第4話

「まさか、毛利家でも、あんなことを考えているとはなあ」


 思わず愚痴が漏れる。思いもよらぬことだ。


 あの後、武弘から話を聞いたが、毛利家はお上が本気で圧力をかけていると考えていて、その対策を練っていた。


「今回の件で騒ぎを大きくした上で、毛利家中で進んでいる改革について文句をつけ、さらには毛利家の秘事を暴いて、一気に追い込む。そういうことなのでしょう」


 武弘はためらわずに語った。それはすさまじい殺気を放っていた。


 このまま話がこじれるようなことになれば、最悪の事態になる前に、主君自らが詫びを入れ、江戸留守居役が切腹して決着をつけることを考えていたようだ。どう考えてもやり過ぎである。


「どいつもこいつも、どこまでお上の力がすごいと思っているのか」


 今の幕府に毛利家のような大大名をつぶす力はない。神君家康公の時代とは違うのに、そんなこともわかっていないのか。


 遠山は腕を組むと、雲が東に流れて、頭上から秋の日差しが降りそそいできた。


 温かさを感じる一方で、どこか冷たい。光はどこかはかなげで、これから訪れる寒い季節を予感させる。


 振り向くと、坂の彼方に城門が見える。桜田門で、はるかな昔から江戸城を守る要衝だ。黒い屋根瓦が彼方からでも目を惹く。


 遠山は武弘との話を終えると、一人で中屋敷周辺を歩いて回った。


 事件が起きた現場を見ておこうと思ってのことだ。


 武家屋敷と日枝神社にはさまれた一角は、人気はほとんどなく、静寂につつまれていた。商人とおぼしき男が小僧を連れて坂を下っていき、それとすれ違うようにして棒手振が姿を見せる。話し声はまったく聞こえない。


 武家屋敷周辺では、よくある光景だ。むしろ、あの天下祭の日だけが異様であるというべきだろうか。


 遠山は視線を桜田門の先に移す。


 武家屋敷が連なる先には、南町奉行所があり、外堀を超えたその先には町屋が広がっている。黒い屋根瓦の向こう側では、町人たちが忙しい日々を過ごしている。


 先日、甚兵衛と会った時、町が活気づいているのが確認できた。


 目抜き通りには人があふれ、馴染みの店に入って、店の者と話をしていく。小間物を買った娘は、ひどくうれしそうな表情をしていた。


 その傍らでは、天麩羅を売る屋台があり、飾り職人が飛び込んで、注文を出していた。油の音が弾け、香ばしい匂いが漂うと、それに引かれて、通りがかりの遊び人が縁台に座って、主に声をかけていた。


 道の角から響いてくるのは出囃子で、引き寄せられるように寄席に客が入る。


 ようやく、あそこまで戻った。本当に大変だった。


 なぜなら、長い間、江戸の町は、苦境に立たされていたからだ。


 きっかけは天保初期の大飢饉だった。洪水や冷夏の影響で凶作となり、全国各地で多くの餓死者が出た。とりわけ仙台伊達家はひどく、一〇万人が死んだと言われる。甲斐国でも被害が出て、大規模な一揆も起きていた。食い詰めた者が江戸に流れてきて、お上はその対策に追われた。


 それでも、江戸では、直接の影響は少なかったと言える。大塩平八郎の乱のように大きな騒ぎは起きず、かろうじて平穏を保つことができた。


 本当の意味で、江戸の町を追い込んだのは、その後におこなわれた老中水野忠邦みずのただくにの改革だ。


 水野は、飢饉で荒廃した農村を立て直し、お上の威光を取り戻すという意気込みで、数々の施策を講じたが、そのすべてが見当違いで、町民のみならず、武家も追い込むことになった。


