第3話
遠山の前で顔をあげた男は、頬の肉が完全にそげ落ちていた。隈が濃いこともあって、眼球がくぼんで見える。油を塗っているにもかかわらず、髪の痛みも目立っており、はじめて会った時とは別人のようだ。
異様に痩せ細ってしまったのは、一月半の気苦労が並ではなかったからだろう。悪化していく事態に対して何もできずにいる自分を責めていることも考えられる。
「
遠山がやさしく声をかけたのも、彼の立場を気づかってのことだ。
遠山とも、事件直後の八月一三日に顔をあわせている。その時のふるまいは、長州毛利家の家臣らしい威厳のあるふるまいを見せていたのであるが。
事情に詳しいだけに、心労は大きいのだろう。容貌は疲れから七十を過ぎた老将のように見える。
「正直なところ、何が起きているのかは、儂にもよくわからぬ。何か行き違いがあったのだと思う。時をかけて落とし所を探っていくのが、よいと思う」
「そうも言っておれませぬ。放っておけば、騒ぎは大きくなる一方。早々に片づけませんと」
「といってもな……」
「まさか、御老中が我々の申し出をはねのけるとは……。これは予想外でした」
武弘は顔をゆがめた。
気持ちはよくわかる。
長州毛利家は、南伝馬町の町衆との話し合いで騒動を解決するとし、その先例として安永七年(1778年)の喧嘩を裁定したときの手順をお上に示したが、なんとお上はその判断を受けいれなかった。
安永七年の喧嘩も毛利家の家臣と町衆が口論となり、町衆の練物を壊したことがきっかけだった。町衆から訴えが出て、吟味となり、その結果、町衆の四人が罰を受け、毛利家の家臣も押込やお叱りの処罰を受けている。
今回の事件と実によく似ているということで、毛利家が先例にあげて、同様の処分ですませたいと申し出たのも当然である。
だが、老中阿部正弘は受け付けず、取次から上申書が来ても受け取られないであろうと言った。
これには、毛利家中も相当に驚いたようで、真相を確かめるため、家臣が若年寄や寺社奉行、目付の所に赴いて話を聞いて回った。
今日、遠山と会ったのも、その一環である。
二人が顔をあわせているのは、芸州浅野家の中屋敷である。
例の喧嘩は、この屋敷の門前で起きている。
うかつに顔をあわせたことが知られると大変なことになるので、毛利家からここで会いたいとの申し入れがあったのだが、状況を考えれば、いささか皮肉が効きすぎているやもしれぬ。
「どういうつもりなのでしょう。お上は事を荒立てたいのでしょうか」
「いや、それはないと思う」
「では、お怒りとか」
「それも違うな」
遠山は、何度も阿部と話し合いをしているが、怒りの感情は感じられなかった。表情にも声にも大きな変化はなく、淡々とふるまっているように見受けられた。
「では、なぜ、ここまでこだわるのでしょうか」
「儂も気になっているが、よくわからぬ」
「左様でございますか」
武弘はうなだれた。肩から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうである。
これだけ奔走しても解決の糸口がまるで見つからないのである。疲れるのも当然であろう。
話を聞くかぎり、毛利家中の雰囲気もよくないようである。殺気だっている者もおり、放っておけば、新たな騒動が起きてもおかしくない。
「気になるのは、
遠山は腕を組んだ。
「辻番に詰めていたのは、京極家の家中だ。あの辺りが担当であるのだから、祭りの日に人を送るのは当然のことだ。騒ぎがおこれば、駆けつけて取調もするだろう。だが、あの程度の喧嘩で、お上に知らせることはまずない。騒ぎが大きくなるのは明らかだからな。むしろ穏便に事を済ませるため、話し合いの場を持つはず」
辻番は町の辻に警備のために設けられた場所で、町民が仕切る自身番とは異なり、武家が管理をまかされている。かつてはお上が旗本を送り込む公儀番所もあったが、今では大名が単独でとりまとめる
