5−2

「どうしたの、今日?」

 向かいで持参の弁当を突きながら宮野森が言う。

「朝からぼんやりして、何かあった?」

 一瞬、昨夜のことを話そうかという考えが頭を過ったが、すぐに別の自分に止められる。状況が状況だけに、どう思われるか予想がつかない。自分だってどう思えばいいのかわからないのだから当然だ。そんな状態で人に話すのは色々な意味でリスクが大きすぎる。

「——これは仮の話なんだけど」

 雫は切り出す。

「もし、宮野森が夜道を一人で歩いていたとします」

「何、藪から棒に」

「するとどこからか歌声が聞こえてきます。男の人の歌声です。しかも歌っているのは最近流行の若者向けの曲で、元は女性ボーカルです。どうやらバーチャルアイドルをやってる人のようで、ネットに上げる動画を撮っているみたいなのですが、あなたはそれを見てどう思いますか?」

 パックの野菜ジュースを吸いながら聞いていた宮野森は「それ、何かの心理テスト?」と言った。

「いや、単にそういう状況になった時、宮野森ならどう思うか訊きたいだけ」

 雫が言うと、宮野森は少し考え込むような顔をした。

「夜道ってシチュエーションを別にすると、特に何も思わない」

「そうなの? おじさんが最近の曲歌ってるんだよ?」

「おじさんに届くぐらい売れてるってことでしょ」

「女の子の曲だよ?」

「女が男の曲歌うこともあるんだから、別に普通でしょ」

「そうか、そうなのか」

 雫は机に突っ伏す。

「わたしは心が狭いのかもしれない」

「何があったか知らないけど、そんな疲れた状態で部活やって大丈夫? 経験者だって言ってもブランクあるんでしょ」

「大丈夫。放課後までしっかり眠るから」

「こら」

 宮野森がパックの底で小突いてきた。

「さっさと蔵本くらもと先生の所に行けば、バレー部だって断りやすくもなるんじゃないの?」

 叩けなかった美術準備室の扉と、その前で声を掛けてきた美術教師の顔が浮かぶ。

「そうかもね」

「何をそんなに躊躇してるの?」

「だってもう二学期だし」

「二学期なのに、バレー部にはひょっこり顔出そうとしてるじゃん」

「それは……」

 顔の向きを変え、窓の方を向く。

「わたしの実力を買ってくれてるからだよ」

「絵の実力だってあると思うけど?」

「それとこれとは別なんだよ」

 窓の外を雲がゆっくりと流れていく。空が高い。秋の空というやつだ。

「前から思ってたんだけど、向田って何でそんなに絵描くこと隠したがるの?」

「似合わないでしょ。こんな図体で背中を丸めて絵描いてるなんて」

「姿勢を正して描けばいい」

「姿勢の問題じゃないんだよ」

 教室のどこかで男子同士の談笑が起きる。それが雫を小学校の、四年三組の時の教室へと連れ戻す。周りを囲む数人の男子。彼らの、多分に嘲りを含んだ笑い声。唇こそ噛みしめなかったものの、涙が零れ出ないよう必死で堪えていたのを思い出す。

「絵描くのに外見なんか関係あるかね」

 宮野森の声で、雫は県立高校の一年B組の教室に連れ戻された。

「みんなが宮野森みたいに大人だといいんだけど」

 太陽が雲に隠れ、程なくして再び顔を出した。

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