 すさまじい倹約令が出されて、商取引は厳しく制限を受けた。人返令ひとかえしれい江戸に流れ込んだ農民を農村に無理矢理に戻す処置も執られた。


 芝居小屋も浅草に移され、寄席も大幅に制限された。株仲間も廃止となり、商いをとりまとめる者がいなくなった。町民に対する監視も厳しくなり、少しでも華美な服装をしていると、容赦なく番屋に連れて行かれた。


 町民にとって、水野の処置は、改革ではなく、弾圧だった。


 当時、北町奉行だった遠山は、過激な引き締めは、かえってお上のためにならぬと進言し、政策を実施せずに時間稼ぎをしたが、うまくいかず、最後には大目付に飛ばされてしまった。


 あの時の、江戸は暗く、人々はうつむいて歩いていた。


 激しい政変劇の末、改革は頓挫し、水野は幕府を去り、遠山は南町奉行として、痛めつけられた町の立て直しに全力を尽くした。株仲間の復興など、まだできていないことはあるが、それでも道筋は立てたと言える。


 この間、伝馬町を歩いて、遠山はそのことを確認した。だからこそ、あの時、遠山はこれで大丈夫だとつぶやいたのである。


 江戸の町は、間違いなく、かつての姿を取り戻しつつある。


「だがなあ」


 遠山は思わずつぶやいた。ゆっくり歩き出すが、その足取りは重い。


 活気は取り戻していたが、その一方で、遠山は文化、文政の時代とは何かが異なっていることも感じていた。華やかさの背後には、常に薄い影が漂っており、消えることはなかった。町民は笑っているが、無邪気とは言いがたい。


 不穏な何かがあり、それが町民の風情を変えている。


 その些細な差について、この間、甚兵衛と話をしたのであるが、うまく説明することができなかった。ただ甚兵衛も漠たる不安は感じていたようで、話をしている最中、表情は渋いままだった。


 それは、本当に存在するのか。するとすれば、原因はどこにあるのか。


 そして、町の者の生活にどのような影響を与えるのか。もし、江戸の治安に悪影響を与えるのだとすれば……。


 そこまで考えたところで、遠山は首を振った。


「考えすぎだな」


 幽霊の正体見たり、枯れ尾花と、この間、甚兵衛に言った。正体もわからぬまま不安を感じていても、何の意味もない。単なる幻に踊らされているだけかも知れないのだから。


 遠山はゆっくり中屋敷の門前に向かった。


 その途中で、二人の子どもとすれ違った。男と女で、丸い瞳が印象的だ。


 足を止めて丁寧に頭を下げたので、遠山は感心して声をかけた。


「よくできたな。誰かに教えてもらったのか」

「はい。お武家さまに会ったら、きちんと声をかけろとじいちゃん、いえ、おじいさまから」


 男の子が視線を向けた先には、蕎麦の屋台があり、縁台には老人が座っていた。


 遠山は歩み寄って声をかけた。


「おう。頼む」

「へい」


 老人は起ちあがると、蕎麦を鍋に入れた。


「慣れた手際だな。長いのかい」

「文政の頭からですから、三〇年ぐらいになりますな」

「そいつはすごい。場所はいつもここかい」

「芸州様のお許しを得てからは、同じ所です。一年中、変わりません」

「へえ。それじゃあ、天下祭の時もやっていたのかい。ほら、この間、喧嘩があった例のやつだ」

「はい。喧嘩も一部始終、見ておりました」

「ほう、それは」


 思わぬところで、目撃者と出会った。これは僥倖だ。


 老人は中屋敷の門に目を向けた。


「たまたま獅子頭の蔦が道から飛び出したところに、長州の番士がおりまして。つつくような格好になってしまって、それで口論になりました」

「それで殴りあいだものな。荒っぽいことだ」

「いえ。それがその前に止めに入ったものがおりまして。旗本の方だったのですが」

「なんだと」

「見廻りに来ていたようなのですが、それが妙なことになりまして」

 

 老人の説明を聞いて、遠山は顔色を変えた。


 まさか、そんな。


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