第2話 夢
まだ夜明けにはだいぶ間があった。
夢から覚めないように必死に努力する祐子の寝室の床をフットライトが淡く照らしている。
博士課程に通うポニーテールの祐子は小麦色の肌が綺麗なエキゾチックな美人だ。
そのすんなり伸びた手足が金縛りにあって硬直している。
背中がベッドに沈み込んでいくようだ。
でも、意識はしっかりしていた。
──あと少し。この一点さえ突破すれば博士論文は完成する……。
そう感じつつ、証明が付きそうで付かない状態が一年以上続いている。
祐子は、今までも画期的な証明を夢の中で何度も思い付いたのだ。
けれど、意気揚々と研究室のパソコンに向かった途端、夢の中の証明は幻と消えるのだ。
──今日こそは同じ轍を踏まない。目を覚ましたら、また証明が逃げてしまう!
思い付いた証明が逃げないように、夢の中で何度も反芻し頭に刻み込む。
その間に金縛りが徐々に溶けていく。
止まっていた呼吸が正常に戻った。
──やった! ついに完成!
と自信満々だ。
そして、寝静まった夜に遠慮して祐子はそっとベッドを降りる。
今までの失敗に懲りていた祐子は、準備万端、この一瞬に備えていた。
この瞬間を待ちかまえていたのだ。
卓上蛍光スタンドのスイッチも入れず、ただちにノートパソコンを開く。
──頭のなかで充満している証明がほとばし出るはずだ。それを素早く記録しなきゃ!
快調に動いていた指が止まった。
キーボードの上で左右の手が固まっている。
夢の中では完璧と思えた証明に、論理の飛躍を発見したのだ。
悔しがる祐子の頭が鋭く回転する。
修正可能かどうか必死に模索している。
空色のパジャマ姿の祐子から強烈なエネルギーが発散する。
七月の蒸し暑い夜を制圧する圧倒的なエネルギーだ。
飛躍を解消できそうなアイデアが次々に湧いてくる。
それを祐子は一つ一つ丁寧に掘り下げていく。
一気に解決しそうだ。
だが、なかなか結論への筋道が見えない。
何かが足りないのだ。
もどかしいが、それが見えない。
祐子の研究テーマは、研究室の多くの優秀な先輩がチャレンジし挫折を味わった内容だ。
それは、証明をするまでもない自明の真理に見えるのだ。
しかし、多くの血気盛んな若者の夢を打ち砕いて数学の世界から放逐したテーマだ。
右隣の家の玄関の前でタクシーが止まった。いつの間にか夜の闇を照らしていた街灯が消えている。
人通りのない早朝の街に、タクシーのトランクが開く音がする。
そして、重いスーツケースを引っ張っるギシギシとしたキャスターの移動音が響いた。
お隣の老夫婦は、早朝の便で羽田から飛び立つ予定なので急いでいるのだろう。
「間に合うかしら? パスポートは持った?」
「ああ」
との男女の小さな話声に混じって、運転手の声がする。
「大丈夫です。この時間なら道路は空いています。充分間に合います」
しかし、祐子は何も聞こえない。憑かれたように考え続ける。
駄目と結論を出したアイデアを再検討してみる。
再々度ためしてみる。
別のアイデアを何とか捻り出す。
やがて、職場に急ぐ人のざわめきが伝わってくる。
締め切ったカーテンごしに夏の強烈な日差しが部屋を明るく染めている。
ドアをノックする音がした。
祐子はそれにも気が付かない。
ドアを開けた母が心配げに尋ねる。
「クーラーも付けないで、こんな暑い部屋に閉じこもったりして、一体どうしたの? もうお昼の時間よ。顔は洗ったの?」
博士課程進学に猛反対した母だが、26才になっても娘はいつまでも頑是ない可愛い自慢の小娘なのだ。
現実の世界にいきなり引き戻された祐子は、異次元の世界の人を見るように母を見上げた。
祐子は、今日も何も進展しないと、やっと悟ったようだ。
こんな行き詰まった状態が丸一年以上続いている。
さらに一生続くかも知れない。
悔しいけれど、もしかしたら他の人が結論を先に出して、研究は突然終止符が打たれるかも知れない。
成果の出なかった月日だが、祐子には熱く夢中な日々だった。
充実感に満ちた悔しい日々だった。
孫が早くほしい母親は、縁談に見向きもしない祐子に、はらはらし通しだ。
「祐子」
「なーに、お母さん?」
そう問い掛けた祐子だが、母が何を言いたいのか分かっていた。
案の定、お見合いの話だ。
「この間の話、いいお話だと思うの。先方は乗り気なの。おうちも良さそうよ。お母さんは、ぜひ進めたいの」
「わたし、まだ結婚する気なんかないわ。断ってちょうだい。そう言ったでしょ」
「そう言わずに、会うだけ会ってみたら。とても良さそうな人よ」
数学に夢中な祐子と、早く数学の熱から覚めて欲しい母との葛藤は、まだまだ続きそうだ。
もっとも祐子には母に内緒の心に定めた彼がいる。
少しでも早く問題を解決して、最愛の先輩に報告したいのだ。
でも母親には秘密だ。
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