第2話

「だから、この子ですけど……?」

 男の子の背中を押して前に出す。しかし、女の子は一層表情を険しくする。

「誰もいませんよね?」

「ハイ?」

「やっぱり見えないみたいですね」

 男の子が不意に言葉を発して一佳を見た。その言葉の意味が分からず、どういうことかと問い返すのだが、同じことしか答えてくれない。

「あの、誰かとしゃべってますか?」

 恐る恐るといった感じで、女の子が尋ねた。一佳はますます分からなくなる。ただ、女の子の表情に明らかな不安が浮かんだのを見て、状況の異常さに気付く。

『見えてない……?』

 男の子がスタスタとアパートのほうに歩いていく。「ごめんなさい、おやすみなさい」とだけ言って、背中に感じる視線を気にしながら慌てて後を追った。その子は一佳の部屋の前で鍵が開くのを待っていた。彼女は鍵を取り出し、冷静になろうとする。

『……とりあえず話だけ聞いて、警察に行こう』

 しかし、しばらく他人の目に触れなかったため雑然とした感じになっている自分の部屋を思い出し、男の子を廊下に待たせて部屋を片付ける。掃除機もかけたいところだが、時間が時間だ。部屋に干された洗濯物をたたみ、脱ぎ散らかされたパジャマを隠し、雑誌と新聞を一箇所にまとめる。炬燵の天板を布巾で拭いて、昨日の夕飯の後片付けをする。

 ろくな生活を送っていなかったことを気付かせてくれた男の子に、感謝の念でいっぱいになった。

『もぅ……なんなのよ、今日は』

 本当なら全部明日に回して、シャワーを浴びベッドに倒れこみたいところだ。普段の生活ペースが守れないことに腹が立つ。

 ドアをそっと開けて中を見ている男の子に、「いいから、入んなさい」と荒っぽく声をかけ、お湯を沸かす。お茶を出す義理は無いと思ったが、いつも一つのティーバックで一杯しか淹れないのはもったいないと思っていた。客用のカップを探しながらその子に声をかける。

「……座っていいわよ。紅茶しかないけど、いいわね。コンタクト外して化粧落とすから、待ってて」

 顔を拭きながら部屋に戻り、今度は着替えるために男の子を一旦部屋から追い出す。ジャージにどてら姿になって、炬燵にもぐりこむ。エアコンはつけないことにした。男の子を再び招き入れ、紅茶をすすりながら話を聞くことにする。

 しかし、休息モードに突入してしまった一佳は、もはや話を聞く状態ではなかった

『あ……着替えちゃった。もぅいっか、警察は明日で……』

 迷子の男の子を一晩泊めたところで、おそらく誘拐にはならないだろう。電話番号が分かれば向うに迎えに来させればいい。ぼんやりとそんなことを考えていたため、男の子の話は聞き流していた。

「……というわけで、落とした輪っかを探して欲しいんです」

「ねぇ、君の名前は?」

「あ、そうですね。自己紹介が遅れました、僕の名前はルーエルです。よろしくお願いします、笹崎一佳さん」

「ルーエル? ご両親は外国の人?」

「あの……話、聞いてました?」

 彼の問いかけを再び聞き流し、時計を見る。いつも見ているお笑い番組を見ようとテレビのリモコンに手を伸ばすと、壁に立て掛けてある姿見が目に入った。そして、そこに映っているのは自分だけだということに気付いた。姿見と男の子を交互に見比べる。三回それを繰り返した後、残っていた紅茶を飲み干し大きく息をつく。

 そして、この状況を理解しようと回転を始めた頭が飽和状態に達する前に、一佳の出した結論は「寝よう」だった。男の子にベッドを明け渡し、毛布に包まって炬燵で寝ることにした。まだ何かを言っているその子の声に耳をふさぐように、彼女は眠りに沈んでいった。

 翌朝、一佳は十時まで寝ている予定を六時半に切り上げられた。いつも会社に行くのと同じ時間に起こされ、真っ暗な部屋に悲しげな蛍光灯をつけなければならない苛立たしさを、男の子にぶつける。

「いい加減になさいよ! 輪っかだなんだ訳のわかんないことでこんな時間にたたき起こして! お巡りさんのとこには連れてってあげるから、少しは静かにして!」

「ですから……」

「何よ! 迷子なんでしょ! 携帯持ってるとか、電話番号覚えてるとか、そういうのはないわけ!」

 男の子が黙って何かを指差す。そこには一佳しか映っていない姿見があった。男の子と姿見を交互に見比べ、再び炬燵にもぐりこむ。こんなリアルな夢も久しぶりだと思った。

「あの、ちゃんと話を聞いてくれますか?」

 一佳はとうとう観念した。自分の置かれている状況が、普段とはズレたものになっていることをようやく認めたのだ。起きて身支度を整え、男の子の話を聞く。途中何度もツッこみを入れたくなるのを抑えて、彼女は話を聞ききった。

 男の子の名前はルーエル、最近天使になったばかりの新米だという。クリスマスのお勤め(パトロールのようなものらしい)の最中、季節外れのロケット花火に驚いて天使の輪をどこかに落としてしまったという話だ。これが無いと天使は不思議な力も背中の翼も失うそうだ。

 天使を見ることの出来る人は稀であるがいるらしく(一佳がそうなのだが)、それはちょうどラジオのチューニングが偶然合わさるようなものなのだそうだ。そのため、チューニングの会わない人は見ることが出来ず、また目に光が入って見えるのとは根本的に仕組みが違うため(その仕組みは説明されても分からなかった)鏡には映らないのだそうだ。

「というわけで、僕が落とした輪っかを一緒に探して欲しいんです」

「……なんで?」

「え?」

「何で私が?」

「僕が見えるということは、僕の輪っかも見えるということですから」

「だから……なんで私がそれをしなきゃなんないわけ?」

「僕が困っているからです。困っている人を助けるのは当然のことです」

 助けられる側が言うセリフではないが、こうもはっきりと言われると反論しにくい。しかしこの子の話は、鏡に映らないことを除けば信用できるレベルの話ではない。それ以外はどう見てもただの男の子なのだ。頭に手を当て、しばし考える。

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