5−6

 納屋に灯りが点いた。

 午前0時。昨日と同じ時間である。雫は窓辺を離れ、部屋を出た。

 玄関をそっと出て納屋へ向かう。今夜は武器になるようなものは持っていない。その必要を感じない。足を忍ばせたり、息を殺したりするような注意もしなかった。自分の存在を隠すつもりは毛ほどもなかった。

 納屋のアルミ戸に手を掛け、カラリと開ける。その音が聞こえたらしく、黒い甚兵衛の肩が弾かれたように跳ね、一端静止する。

 恐る恐る、を絵に描いたようなぎこちなさで、父が肩越しにこちらを向いた。

「雫……」

 呼吸を整えようと吐く息と共に父は呟く。

「どうした、こんな時間に?」

 同じ質問は父に対しても成り立つ。だが雫は後ろ手でアルミ戸を閉めると、用意していた別の言葉を口にする。

「動画、上げるんでしょ? 手伝うよ」

 父の元へズンズン進んでいく。父は「あ」とか「いや」とか声を漏らしながら目に見えてあたふたしている。

「さっきの話はお父さんの職場の人の話だよ」

「この期に及んでいいから、そういうの」

 納屋の奥はすっかり父の作業場と化していた。奥の壁に向かって机が置かれ、その上にはデスクトップPCにマイク、卓上用の防音材まで用意されている。誰が見ても、ここで何らかの録音作業が行われていると思うに違いない。

 父を押し退けるようにしてPCの画面を覗くと、編集中の動画にはピンクの髪を輝かせた美少女キャラクターが映っている。昨日、遠巻きに見えたのと同じキャラクターだ。

「これは、知り合いに頼まれてね。知り合いっていうか、その息子さんなんだけど……」

 そんな父の声も、左の耳から入って右から抜けていく。

 カーソルを動かし、編集済みの部分を再生してみる。

『早速歌にいこうと思うんですけど、今回の曲はこちらです』

 昨日聞いた父の言葉が、鼻に掛かった甲高い声に変わっている。アニメキャラクター風を目指すあまり、テープを早回しにしたような不自然に高い声となっている。

『今更かよって言われそうですが今更です』

 動画を止める。納屋の中が沈黙に包まれる。

「変なの」

 雫は言った。

 父は何も言わない。振り向かずとも、項垂れている姿が目に浮かぶ。

「声、高くし過ぎ。プライバシー保護してるんじゃないんだから」

「あ、そこなの?」

「このキャラクターもインパクトに欠ける。どこにでも居そうで、ネットだと目を引かないと思う」

「どうすればいいのかな?」

「自分で描いたの?」

「AIを使ってんだ。最近の技術はすごいんだな。言葉をちょっと入れたらそういうのが出来上がるんだ」

 俄に誇らしさを帯びる声に、雫はようやく振り向いた。父が縮み上がった。

「わたしが描くよ」

「描く」

 父は鸚鵡返ししてから、

「な、何を?」

「わたしが描く。この子の絵」

 ポカンとしている父に、畳みかけるように雫は続ける。

「その他諸々も手伝うよ。上手くいってないんでしょ」

「いってないけど」

 父は虚ろな調子で言う。

「雫も学校とか忙しいだろう」

「裏方だけなら問題ない。歌のこととかはよくわからないから自分でやって」

 お父さん、昔はさあ——と、幼い頃に車で聞いた声が耳の内側に蘇る。吹いていた口笛をやめ、ハンドルを握り直す父の横顔も見える。

「歌手に、なりたいんでしょ」

 呆気に取られていた現在の父が弱い笑みを浮かべる。

「その話、雫にしたことあったっけ?」

 笑う父から雫は目を逸らす。逸らした先で、壁に立てかけられたギターケースを見つける。他の農機具同様、埃を被っている。父が運転中に吹いていた、掠れた口笛の音が聞こえた気がする。

 もう一度夢を追う手伝いをしたい、とは間違っても言わない。言える筈がない。

「親が恥掻くところを見るのは忍びないし」

 代わりにそう言っておく。

 父はまた暢気に笑う。

「どうせお父さんだってわからないんだからいいじゃないか」

「よくない。父さん、間違って顔とか晒しそうだし」

「それはやりかねないかもなあ」

「こんな田舎でやったら、すぐ近所中に知られるよ?」

「田舎なんだから誰も観ないよ。未だに再生数一桁だし」

「それでも何が起こるかわからない。役場で顔、知られてるでしょ」

 だからこそ、顔を隠して歌っているのだろうと納得した。よりによって美少女キャラのアバターでなくてもいいとも思ったが。

 父は後頭部を頻りに掻く。嬉しい気持ちを隠している時の癖だと母が言っていた。

「雫が手伝ってくれるなら心強いなあ。でも、母さんたちには内緒にしてくれないか」

「言わないよ」

 こんなこと、誰にも話せない。

「二人だけの秘密だな。これぞまさに——」

 雫は相手の言葉を遮り、

「わたしからも一つ、お願いがあるんだけど」

「な、何?」

「駄洒落は禁止で。動画でも私生活でも、どっちでもやめて」

「……はい」

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