枯れ尾花の彼方 --遠山景元異聞--
中岡潤一郎
第1話
伝馬町を東西につらぬく大通りを右に曲がったところで、
古着屋では職人の女房とおぼしき女が、店主と交渉をしていた。手にしているのは茶の留め袖であるが、質が悪いということで、値を下げさせたいようだ。
店主は反論しているのであるが、女房の声が大きいので、主張の半分も届けることができずにいる。渋い表情が不都合な事態が進行中であることをよく示している。
隣の一杯飯屋では、若い男と老人が将棋を指している。文句をつけながら駒を動かす若者に対して、老人は無言で応じていく。口汚く罵られようとも、老人はまったく態度を変えず、それだけで、どちらが勝っているかわかる。
傍らを行くのは商家の娘で、派手な桃色の小袖を見せびらかすようにして、真大通りを抜けていく。すれ違い様に老婆が悪態をついたようだが、笑っていなすあたりには余裕がある。羨望の目線になれきっているということなのだろうが、ふてぶてしいにも程があろう。
天気がよいこともあり、大通りは人であふれていた。武家も商人も職人も棒手振も思い思いの格好で行き来し、己のやるべきことか、もしくはやりたいことをやっている。
「これなら、大丈夫だな」
遠山は一息つくと、表通りに面した蕎麦屋に入った。
「おう。待たせたな、
二階にあがったところで、遠山は窓の近くに座っていた男に声をかけた。
茶の小袖に袖なしの羽織といういでたちで、渋い色合いだったが、それが白髪の頭と皺の多い顔にはよく似合っている。年は五十を超えていたが、背筋はすっきり伸びており、煙管を握る姿にも隙がなかった。
「かまいませんよ。ちょうど一杯、飲み終わったところで」
甚兵衛は笑った。皺の刻み込まれた顔には、妙に愛嬌がある。
「外を見たら、金さんがこちらに向かってくる姿が見えました。あちこち見回して、声もかけて。いい年なのに落ち着きませんな」
「変わらねえのは、お前は同じだろ。態度のでかさは昔からだ」
「よく御存知で」
「あたぼうよ。もう四十年の付き合いだぞ」
金さんと呼ばれるのも久しぶりだ。左衛門尉などと呼ばれてはいるが、どうも肩がこっていけない。遠山
遠山は甚兵衛の前に座ると、そばと酒を頼んだ。
静寂が広がる。二階の座敷にいるのは遠山と甚兵衛だけで、響くのは外から響く、たわいものない声だけだ。
「よく遊びましたね」
甚兵衛が口を開いた。その手には猪口がある。
「博打もやれば、女遊びもした。侍相手に喧嘩をしたこともある。よくもあんな事ができたと思いますよ」
「若かったからな。今なら怖くてできねえ」
さすがに五十を過ぎると、無茶もできなくなる。鏡を見る度に、額の皺が増えているような気がして、年を取ったなと自分でも思う。身体の動きも重くなって、気力も萎えてきているように感じられる。
「言葉に重みがありますな。さすが、町奉行に返り咲いただけのことはある」
「からかうのはよせ」
「本音ですよ。まさか、戻ってくるとは」
遠山は、八年前の天保十一年(1840年)、北町奉行に任じられたが、政争に巻き込まれ、三年後に左遷の憂き目にあった。そのまま隠居に追い込まれるかとも思っていたが、またもや政変の嵐が吹き、三年前、今度は南町奉行となった。
その時、遠山は五十三歳になっていた。さすがに話を聞いた時には、驚いた。
「世の中は、思いも寄らぬことばかり起きる」
「よいことを言いますな。さすが町奉行」
甚兵衛は、煙管を吹かし、灰を長火鉢に落とした。
「遠山様の腰が軽いことは重々、承知しております」
声が低くなる。本音で話す時は、いつもこうだ。
「それでも、こうしてお忍びで伝馬町の蕎麦屋まで赴いたというのは、相当の大事があってのこととみます。しかも、ただの左官の頭と会いに来るなんて」
「持って回った言い回しはやめろよ。察しはついているんだろう」
「聞きたいことがあるんですよね。あの天下祭の大喧嘩について」
「察しがよくて助かるよ。面倒なことになるまえになんとかしてえ」
二ヶ月前の嘉永元年(1848年)七月二十七日、将軍家喪中のため延期になっていた
山王祭は赤坂の日枝権現がおこなう大祭で、幕府の肝煎でおこなわれる。江戸城に
一時は中止も噂されていただけに、開催が決まると気持ちは大きく高ぶり、当日には、一目、華やかな神輿や山車を見ようと、多くの町民が沿道に集まっていた。
騒動が起きたのは、南伝馬町の山車が桜田門前を右折し、
そこは芸州浅野家の中屋敷があるところで、門前では長州毛利家の家臣が長棒を持って待機していた。毛利家が人を出すのは慣例であり、山王祭の時には、常に同じ場所で警護に当たる。
南伝馬町の山車がさしかかった時、いきなり先頭に立っていた獅子頭を操る
はっきりしているのは、その獅子頭を毛利家の家臣が棒で叩き、それに反発した蔦が文句を言って、喧嘩になったということである。争ったのは毛利家家臣が十名で、蔦が十三人である。怪我人も出て、辺りは人の行き来ができないほどの混乱になった。
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