4−2
使われなくなって久しい農耕具の奥に、白熱色の電球に照らされた黒い甚兵衛の背中が見える。丸まったその背の向こうではデスクトップPCのモニターが光っている。映っているのは人影らしい。
形だけならリモート会議をしているように見えなくもない。或いは、仕事ではなく別の用事で誰かとWebミーティングでもしているのか。しかし、視認できる限りでは、画面の中の人影は甚兵衛の人物の動きに連動している。かといって映っているのが本人というわけではない。更に目をこらすと、画面の中の人影は実写でないことがわかる。
現実では到底出せない鮮やかなピンク色の長い髪。それが緩やかに波打っている。その長髪に縁取られた小さな顔は輪郭が整い、色は透けるように白い。それでいて頬はほんのり朱く染まっている。顔の四分の一ほどをぱっちり開いた眼が占めており、紫がかった瞳の中に星の輝きを思わせる光が宿っている。鼻は小さな点、口は短い曲線で表されている。記号化された〈美少女〉が、そこには映っていた。
危うく金属バットを落としそうになって、寸でのところで雫は我を取り戻した。
いや、まだ引き戸の隙間から見える光景が現実のものだとは信じられない。手の甲を抓ってみるとしっかり痛いが、だからといってこれが夢ではないと断言する自信は湧いてこない。
受肉、という言葉が浮かぶ。本来の宗教用語から転じて、ネットで使われている概念である。多くは男性が美少女キャラクターのアバターを纏って動画配信を行う際に使われる。世間にはこうした活動をしている者が一万を超える数存在しているとも言われている。雫自身、そうした動画を何度か目にしたことがあり、決して物珍しいものだとは思わない。
だがまさか、自分の近くにそれを発信している人物がいるとは思わなかった。
それも友人知人、兄弟ですらない人物だとは。
「それからお気づきかもしれませんが、今回から新しいマイクを買ったんですよ。音がね、全然違うんです……自分で話してるとわかりませんが。では聞いてください」
後ろ姿がゴソゴソし出し、頭にヘッドホンを装着する。白髪交じりの頭がリズムを取るように揺れ始める。
既に雫の中には、夜中に他人の家の納屋に入り込んだ不審者に対する恐怖はなかった。恐怖は依然としてあったが、それは明らかに、ここに来るまで抱いていたのとは別種のものだった。
納屋の人物が歌い始める。聞き覚えのあるメロディーは聞くうちに去年流行ったアニメソングだ。すぐにその曲と結びつかなかったのは、高音の女性ボーカルだったものが男の低い声で歌われていたからだ。
両耳を覆う大きなヘッドホンの隙間から、シャカシャカとメロディーラインが漏れている。それに置いていかれまいと、歌声は必死について行こうとしている。
やがて曲が終わり、歌声が止む。キーボードを叩く音がして、音漏れのシャカシャカだけが聞こえてくる。録音した自分の歌を確認しているらしい。ブツブツと呟く声に雫は耳を澄ませる。同じ言葉を何度も繰り返しているのは、曲のフレーズを口の中で練習しているようだ。
「早口言葉じゃないんだから」
甚兵衛の背中が呟く。
「舌が全然回りませんでした」
頭の先からつま先までを細い氷の芯で貫かれたような感覚に雫は襲われた。続いてやって来た震えの原因は、精神から来るものなのか、単に夜気にあてられたせいなのか、判断がつかなかった。
呟いた本人は己の言葉に忍び笑いを漏らしてから咳払いした。そしてもう一度、同じ歌をうたい出した。
雫は後ずさる。一刻も早くこの場を離れたかった。砂利を踏み鳴らさぬよう注意することだけは辛うじてできた。そこからどうやって自分の部屋にたどり着き、ベッドに入って眠りに就いたかまでは覚えていない。
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