第3話 転機

 裕子が被る黒一色のマフラー一体帽子は耳当ても付いている。

 おかげで外套を捲り上げるような寒風の中でも、寒さを感じない。

 それにマフラーは南太平洋の海辺に咲く明るい原色の花のような美人の裕子を引き立たせるデザインだ。

 マフラーを編んでくれた裕子のお母さんは、編み物が得意なのだ。

 裕子もマフラーやセーターを先輩に編んであげたかった。

 どんな色が似合うかと考え込む裕子は幸せそうだ。

 でも、母から編み物を習うのは、研究が完結してからだと気を引き締めた。

 ヘッドライトを浴びながら帰宅中の裕子の足取りが重くなる。

 指導教官への報告が今回も『進捗なし』だったのが気になり出したのだ。

 裕子はため息をついた。

 ──幻の5条件に跳ね返されたのは私だけじゃない。あんなに優秀な先輩もそうだった。でもどうしてだろう? 何か根本的なところで見落としがあるのかも知れない。それは一体なんなのかしら!

 頑張れば何とかなると楽観的だった裕子だが、最近は流石に落ち込んでいる。

 向こうから来るのは赤ちゃんを連れた仲の良い若夫婦だろうか。

 ベビーカーが、元気のない裕子に近づいてくる。

 裕子は男の子かな女の子かな、可愛いかなと、赤いフードを被った白い顔を確かめる。

 それに驚いたのか赤いいフードは「ワン」と、裕子に吠える。

 犬の苦手な裕子は、一瞬ビクッとする。

 性別不明のマルチーズがベビーカーからつぶらな目で裕子を見上げている。

 赤ちゃんが乗っているとの思い込みが強かったと裕子は思わず苦笑いする。

 同時に疑念が湧き上がる。

 ──私も、先輩も、そして先生も騙されているのではないだろうか。幻の5条件はまさに名前通り幻なのかも知れない。

 急に裕子の目が輝き出す。

 ひょっとして幻の5条件は間違いではないかと思い始めたのだ。

 疑念が膨らんだ。

 幻の5条件は間違いと結論できれば、裕子の研究は完成するはずだ。

 裕子は考え込む。

 ──幻の5条件を満たせば必ず解がある。これを否定する証明を考えれば良いのだわ。つまり、幻の5条件を満たしているけれど、解がない例を少なくとも一つ見つければ終わりね。

 玄関のドアを開け二階の自室に入る裕子は、証明がすぐに案出できそうで底抜けに明るかった。

 解があるとの証明を断念し、翌日から丹念に幻の五条件を満たす例を調べ始めた。

 だが全て解がある例ばかりだった。

 当初は一つの例で結論を出すのに三日掛かっていた。

 しかし、百例あたりから一日で済むようになった。

 そして、解がない例を探し初めて一年が経った頃、効率的に例を調べるための幻の5条件と等価な新たな3条件を案出した。

 これを本多の3条件としゃれて呼び、さらに熱心に所望の例を探索した。

 探索時間が欲しい裕子は、通学の時間ももったいなかった。

 研究室には顔を出さず、電子メールで週一回『進捗は有りません』と指導教授に届けるだけとなった。

 外に出なくなった裕子は、風呂とヨガ以外は、一日の大半の時間を探索に費やした。

 入浴の最中も寝ている時も、数式が頭にこびりついて離れなかった。

 『幻の5条件、ついに解決』の朗報を持って先輩を訪れた時に「裕子、太ったね」と言われたくない裕子は、ヨガを欠かさなかった。

 おかげで小柄だが長身に見えるもともとのナイスバディにさらに磨きが掛かった。

 嬉々をとして探索に取り組んでいた裕子だが精神的な疲れのせいか疑心暗鬼が生じた。

 ──やはり幻の5条件は正しいのでわ。

 振り出しに戻ってしまった。

 そして本多の3条件の一つを少し強くする(例えば、微分可能な関数は連続関数なので、連続の条件を微分可能の条件にするようなこと)と、解が必ず存在することを発見した。

 裕子の強3条件だ。

 しかし裕子の目指すのは幻の5条件の解明だ。

 幻の5条件を証明しやすい都合の良い条件に勝手に変えてしまったと、裕子の強3条件に罪悪感さえ感じていた。

 新たな裕子の強3条件が成果になるとは考えもしなかったのだ。

 指導教授への週一回の電子メールは相変わらず『進捗は有りません』だった。

 家に閉じ籠る裕子は、他大学の研究者が多数『幻の5条件』に取り組み、成果を発表しようとしていることに気付かなかった。

 他の研究者が先に成果を発表すれば、裕子の努力はなかったに等しくなるのだ。

 学会動向を知る指導教授は『他の研究者が先行したら、どうしようか』とやきもきしていた。

 指導教授からの呼びかけに裕子は反応しなかった。

 裕子の将来を危惧する「研究テーマを見直してみたら」との指導教授の意向を無視し続けた。

 先輩と喜びを共有したい一心の裕子は、がむしゃらに我が道を突き進むのだった。

 そんな多忙な研究生活の中で、裕子は懸命に母親から料理を習った。

 いつの日か先輩に手料理を作って喜んでもらおうとの思いからだ。

 良い奥さんになろうと励んでいると喜ぶ母親だった。

 でも、縁談を悉く頑なに拒否する娘に嘆息するばかりだ。

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