第6話

 遠山が老中の阿部伊勢守正弘あべいせのかみまさひろと顔をあわせたのは、白根と話をした翌日のことだった。江戸城での評議が終わった後に天祭りの件で話があると言うと、阿部は何ら問い返すことなく、自分の屋敷に来るように言った。


 二人が顔をあわせたのは、申の刻をわずかに過ぎた頃で、奥の書院で待っていると、阿部が現れて上座についた。


「待たせたな。着替えに手間取ってしまってな」


 阿部は練色の小袖に、木蘭色の袴といういでたちだった。渋い色合いがよく似合っている。


「さて、天下祭の件で話があるとか」

「はっ。事の次第がつかめましたので、そろそろ吟味を終えようと考えております」


 遠山は事の次第を説明した。


 南伝馬町の蔦が長州の家臣に突っかかったことに変わりはない。家臣は棒で追い払おうとしたが、勢い余って、蔦の頭を叩いた。それに腹をたてた仲間たちが詰めより、大喧嘩となった。


「処分としては、騒ぎを起こした南伝馬の蔦は所払、喧嘩に加わった蔦十三人を急度叱り。騒ぎを抑えられなかった山王社神人五人を押込。さらに、毛利家家臣三人を押込。これに加えて、獅子附行事ししつきぎょうじ八人に過料かりょう二百貫。このようなところでよろしいかと」

「獅子附以外の行事は、どうする。まとめ役であるが」

「練り歩きの最中に起きたことでございますから。構いなしということでよいでしょう。そこまで目は届きませぬ」

「そうだな」


 阿部はしばし考えてから遠山を見た。


「過料が少なく思える。もう少しなんとかならぬか」

「先例に則れば、これぐらいですが」

「駄目だ。事の是非は明らかにせねばならぬ」

「承知いたしました。そこは勘案いたしましょう」」


 遠山は頭を下げた。間を置いてから話を切り出す。


「白根様についても、お構いなしでよろしいですな」


 阿部は答えなかった。表情の変化もない。


「騒ぎの最中、あまりよい行いをしなかったようですが。士道不覚悟ということで罪を問うてもよいかと」

「その必要はない」

「真相を明らかにしたくないからですか」


 遠山は切り込んだ。ここが勝負所だ。


「今回の件、どうして騒ぎが大きくなったのか、ずっと気になっておりました」

「……」

「天下祭での喧嘩など珍しくはありません。汐見坂では大工と左官が激しくやりあいましたし、小舟町でも役者崩れの連中が見物に来ていた女に手を出して、止めに入った若衆と殴りあいになりました。見物に来ていた佐賀鍋島家の家臣が渡世人と小競り合いを演じたのは、祭りがそろそろ終わろうという頃でした」

「……」

「怪我人も多く出ていますが、いずれも表沙汰にはなりませんでした。内済で片付いたからです。今回の件もそうなるはずでした。なのに、なぜ、今回だけうまくいかなかったのか」


 遠山は、語気を強めた。


「旗本がかかわっていたからでしょう」


 阿倍の頬が微かに動いた。ようやく反応が出たか。


「白根殿は、警衛の役目についていながら、喧嘩を止めることができなかった。家臣とともに割って入ろうとした。その時、たまたま棒が当たって、肩に怪我を負った。そういうことです」

「……」

「旗本の将軍の直臣。その制止を振り切って、喧嘩をつづけたのですから、これは大変なことです。放置しておけば、お上の沽券にかかわる。従って、騒ぎを大きくして強く罰する必要がある。まっとうな話で、筋もしっかり通ります」


 これで話が済んでいれば、簡単だった。本当に。


「ですが、真相は違いますね」

「どういうことだ」


 ようやく阿部が口を開いた。低い声には怒気がこもっている。


「見ていた者から話を聞きました。白根殿は止めに入ったが、すぐに追い払われてしまったと。町人と長州の家臣双方から文句を言われて。反論するでもなく、刀に手をかけるわけでもなかった。ただ、言われるがままに下がったと。要するに、怯えたのです」

「……」

「白根殿からも直に話を聞きました。喧嘩が起きて、すぐに駆けつけた。止めねばならぬと思って近づいたが、鳶と長州の家臣からにらみつけられて、すぐに下がった。途方もなく怖かったと申しておりました。天下の旗本が、無礼なふるまいをされて、怖くなって逃げた。これは一大事でしょう」


