2−1

「——で、結局断り切れなかったわけだ」

 隣に座る宮野森みやのもりの声は、電車の中でも鮮明に聞こえる。音声に特殊な加工が施されており、周囲の騒音をカットでもしているかのようだ。澄んだ声、というのはこういうものを言うのかもしれない、と雫は思う。宮野森の声を聞いていると、小鳥の囀る森の情景が目に浮かぶ。

「公式戦の一試合だけだよ。それだって勝てるかわからないし」

「そのまま勝ち進んでズルズル居続けることになるかも」

「一試合だけってちゃんと約束したし」

「どうだか。向田は押されると弱いからなー」

 宮野森がツンと上を向く。その拍子に彼女の艶やかな髪が揺れ、花のようなにおいが漂ってくる。そのにおいを嗅ぐ度、雫は森の奥に開けた花畑を思い浮かべる。そこには柔らかな日差しが射している。

 向かいで居眠りしているサラリーマンの後ろの窓に、うっすらと自分と宮野森の陰が映っている。一方は華奢で、一目で女子だとわかる。もう一方は肩幅があってしっかりとしていて、見ようによっては男っぽくもある。肩を窄め背中を丸めてみるが、無駄だった。宮野森の隣に居ると時折こういう気持ちにさせられる。

「練習は明日から?」

「そう。朝練は勘弁してもらった」

「じゃあ、しばらく一緒に帰れないね」

「ごめん」

「私は別にいいんだけど」

 空気が堅さを帯びた気がする。

 電車が停まり、開いたドアから親子連れが乗ってきた。母親とおぼしき女性と小さな男の子だ。男の子が空いていた雫の隣に座る。その前に母親が立つ。雫は腰を上げ、母親に席を譲る。大丈夫ですよと遠慮されるが、再び腰を下ろすことはしない。

 男の子の隣に座った母親からのお礼に目礼しながら宮野森の前に立つ。見上げてくる宮野森は肩を竦めた。表情がいくらか和らいでいる。

「手」

 宮野森に言われ、

「手?」

 雫は吊り革に掛けた右手を示す。

「気をつけなよ。怪我して描けなくならないように」

 雫は頷く。

 宮野森は雫が描いた絵を見たことのある数少ない人間の一人だ。というより、雫が認知する限りは彼女しかいない。それも見せるつもりはなかった。学年が始まったばかりの頃、前の席に座っていた彼女が不意に振り向いたため、ノートの隅に描いた落書きを見られたという、全くの不可抗力からの出来事だった。

 ほんの手慰みに描いた絵だったが、それを一目見た宮野森は「絵、うま」と呟いた。本当に、つい零れたというような言い方だった。

 それから彼女はもっと他にあれば見せてほしいとせがんできた。嗤われるか無言で見なかったふりをされることを想像していた雫は、宮野森のこの反応に上手く受け身を取ることができなかった。その場は曖昧に誤魔化しつつ、夜、床に就いてからようやくそれが喜ぶべきことであると思い至ったぐらいであった。

 以来、宮野森にはこっそり描いた絵を見せては感想をもらうようにしている。宮野森はネットに上げるべきだと奨めてくるが、名前も顔も知らない人々の眼に晒すのはどうにも気が進まない。美術準備室の戸を叩くのと同じぐらい、越えねばならないハードルは高いのだ。

 電車が緩やかに減速し、やがて停車した。宮野森が腰を上げる。

「じゃ、また明日」

「うん」

 応える雫の前を、宮野森は例の森の奥の花畑のにおいを残して横切っていく。その後ろ姿を見送っていると、彼女が不意に振り返った。

「たまには自分も大事にするんだよ」

 雫が何と言うべきか迷っている間に、宮野森は手を振って降りていった。遅れて雫が手を挙げた時には発車ベルが鳴り、扉が閉まった。

「ここ、いいかしら」

 いつの間にか小さな老婆が側にいて、宮野森が座っていた席を示している。雫はどうぞと譲って自身は扉の側に移動した。

 窓の外を流れていく田園風景は、いつもより輝いて見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る