禁断の5条件    ーーー美人数学者誕生悲話ーーー

@Kosuge-Yoshio

第1話 禁断の5条件

 右は十階建ての研究棟。

 左は八階建ての教育棟。

 二つのビルに挟まれた通学路に、桜の花びらが折り重なっている。

 その上をさらに花びらが雪のように舞い落ちていく。

 人けのない通学路を指導教授の研究室に向かうポニーテールの祐子の後ろ毛がピョンピョン跳ねている。

 博士論文のテーマは、指導教授の猛反対を受けたが、やはり幻の5条件にしようと決断したのだ。

 幻の5条件はある種の偏微分方程式の解の存在条件だ。

 一見当たり前のように見える条件だ。

 けれど証明しようとすると袋小路に陥って、抜け出せなくなるのだ。

 この証明に取り憑かれた研究者は生殺しに会い研究生命を断たれるのが常だ。

 このため、禁断の5条件とも呼ばれている。

 実際今までに何百人もの若い有望な研究者が疲れ果て数学を断念していった。

 指導教授に厳しく指摘されるまでもなく、そのことを裕子は熟知している。

 裕子が熱愛する三年先輩も、禁断の5条件に取り憑かれボロボロになって研究室を去ったのだ。

 学部一年生の頃、裕子は、高校数学と習得すべき現代数学とのギャプに悩んでいた。

 その裕子に、三年先輩は良い専門書をさりげなく紹介してくれた。

 ギャプを乗り越えるヒントをしばしば与えてくれさえした。

 長身で目元のすっきりした先輩は、裕子の憧れの的だった。

 裕子の同級生も先輩の同級生も、二人が式をあげる日を心待ちにしていた。

 いつ、どこで式を挙げるのかの噂話が絶えなかった。

 美男美女の二人が手を握り合って歩く姿は微笑ましく絵になっていた。

 裕子が両親の猛反対を押し切って博士課程に進学したのも、先輩との時間を大切にしたかったからだ。

 だが禁断の5条件に敗れた先輩は、つい先日故郷の札幌に帰って行った。

 裕子の夢は、証明を完成させて先輩の仇を討ち、楽しい数学談義を復活させることだ。

 そうすれば二人に薔薇色の人生が待っていると信じているのだ。

 でもこんなテーマ選定理由を正直に指導教授に打ち明けるのは、いくら物事に拘らないおおらかな性格の裕子でも気恥ずかしい。

 先生を騙せるかどうか、裕子は今日試してみるつもりなのだ。

 ワクワクした気分で、裕子は指導教授の研究室に入った。

 開口一番、やさしく指導教授が裕子に尋ねる。

「決心したかい?」

 指導教授の意図を読んで、裕子は笑顔で切り返す。

「はい。やはり幻の5条件に研究生命を賭けます」

 指導教授は厳しい顔だ。

 無言の二人の間に火花が飛ぶ。

 長い沈黙を教授が破った。

「何度も言っただろう。幻の5条件はとっつきやすそうだが、難解なテーマなんだ。これにこだわったら、なんの成果も得られず博士論文もまとまらない公算が大なのだ」

「だからこそチャレンジしたいのです。研究者の意地です」

「しかし、『はい、駄目でした』では、その後、どうやって生きていくのだ」

 あらかじめ回答を用意していた裕子は、指導教授を揶揄うように言う。

「数学から足を洗います」

 納得できない指導教授が、怒ったようにさらに追及する。

「では、何をするのだ?」

 予期していた質問に、裕子は即答する。

 観音様のような柔らかな表情だが、反論を許さない気迫に満ちている。

「両親の勧めにおとなしく従って、お嫁に行きます」

 指導教授は虚を突かれたようだ。

「なんだって?」

「両親は私が数学で生きていけるなんて信じていないのです。早く研究生活から足を洗ってほしいのです。でも、私は数学に一生を賭けてみたいのです。確かに先生のおっしゃるように、才能が無く駄目かも知れません。その時は、潔くお嫁に行きます。心配をおかけして、本当にすみません」

 もちろん裕子の意中の人は、数学を捨てるにしても続けるにしても、優しかった三年先輩だ。

 色々と説得の言葉を用意してきた指導教授だが、どれも役に立たないことに気付いた。

 裕子の作戦勝ちだ。

 それに指導教授は美しい女性が苦手のようだ。

「僕は手堅いテーマを薦めたいのだが。……仕方がないなあ。君の希望通り幻の5条件で行くか」

 裕子は間髪入れず頭を下げる。

「ありがとうございます。頑張ります。論文を完成させてから、お嫁に行きます」

 指導教授は数学以外は疎い性格だ。

 裕子の意中の人が思い浮かばない。

「意中の相手はいるのかい?」

「私のような跳ね返り、誰も相手にしてくれません。まずは幻の5条件がお相手です」

 底抜けに明るい笑顔を見て、指導教授は教え子が絶世の美女なのに初めて気が付いた。

 神々しいほどだ。

 笑うと目が細まって、優美な上向きの曲線が現れるのだ。

 観音様と呼ばれるのも納得がいく柔和な笑顔の持ち主だ。

 研究室を出る裕子は、『幻の5条件、ついに解決』の朗報を持って憧れの先輩のもとに駆けつける自分の姿を夢見ていた。

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