第3話

『昨日の大家さんの態度、あれは本気よねぇ……』

 穏やかな笑みを浮かべて見つめてくるその子に根負けしたように、一佳は大きなため息をつく。きっと彼女の知らないところで勝手に賽を投げた奴がいるのだ。もはや降りられないのだろうと結論付ける。しばらく、このズレた現実に付き合うことにした。だからといって、腹立たしさがまぎれるわけはない。

「あーもぅ、分かったわよ……御飯食べて、掃除と洗濯終わってからね」

 うれしそうにお礼を言うルーエルを無視して立ち上がる。昨日の夜から食べていないのだ、朝食にしなければならない。

「……ホットケーキしかないよぉ、いつんのこれ? まぁ、腐るものではないよね」

 台所を引っ掻き回してようやく見つけたそれを焼きながら、一佳はルーエルに尋ねる。

「天使って、何を食べてるの?」

「輪っかがありませんから、人間と変わりありません」

 ようは、朝食が必要だということだ。やや小ぶりの物を二枚焼いたところで、バターもシロップも無いことに気付く。間が悪いこと、この上なかった。紅茶を添えてとりあえずの朝食にする。

 一佳は釈然としない気分のまま、一味足りないホットケーキをつつく。しかし、ルーエルはお腹が空いていたのだろうか「いただきます」と挨拶をし、満足そうにホットケーキを食べている。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

 食べ終わって幸せそうに微笑む彼に、一佳もつられて微笑んだ。

 洗濯機を回し掃除機をかけている間、ルーエルに後片付けを頼む。皿を台所に運ぶ様子が鏡に映ると、皿だけが宙を浮いているように見える。そうこうして、洗濯を干し終わってもまだ九時。その時、玄関のチャイムが鳴って大家さんの孫が訪ねて来た。

 目じりの下がった細い目で普段ならニコニコと笑っているようにみえる彼女の表情も、今は心配と不審が混ざった暗い表情だ。何度か言葉を選んだ後こう切り出した。

「あの……大丈夫ですか?」

『やっぱ、変な人だと思われている』

「その、昨日、何だか……」

『えーっと……話した方がイイ? でも、余計変だって思われるよねぇ……』

「すみません。ホントなんでもなかったんです」

 そう言って頭を下げると、何か言いたそうな彼女を無視しドアを閉める。足音が遠ざかるのを確認し息をつく。ルーエルが声をかけた。

「お一人で大丈夫ですか? あの方にも事情を……」

「説明するほうが面倒よ」

 財布と携帯を持ってコートを着る。ガスの元栓と戸締りを確認しアパートを出た。車に足を向け、ルーエルに尋ねる。

「で、その輪っか。どこで落としたの?」

「分かりません」

 一佳は何とか笑顔を維持しながらもう一度同じ事を聞き、もう一度同じ答えを聞いた。

「ですから、車ではなく歩いて探しに行きましょう」

 相変わらず微笑みを絶やさないルーエルに脱力し、諦めたように彼の後をついて行く。

 よく晴れた冬の日、まだ冷たい朝の空気が顔に張り付くように感じる。しかし風が無いので切るような寒さは無く、柔らかいお日様の光がほんの少しだけ暖かさを伝えてくれた。片田舎の住宅街、しかも土曜日の朝では、出歩く人も少なく車も走っていない。街全体がまだ寝ぼけているかのように静かだった。信号機と角のコンビニだけが、バカ正直に起き続けている。

「ねぇ、ルーエル。あてくらいはあるんでしょ?」

 一佳の問いを聞いているのかいないのか、彼はスタスタと歩いている。途中すれ違った犬の散歩をしているおばさんに大声で挨拶し(もちろん聞こえてはいない)、飛び出してきた野良猫を撫で、どこかの家の花壇の花に歓声をあげている。

「ちょっと、聞いてるの」

「大丈夫です。僕が昨日飛んだコースの下を歩いていますから」

「あのね……」

 ルーエルの肩に手をかけて、立ち止まらせる。

「あても無く歩いたって無駄でしょ、よく思い出して。ロケット花火に驚いたのなら、公園とか広い場所の近くよ」

「……輪っかを無くしてもすぐに力を無くすわけではないので」

「それでも、落としたのはあなたが驚いた場所の近くよ。そうだ!」

 一佳はスマホの地図を呼び出し、ルーエルに見せる。昨日彼が飛んでいたというコースとアパートの場所から、ロケット花火で遊べるような場所を探す。

「多分ここの児童公園か……でなきゃ河川敷ね」

「一佳さん、頭イイですね」

 感嘆の声をあげるルーエルの真剣な眼差しに、胸の奥がくすぐったい。

 さいわい、児童公園までは歩いてもすぐだ。そこで輪っかが見つかれば、それでこの件は終わりだ。このズレた現実は、いつもの日常に戻る。

『……って、いいの? それで?』

 ルーエルの手の感触を確かめるように握りなおし、よく考えてみる。常識的に考えればおかしなことだらけなのだ。この場合、おかしいのは常識なのか一佳の頭なのか。休みが少なく残業続きの職場でストレスがあることは確かだろう。だが、自分が今手をつないでいる男の子が幻覚の類だとも思えない。だからこそ、天使の輪を探しに寒い中を朝から歩いているのだ。彼女はため息をついて考えるのをやめた。

 その児童公園は、滑り台と砂場があるだけのチャチなものだった。近所ではあるが来たのは初めてだ。なぜか人が集まっていた。

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