永田町の辻番をまかされていたのは、丹後峰山一万三千石の京極家である。天保の飢饉やその後の改革で大きな打撃を受け、最近まで当主の高景が立て直しのために奔走していた。
「右近様は武家の機微に聡い。わからぬはずはないのだが……」
「その件で、妙な噂を聞きました」
武弘が顔をあげた。その目は異様に輝いている。
「お上が裏から手を回して、京極様に届け出をするように仕向けたと」
「……」
「騒ぎがあれば、何をするのにも当事者と話をするのが慣例。それに従って、我が家に声をかけようとしたところ、お上に止められて、早々に届けを出すようにうながされたと。それでは騒ぎが大きくなると抗議したところ、一向にかまわぬと言われたようで。その言い回しに京極家は恐れをなし、我らに声をかけることなく、届けを出したとのことです」
「その話、どこから聞いた」
「さる筋とだけ申しておきます」
遠山は大きく息を吐いた。
これは、ごまかしようがないか。
「その話は、儂も聞いた。ただ、おぬしの言うように、強い態度ではなかったようだがな」
「ですが、断りなく届けを出すように仕向けたのは確か」
「騒ぎが起きれば、辻番が動くのは当然のこと。別段、悪いことではない」
「その定めが有名無実と化していたことは、遠山様も御存知のはず。だから、我らもうまくやっていくことができたのです」
武弘の話は筋が通っている。辻番が設置されたばかりの寛永、正徳の時代とは異なり、現在は武家と町人が騒ぎを起こしても、お上に報告することはほとんどない。いちいち話を聞いていたら、いくら手があっても足りないし、そもそも騒ぎの原因そのものがたいしたことがないのだから、話しあえば簡単に決着がつく。
だから問題が起きても、辻番から当事者に話がいって、話し合いがおこなわれ、詫び状が出で、終わりである。
「それが今回は違った。京極家が届けを出しただけでなく、その裏はお上がいた」
「そのとおりだが、気にしすぎることはないと思う。何か気になるところがあったのであろう」
「それが、大事なのです」
武弘は声を張りあげた。眼光が鋭さを増す。
「家中では、今回の騒動、お上の策略とみております。我らをつぶすための第一歩ではないかと。そのためにわざと騒ぎを大きくして、さらに次の手を……」
「待て待て待て。そのようなことは決してない」
遠山は手を振った。
「考えすぎた。そこまで御老中は考えておらぬ」
ここでも、そんな話が出てくるのか。甚兵衛のような町の者ならともかく、当事者である長州の者まで取りつぶしについて考えているとは。
いったい、どうなっているのか。明らかに考えすぎだ。
「でしたら、なぜ、ここまで事を大きくなさるのですか」
武弘は声を荒げた。自分の気持ちが抑えられずにいる。
「京極家に届けを出すように強要しただけでなく、我らからの上申書も受け取られないとは。無理筋もいいところです。何か裏があると思うのは当然のこと」
「いや、だから……」
「一説によると、お上は我が家中の改革を快く思っていないとのこと。立て直して、何か裏で動いていると思われているようで。それに対して手を打つつもりなのではありませぬか」
長州毛利家が家中の改革をおこなっていることは、遠山にも伝わっている。借金を棒引きにした上で、特産物の生産を拡充し、手許の資金を増やすつもりらしい。
やっていることは荒っぽいが、似たような改革は他の家でもおこなわれており、とりたてて目をつけられるようなことではない。幕閣でも毛利家の改革について議論の対象となったことはない。
「そのような考えは決してない」
遠山は言い切った。
まさか、ここでも陰謀論が出るとは思いも寄らなかった。あまりにも気にしすぎだ。
遠山は武弘を見る。
強く言われて彼は頭を下げていた。だが、その丸まった背中から漂う気配は尋常のものではなく、遠山の話を素直に受けいれていないことは容易に想像がついた。
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