3

「それで――その、病名は何と言われているんだい」


「ああ、統合失調症だ」


「統合――」


 その病名は、聞いたことがあった。


 情報源は記憶していない。報道番組か新聞の欄のどこかだろう。


 あまり良い印象の無い病名である――まあ、そもそも病名に良い印象などないのだが。


 白稲葉の中では、統合失調症という病気は、かなり精神病――鬱病や適応障害よりも更に上位の疾病であるという認識があったので、驚いた。


「それは――大変だったな」


 それ以外の言葉が、見つからなかった。


 下手に知識ぶって傷付けても仕方があるまい。


「ああ、まあな」


 根石は、遠い眼をして言った。


「その――こんなことを臆面も無く言うと失礼にあたるかもしれないが――僕には、まるで君が当時と変わらぬ健康体に見える」


 多少いびつな感はありつつも、根石は学生時代と変わらぬ様子に見えた。


「ああ。まあ、それもまた、俺の病状らしい。極力他人には己が病状を振舞ってしまうのだそうだ」


「それは――」


 確かに言われてみれば、学生時代から、根石にはがあった。


 無理と無茶と自己批判の権化のような男で、自分に必要以上の休息を与えようとしない――それでいて、周囲にはそれを悟らせなかった。


 白稲葉は以前、彼を「何でもできる」と評していた。


 その性質は、彼の成績や素行、そして何より小説の出来の良さに塗りつぶされていたけれど、根石の本質的なものである。


 白稲葉は、それを知っていた。


「ああ、周囲からの評価に異常に執着する――自分を良く見せようとする。それが行き着いた先が、統合失調症だ」


「そう、か」


「まあ、学生時代から、その片鱗はあったんだがな。実際教員採用試験には、3度落ちているわけだしな」


 それは知らなかった。


 3度目も落ちていたとは、根石らしくない。


 否、この「らしくなさ」――というのも、元来根石の持つ評価や固定観念に基づく客観的評価である。


「良くも悪くも自分に厳しい――その悪い所が顕著になってしまった、ということか」


「ま、あたらずといえども遠からず、といったところだな」


 そう言って、根石は烏龍茶で喉を潤した。


「その認識で、大体は合っているよ。俺は、。愚かなことだ、己の限界値も図れぬ奴は、社会には要らないというのにな」


「…………」


 白稲葉は、何も言えなかった。


 自己批判。


 自罰。


 それは行き過ぎれば、自傷に辿たどり着く。


「悪い、雰囲気を悪くしてしまったな」


 申し訳なさそうに、根石は言った。


「まあ、そうだ。無理と無茶を煮詰めて、当たり前のように自分を追い詰める俺に、俺は酔っていた。否、それが当たり前だと思っていたのかな。結果として、人よりも早く精神の限界が来てしまった、という塩梅だ」


「精神の、限界」


「ああ。まあ、そこに、統合失調症という病名が付いたというだけだと、俺は思っているよ」


「そう、か」


 思っていたより消沈していないというか、明るさの残る口調であった。いや、根石のことだ、見えないところで、例えば一人になった時に、その無理の反動分、自責しているのだろう。


「じゃあ、仕事はしていないのか。ずっと家にいるのか」


「ああ。お蔭様で表情筋が下がって来て仕方ないぜ」


 そう言って、根石は、己の頬を引っ張った。


「その――これもまた直接的な言い方になってしまって申し訳ないのだが、収入、生きるための金銭は、どうしているんだ」


 そうである。


 白稲葉は、そこが気になった。


 生きるためには、金が必要なのだ。


 それは、どんな綺麗事でも善意でも塗りつぶすことのできない、現実である。


 光熱費。


 衣食住。


 一度でも一人暮らしをしたことのある者ならば、それが理解できる。


 それに対して、根石は少々言い渋った。言いにくいことを聞いてしまったか、と白稲葉が悔いる前に、先に根石が答えた。


「ああ、生活保護を受給しているよ」


「そう――なのか」


 生活保護。


 それは統合失調症よりも、良く聞く言葉である。


 白稲葉も小説の中で、生保受給者について触れたことがあるので、人並みの知識はあった。


 自治体にもよるが、そう簡単に受給できるものではなかったはずである。


 つまり――それだけ、根石の状態は悪かったと、見るべきなのだろう。


「生活費が底をついて、自殺も考えたが、ふと、生活保護の存在をネットで目にしてな。駄目元で市役所の生活福祉課に赴いて、受給したいという旨と、診断書を持っていったら、意外にもすんなりと通ってな。俺も驚きだったよ。ま、実際にはギャンブルも煙草も飲酒もしない。金なんて使うことはないから、大半は貯蓄に回しているがな」


「そうか、まあ取り敢えず、喫緊の問題は何とかなりそうなんだな」


「まあな。とはじょう、金があるからといって、病状が良くなるというかといえば、それはまた別の問題、なのだが」


「そりゃそうだ」

 満たされているからと言って、人間の悩みは無くならない。


 それを人は時に傲慢と言うが、白稲葉はそうは思わない。


 家庭を持ち、子どもを設け、一見何の悩みも無いような暖かい家庭にも、彼らにしか分からない問題なにかがある。「どこにでもある普通の家庭」なんて、それこそゲームや空想の中にしか存在し得ない、現実味の無いものなのである。

 

 少なくとも、白稲葉苗代の小説の中には、登場はしない。

 

 否、させないように努力している、と表現した方が正しい。

 

 現実的な不条理や不合理を、探偵小説の様相テイストにまとめて強引に物語にしたものが、白稲葉の作風である。




(続)

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