父が歌えば
佐藤ムニエル
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扉の向こうから女子の笑い声が聞こえる。談笑、というような複数名で笑い合う声だ。男女どちらの声も混じっている。
それでも、軽く握った拳を扉に近づける。手の甲で打とうとする。
ノックの音が響く。扉の向こうで生徒たちが談笑をやめ、一斉に音のした方を見る。おずおずと引き戸を開けた闖入者を彼らは快く思わない。折角みんなで盛り上がってたのに何だこいつ、という眼を向けてくる。そもそも誰なんだお前。そんなでかい図体でこの部屋に何の用だ。
見てもいない批難の眼差しを想像しただけで息が詰まる。扉までのほんの数センチを詰められず、雫は手を引っ込める。
「君」
側で聞こえた声に小さく肩が跳ねる。
父よりは若い、中年の男性が立っている。丸い眼鏡に芥子色のカーディガンという出で立ちからは、他の教師たちとは違うどこか浮世離れした雰囲気が感じられる。
「私に何か用かな? 授業のことで——」
「いえ」
雫は喉から声を絞り出す。
「すみません、間違えました。すみません」
逃げるように、というよりそれはまさに逃走そのものである。飛ぶように廊下を歩き、一刻も早く相手の視界から消えようと角を曲がる。
見られてしまった。見られてしまった。見られてしまった。胸の中で唱えながら教室のある北棟へ戻る。顔が熱い。今さっき起きたことを反芻しようとするが、記憶が上手く像を結ばない。自分は何かおかしなことを言わなかったか。相手にはどう映っていただろうか。検証しようとするが、考えがまとまらない。
教室へ続く廊下を歩く頃には顔の火照りも収まり、いくらか落ち着きが戻ってきた。
すると今度は恥ずかしさが押し寄せてきた。どうして「間違えました」などと言ったのか。何を間違えたと言うつもりだったのか。怪しすぎる。不審に思われたに違いない。次からどうやって顔を合わせればいいのだろう。
小さく溜息をつくと、目の前に誰かが立った。立ち塞がる、という明確な意思を感じる立ち方に、雫は思わず足を止める。「げ」と顔には出さないが胸の中で言った。
「待ってたよ、
腕組みしたまま見上げてくる吊り気味の目は、コート内を駆け回り、時には場外のベンチに突っ込んでまでボールをレシーブしていた試合中と同じ輝きを持っている。
雫が右へ行こうとすれば右に、左に行こうとすれば左を塞がれた。
「通してもらえませんか、
「頼みを聞いてくれたら通してあげる」
どんな頼みかは大体想像がつく。
「お断りします」
「まだ何も言ってないよ」
「いくら誘われてもバレー部には入りませんよ。もう二学期ですし」
言ってから、自分の言葉が胸に刺さる。そう、もう二学期なのだ。
「それはもう諦めたよ」
「なら通してください」
「君の入部は諦めたということさ」
話が何となく見えた気がする。と同時に、塩谷先輩は組んでいた腕を解き、雫に文字通り縋りついてきた。顔からは不敵さどころか笑みが消え、命乞いでもするような余裕のない表情になっている。
「頼むよ向田ちゃん。きのうの練習で一人怪我しちゃってさあ。今度の大会までに間に合わなさそうなんだよ」
「補欠の一年生がいるじゃないですか」
腕に少しだけ力を入れてみるが、簡単に振り解けそうにはない。
「そこにわたしが入って試合なんか出たら感じ悪いですよ」
「みんな向田ちゃんならって納得してるから大丈夫だよ。高校から始めたばっかり試合に出るのはまだ怖いんだって」
「そんなことでこれからやっていけるんですか?」
「うちは長い目で育てていく方針なんだよ。だからさ、お願い。毎日パン一個ぐらいならおごるから」
パンはいらないので離してください、と雫は思うが、口には出さない。
「うちが部員数もギリで未経験者が多いの知ってるでしょ? モチベーションを保つためにも、最初の試合はぐらいはどうしても勝ちたいんだ。こんなこと向田ちゃんにしか頼めないんだよ。お願い、力を貸して」
塩谷先輩は同じ中学の出身だ。バレー部で同じチームに所属し、同じコートでプレーしてきた。高校でバレーボールをするつもりのなかった雫は全く別の理由からこの学校を選んだが、そこにたまたま塩谷先輩がいた。しかもそれほど盛んではないバレー部に入り、どうにか盛り立てようと頑張っていた。
だから四月の部活勧誘時期に雫を見つけた時には、塩谷先輩は目に涙を浮かべ抱きついてきた。自分のために雫がわざわざこの学校を選んだとすら思っていた。それでいて雫がバレーをするつもりはない旨を告げると、割とあっさり身を引いた。そうかそうかごめんね、と言いながら浮かべる笑みにはいくらか寂しさが混じっており、雫の胸の隅を突いた。
自分の力を必要としてくれている人がいる。
その願いを、無碍に振り解いていいのだろうか。
雫は息を吸い、静かに吐き出した。
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