第2話

「まあ、喧嘩そのものは、そんなに珍しいことではございませんな」


 甚兵衛は、火のついていない煙管を振った。


「三ヶ月に一回は、武家と町人がやりあっています」

「わかっちゃいるさ。俺だって、よくあることだと思っていて、すぐに片がつくと思っていた。ところが、どういうわけか、そうならなかった」


 騒ぎが大きくなったのは、辻番所つじばんしょの年番であった京極家がこの件をお上に報告したためである。


 武家が江戸市中で大立ち回りを演じれば、辻番所がお上に知らせるのは決まりであり、京極家はそれに従っただけだ。問題は、それをお上が重要視し、遠山に厳しく吟味するように命じてきたことだ。


「ありえねよ。お上がたかが喧嘩で口を出すなんて」


 酒が来たので、遠山は一度、話を切った。手酌で自分の盃に注ぎ、残りを甚兵衛の盃に流し込む。軽くすすってから、話をつづける。


「たいていのことは内済で片がつくし、実際、そうしてきた。なのに、なぜ、今回に限って、御老中様自ら、この件を吟味するように言ってきた。おかしい」

「同感ですな」


 甚兵衛は酒をすするが、その表情は渋い。


「喧嘩に、いちいち口をはさんでいたら、どれだけ人がいても足りませんよ。前に、騒ぎが起きた時だって、こっちが詫び状を書くことでけりをつけました。今回だって、そのつもりで、こっちは仕度を調えていたんですよ。それが、わけのわからないことになっちまって、南伝馬の連中も頭をかかえていますよ」

「こっちもだよ。おかしいな事になっている」


 吟味を命じられれば、動かぬわけにはいかず、遠山は騒ぎの中心だった毛利家家臣五人と蔦の六人を引っぱってきて、牢に入れた。毛利家は抗議してきたが、お上の意向だと言うと、驚きを露わにしつつも引き下がった。


 町人は帰したが、いまだ長州藩の五人は入牢中だ。


「お前、何か知らねえか。裏で何があったのか」

「知るわけないでしょう。あっしは単なる町人ですぜ」

「伝馬町の顔役のくせに、よく言う」


 甚兵衛は一見したところ好好爺という風情であるが、裏では伝馬町一帯の渡世人や破落戸ごろつきを束ね、町につまらぬ余所者が入らぬように目を光らせている。町の大物であり、彼が声をかければ、百人の荒くれ者が動くと言われる。


 町方にも食い込んでおり、息がかかっている与力や同心は十では効かない。


 江戸の裏社会では長老と言ってよい人物であり、同業の者からも怖れられている。


 遠山とは、彼が若い頃、町で悪さをしている時に知り合った。どちらも十代で、生意気の盛りだったので、互いの振るまいが癇に障り、よく殴りあいの喧嘩をした。大川端で二刻にわたって拳を振り合い、顔を血だらけにしたこともある。


 不倶戴天の天敵と思っていたが、深川から渡世人の集団が伝馬町に仕掛けてきた時に共同で戦ってからは関係が改善し、いつしかつるんで遊ぶようになった。


 互いに忙しくなって、立場も変わってしまったが、それでもこうして何かあれば、蕎麦屋の二階で会って顔をあわせる仲だ。


「調べても、これといって変な話は聞かねえんですよ」


 甚兵衛は顔をしかめた。


「やらかした理由わけを聞いても、長州の家臣がこっちを見て笑ったとか、そういうのでしかなくて。笑っていたことは確かですが、蔦を見てのことかどうかははっきりしませんし、回りの話を聞いてもどうもよくわからなくて。祭りで気が立っていたから、ただ争いになった。それだけのようで」

「だろうな」

「本来だったら、南伝馬の連中が詫びを入れて、それで済むはずだったですよ。なのに、どうして、こんな大事になっているのか、よくわからないですよ」


 甚兵衛は酒をすすると、遠山を見た。


「出入りの同心に、なんとかしてもらえねえんですか。長州様ですから、高柳金太郎様ですよね」

「よく知っているな」

「それぐらいは、まあ」


 甚兵衛は笑った。まったく油断のならない奴だ。


「駄目だ。長州の者に接触することはあいならぬといわれている。老中の阿部様から直々にな」


 甚兵衛は息を呑んだ。


「本当ですか」

「おめえ相手に嘘をついてどうするね」


 上は、今回の件を厳しく吟味するつもりでいる。もはや、町方だけでは収まらない騒ぎになりつつある。


「長いこと、奉行をやっていることがこんなのははじめてだ。何か手がかりがねえかと思って、おめえに話を聞きに来たんだが、わからねえとなるとなあ」

「武家と町人の争いを、本気で、お上が裁くのですか」

「そういうことだ」


 遠山は酒をすすった。味は苦い。


 いったい、何を考えているのか。


「悪かったな。わざわざ出向いてもらったのに、つまらねえ話ばかりで」


 遠山が声をかけても、甚兵衛は応じなかった。表情はひどくこわばっている。


「どうした?」

「あ、いえ、ちょっと気になる話を思い出しましてね」

「なんだ、歯切れが悪いな。言ってみろよ」

「いや、その、なんだな……」


 甚兵衛は息を小さく吸うと、遠山に顔を寄せ、小声でささやいた。


「実は、今回の件を利用して、お上が長州様をつぶそうとしているんじゃねえかって聞いたんですよ。馴染みのお武家さまから」

「はあ。長州をつぶすだって」

「しっ。声がでかい」


 甚兵衛は左右を見回した。聞いている者はいないのであるが、それでも気になったようだ。


「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、あるものか。たかが町民と武家の喧嘩で、名のある大名をつぶせるわけがねえよ」

「ですが……」

「人死にが出たって、せいぜいかかわった侍が詰腹を切らされるぐらいだ。ありえねえよ。できねえし、そもそもやろうとすら思っていねえはずだ」

「だったら、どうして、こんなに話が長引くんですか」


 甚兵衛は正面から遠山を見た。その眼光は鋭い。


「二年前、同じ長州と南伝馬の連中が天下祭でやりあったが、その時は、もっと早くに片がついたじゃありませんか。あの時もかかわっていたから、よく知っています。詫び状を書いて、それなりの品を送って終わりだったんですぜ。怪我人の数で言えば、あの時の方が多かったのに。なのに、どうして、ここまで長引くんですか」

「それは……」

「なにか裏があるって、その武家は言っていました。芸州様の奉公人も同じようなことを言っていたようで、出入りの商人はひどく気にしていますぜ」

「心配しすぎだ。長州様をつぶすなんて、そんなことねえよ」


 遠山は笑みを作った。


「幽霊の正体見たり、枯れ尾花って言うだろう。あるあると思っていると、たいしたことがなくても気になって化物のように見える。何もない。たいしたことはないから気にするな」

「だったら、なんで、金さんがここまで出てきたんだよ」


 甚兵衛は、上目遣いで遠山を見た。気配は剣呑だ。強い不信感が裏にある。


「何か気になることがあるから、わざわざ話をしたいって思ったんだろう。変じゃねえか」


 遠山は口をつぐんだ。


 彼が出向いたのは、これまでとは違う違和感をおぼえたからだが、そこに陰謀の影は感じていなかった。気になったのは本当に些細なことで、それ故に心に引っ掛かって話をしに来たのだが、それをうまく説明できるかどうか。遠山には自信がなかった。

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