4
「最近はどうだい、書いているか?」
「…………」
初めて。
根石が、沈黙した。
白稲葉は、察した。
小説を書く――そして小説家になる。
それは、二人が互いに支え合い、
ただしそれは、過去のことだ。
お互い精神的にも肉体的にも大人になり、現実を理解している。
そして白稲葉は、その中でも、夢を叶えてしまった側の、人間なのだ。
そちら側が、こちら側に対してどれくらい暴力的になることができるか――想像するまでもないだろう。
「ああ――まあ、一応、な」
根石からの応答は、気まずそうなものであった。
「書いている、といえば書いているし、応募や公募にも、あの頃と同じように継続的に出し続けている、調子の良い時間でな。ただ、その――何というか」
――あの頃のように、受賞できるとは、思えないんだ。
根石は、そう言った。
「あの頃っていうと、学生時代かい」
「ああ。当時は、まあ、当時から俺は莫迦だったから、知っての通り、いくつもの賞に同時並行的に作品を創作して、応募していた。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる――なつもりはなかったよ。一つ一つが渾身の一作だったつもりだ。そして何より当時は、『自分はもう少しで小説家になることができる』という、確信に近い何かがあったんだ」
「確信か」
それは、白稲葉には縁のないものだった。
白稲葉より根石の方が圧倒的多作で、作品の質も良かった。
少なくとも学生時代の白稲葉はそう思っていた。
実際に公募の一次選考、二次選考で名前が掲載されるのは、根石の方が圧倒的に多かった。
「でも、壊れちまったんだよ。気付いちまったんだよ。『ああ、そうか、今のままじゃあ、このままじゃあ、俺は一生小説家にはなれないんだ』ってな。それから自分を変えようとして、失敗して、丁度その時期が、教員採用試験の、一次試験が終わった後だったかな。自我っつうか、何かそういうものが壊れちまって、俺は一年目、一次に合格したけれど、二次試験の会場に行くことができなかったんだ」
「――そうだったのか」
落ちた、という情報しか知らなかったので、それには白稲葉は流石に驚いた。
「教採って、アレだよな。一次はペーパーテストで、二次は面接や模擬授業だったと聞いたぞ。君は放課後にも教職関連の集まりに参加していたし、その辺り、別段自信が無かったという訳では無いのだろう?」
根石のことだ、綿密に準備を進めていたに違いはない。
「何だ。君をそこまで追い詰めたものは、一体何だ」
根石は、ずっと俯きがちであったその顔を表に上げ、白稲葉と眼を合わせた。
その眼は、鈍色の光に包まれていた。
「俺を追い詰めたもの、それは――」
言おうか。
どうしようか。
迷った末に、言う選択をした。
いずれにせよ、根石は後悔することになる。
「お前だよ。白稲葉苗代」
「――ぼ、僕が」
まさか。
自分の名がここで出るとは、白稲葉も思っていなかった。
そしてそれを悟られないように、取り直した。
「そうだ。ああ、こんなこと本当は言いたくなかったんだが、言うぜ。小説に対して、俺の努力は、その質も、量も、お前を上回っていた――と、当時の俺は思っていたんだな。いや、今でもそう思っているかもしれない」
根石は、雪の日の吐息のように言う。
「だから、先に報われるのは俺の方だと思っていた。教職課程を履修したのも、小説家になるための保険に過ぎない。俺は小説家になりたかったし、そのための努力を、していた。しかしどうだ。お前は俺より先に、小説家になった。俺よりも劣っている奴が――否、俺よりも劣っていると俺が勝手に思っていた奴が、実は俺を遠く後ろに置いて先に行っていた。その現実に、俺は、耐えることができなかった。後は、察しの通りだ」
「――そうか」
「ああ、気にしなくて良い――俺は別段、お前に対して怨恨の情を抱いている訳じゃない。恨みつらみは無い。だから俺は、今でもお前と一緒にいるんだ」
「…………」
そんな素振りは、学生時代も今も、一切見せなかった。
否、見せないというその素振りこそ、もう根石の病状は、始まっていたのだろう。
「ただ、そうだな。端的に言うのなら、俺は妬ましかった、羨ましかった、お前のことが。その感情を隠蔽しようとして、失敗して、壊れた。ただそれだけの話だ」
根石は、烏龍茶を飲んだ。
「じゃあ、僕が原因なんだな。僕のせいで、君は統合失調症になり、職を失い、障害者手帳を交付され、毎日希死念慮と、闘っているんだな?」
白稲葉のその問いに、根石は少しだけ
そして、答えた。
「ああ、そうだ」
そこから先、何を話したのかは、白稲葉はあまり記憶していない。
酒が進んだか、もしくは記憶から削除したのかは、定かではないけれど、久方ぶりの親友と
「じゃ、またな。白稲葉先生――あんたの小説、楽しみにしているぜ」
「……ありがとう、根石」
それ以外。
――それ以外に、何を言えば良かっただろうか。
白稲葉はそう思った。
二人は別れた。
時刻はまだ、夜の8時であった。
一度だけ振り返った。
赤いヘルプマークが、根石のリュックに揺らめいていた。
(続)
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