 遠山は声が高くならないように気を配りながら話していた。興奮しても意味はない。大事なのは事実を伝えることだ。


「近くには他の旗本がおりましたが、彼らも動かなかった。同じく喧嘩を前にして、怯んだのです。これを聞いて、幕閣の偉い方々は驚き、そして慌てた。旗本が恐れをなして、外様の家臣に嘗められるなどとはあってはならない。早々にお上の威厳を示さねば、示しがつかない。だから、騒ぎを大きくして、見せしめのために、目に見える形で処罰を下そうとした。そういうことでしょう」

「遠山……」

「何を今さらです。旗本が弱っちいことは、誰も知っていることです。今さらとやかく言うことではないのですよ」


 遠山は語気を強めた。


「大事なのは、嘗められてまずいと考えるに至ったお偉方なんですよ。なるほど怯えた旗本がいたのはうまくありませんが、そんなのは放っておけばいいんですよ。今までだって使えない奴はいくらでいたんですから。実際、これまで、よほどの大事でなければ問題になることはなかった。だから、これまでと同じでよかったのに、殊更に、お上が騒ぎ立てたのはなぜか」


 遠山は大きく息を吸って言い切った。

「簡単です。偉い方々も怯えたからですよ」


 旗本が喧嘩を制止できなかったという事実に、幕閣は恐怖した。


 将軍の直臣である旗本が、それが今回の件で、武家のみならず、町民の統制もできていないということを天下に示した。少なくとも幕閣はそのように考えた。


 だからこそ強い態度に出た。内なる恐怖を隠すために。


 上申書を受け取らなかったのも、吟味を厳格に進めるように命じたのも、それが理由だ。しゃにむにつぶしにかかった。


 いっそ陰謀だったらと、遠山は思わざるを得ない。もはや幕閣は、謀略をめぐらせるだけの力はもはや持っておらず、ただ、見えざる影に恐怖したのである。


「もっと堂々としていればよかったんですよ。誰も気にしていなかったのに」


 遠山は言い放った。


「これで、今回の件は終いにします。来月にでも裁きをつけます」

「待て」


 阿部は一直線に、遠山を見ていた。その眼光は驚くほど鋭い。


「もう少し時をかけよ。申し渡しは、年明けになってもよい」

「吟味することはもうありませんよ。調べ尽くしましたから」

「それでもよい。たやすく答えを出しては侮られる」


 遠山は顔をゆがめた。


 ここまで来て、体面にこだわるのか。阿呆らしい。


 時をかければ、それだけ長州にも南伝馬の町人にも負担になる。背負わなくてもよい気苦労をかけることになんの意味があるのか。


 阿部正弘は、二十五歳で老中になるほどの人物で、将来の幕府を背負って立つと見られていた。物事を深く考え、その上で正しい結論を下す。遠山も阿倍の判断力は高く評価していた。


 その彼ですら、怯えに絡めとられて、つまらぬ裁定を下すのか。


 遠山は大きく息をつくと、自然につぶやいていた。


「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」

「何のことだ」

「いえ、思わぬ出来事に驚くのは当然のことですが、そこに恐れを抱くのは、どういうことかと思いましてね。いったい何が見えているのかと」


 天下祭の喧嘩に、幕閣はつまらぬ影を見て怯え、過剰に反応した。まさに枯れ尾花である。おかしなことだ。


 ただ……。


 本当に何もないと言い切れるのか。


 揺れる枯れ尾花の彼方に、得体の知れぬ影が存在していて、それを敏感に感じとったということはないのか。本当に。


 江戸に幕府ができたから、およそ二五〇年。天下はこれまでになく揺らいでいる。それが枯れ尾花に反映されているとすれば、ただの幻想ではなく、不気味な何かが姿を見せようとしているのもしれない。


 漠たる不安。彼が感じていた些細な変化ももしかして……。


 そこまで考えて、遠山は考えを切った。


 それこそ枯れ尾花だ。悩みすぎるのはよくない。


 まあ、せめて、自分が生きている間、落ち着いていてくれれば、それでいい。


 遠山は頭を下げた。


「それでは、失礼いたします」


 阿部が強ばった顔でうなずく。その原因がどこにあるのか、遠山には残念ながらよくわからなかった。

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