗暴で放り投げのリアル感を演出するために、簡単に物語を曲げて執筆することができた。


 なぜならそれらは所詮、他人ひとごとでしかなかったから。


 他人がどうしようが、どうでも良かったから。


 狂言回しの小説家は、そういう人間だから。


 それは、関係のない話である。


 己が小説を書くためなら、己に火の粉が降りかからなければ、何でも良い。


 そういう究極の自己都合的な男だから。


 しかし、今は違う。


 私は、狂言回しの小説家でも、白稲葉苗代でもない。


 私――そのものである。


 人間である。


 一人称、である。


 私も、当事者の一人である。


 結局6名と取材をしたところで、結局私は、「生きづらい」とは何なのか、「生きづらい」中でも生きている人間のことを、理解することができなかった。


 辛い時もあるけれど、良い時もある。


 私の人生は、そんなものだった。


 彼らのように、ずっと己を不幸に浸し続けるような地獄の時を、過ごしてはいないのである。


 経験していないことは分からない。


 体験していないことは解せない。


 人間は、真に分かり合うことはできないと、私は思う。




(続)

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