8−3

 祝勝会を断ってまで早く帰宅したのは、何もバレー部との距離感を保とうとしていたからではない。

 今日は父、もとい渋川いかほのWebオーディション本戦の日でもあるのだ。

 オーディションはまず、アップロード済みの動画を審査する事前選考から始まった。

 再生数やチャンネル登録者数を鑑みられたら結果は完全に絶望的だが、ここは歌声で判断されたようだった。何故そう思うかといえば、渋川いかほはこの事前選考を通過したからだ。或いは、審査する側は動画なんかいちいち見ておらず、参加者の中で抽選を行った結果なのかもしれないが。

 本戦は生配信として、つまりリアルタイムで行われる。二十名の出場者全員がそれぞれ得意の曲を披露し、視聴者による投票で優勝が決められるのだ。

 本戦出場を喜んでいた父だったが、出場者が二十名もいると聞き、その顔から喜びの色が落ちた。「まあ、十二位ぐらいに入れれば良い方か」と弱気なことを口にしていた。

「優勝しなくてもいいから、とにかく名前を残して。まあ、名前を残すには優勝するのが一番だと思うけど。あとは悪目立ちしないように気をつけて」

「普通の地方公務員には難しすぎる注文だよ」

 そう言いながらも父は練習を重ね、どうにか様になるように仕上げた。

 動画を二本上げてきた中で、ボイスチェンジャーの設定や父自身の発声方法など、技術面では確かな進歩があった。元来が生真面目な父が勉強と訓練を重ねてきたことが、いかほの歌声からは感じられた。何より父には、形はどうあれステージに立ち、人前で歌っていた経験があるのだ。これならもしや、と期待を抱いてしまうのは身内贔屓かとも雫は思うが、しかし想像を抑えることはなかなかできなかった。

 一つ困ったことがあるといえば、本戦の開催時間だった。

 土曜の十九時、つまり週末の夜なのである。この時間、向田家では夕食時となっている。テレビではNHKのニュースが流れ、それを観ながら父は晩酌をし、他の家族は夕飯を食べる。最近は修太郎が塾で不在がちだが、父は必ず食卓に着いている。

 父の職場は世間が公務員に抱くイメージを具現化したように、ほとんど残業がなく、休日出勤も皆無だという。それは土曜の夜、家に居ない理由を考えるのが難しいことも意味していた。急な職場の飲み会とでも言えば良さそうだが、狭い町ということもあり、職場の人間関係は母も把握している。迂闊に誰かの名前を使って、買い物に出掛けた母がその人の奥さんなどに会ったりすれば、そんなところから嘘が露見しかねない。

 家に居る以上、夕飯をとらずに別のことをしているのも不自然だ。母は既に父の行動に疑いの眼を向けている。それほど真剣なものではないが、納屋で何かをしていると察知されれば、踏み込んでこないとも限らない。夜中に寝室を抜け出していることについては、母は眠りが深いから大丈夫だと父は豪語しているが、夜の七時となれば話は別である。

 かといって、どこか場所を借りることもこの片田舎では困難だ。カラオケボックスもレンタルオフィスも、隣の市の中心部まで行かなければない。それ以前に、配信に出演するための機材やネット環境のことを考えると、そもそも家から出るわけにはいかない。

 家に居なければならない時間に食卓にはおらず、それでいてオーディションに万全の体制で臨むには家のどこかには居なければならない——。

 この相反する条件を満たす鍵は、父娘の協力にあった。

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