第31話 音の灯火
夜の静かなピアノ室に、柚月は一人残っていた。三人での練習が終わった後も、どうしてもこの曲に向き合いたいという気持ちが彼女を突き動かしていた。
月明かりが窓から差し込み、楽譜に白い光を落としている。その光の中で、柚月は鍵盤に手を置き、最初の音をそっと弾いた。低い音が部屋に響き、それに続く右手の旋律が穏やかに流れ出す。
しかし、またしても中盤の難しい部分で指が止まった。左手と右手の動きが噛み合わず、音が途切れてしまう。柚月は深く息を吐き、鍵盤に手を置いたまま考え込んだ。
柚月(心の声)
「何が足りないんだろう…。どれだけ練習しても、この曲の本当の形が掴めない。」
楽譜をじっと見つめながら、彼女は自分の中に広がる迷いと向き合っていた。
そのとき、不意に扉が開き、誰かが入ってきた。振り返ると、そこには翔が立っていた。彼はバイオリンケースを抱え、静かに柚月に近づいた。
翔
「こんな時間まで残ってたのか。」
柚月は少し驚いた様子で答えた。
柚月
「翔こそ…どうして?」
翔は椅子を引いて座り、ケースを開けながら言った。
翔
「なんか、家に帰っても落ち着かなくてさ。結局、ここに戻ってきちゃった。」
柚月はその言葉に小さく笑った。
柚月
「私も…。どうしても、この曲をもう少し弾いてみたくて。」
二人はしばらく無言のまま、楽譜を見つめた。翔がバイオリンを構え、低い音で静かに弾き始める。その音に導かれるように、柚月は再びピアノの鍵盤に指を置いた。
二人で音を出すと、不思議と練習中のような焦りはなく、ただ音楽そのものに集中することができた。チェロの音がなくても、ピアノとバイオリンだけで曲の骨格が浮かび上がってくる感覚があった。
柚月(心の声)
「そうか…。私たち一人一人の音が、この曲の中で支え合っているんだ。」
中盤の難所に差し掛かったとき、翔がピタリとバイオリンを止めた。そして、彼は小さく頷いて柚月に言った。
翔
「柚月、もう一回ピアノだけで弾いてみて。」
柚月は驚いたが、彼の真剣な表情に頷き、再び鍵盤に向き直った。自分の音だけを頼りに、彼女は中盤のフレーズを弾き始めた。つっかえそうになる箇所で、ふと翔が口を開いた。
翔
「焦らなくていい。そこはもっとゆっくりでいいんだ。」
彼の言葉に導かれるように、柚月は音を一つ一つ丁寧に紡ぎ直した。その瞬間、これまでバラバラに感じていた旋律が不思議と繋がり、彼女の中で新たな感覚が生まれた。
柚月(心の声)
「音が繋がっていく…。私の中で、何かが見えてきた気がする。」
柚月が最後の音を弾き終えると、翔が再びバイオリンを構え、今度は二人で同じ箇所を演奏し始めた。ピアノとバイオリンが寄り添うように絡み合い、音楽が深みを増していく。
二人の音が部屋いっぱいに広がり、月明かりがその音を包み込むように輝いていた。
演奏を終えた後、翔が静かに口を開いた。
翔
「今の音、すごくよかったよ。お前のピアノ、ちゃんと俺の音を支えてくれてた。」
柚月は少し涙ぐみながら微笑んだ。
柚月
「ありがとう、翔。あなたのバイオリンがあったから、私も迷わず弾けたんだ。」
二人の間に漂う空気は、これまでとは違う穏やかさに満ちていた。それは、音楽を通じて築かれた信頼の証のようだった。
柚月(心の声)
「音楽は一人じゃできない。でも、誰かと一緒なら、こんなにも広がるんだ。」
その夜、二人は遅くまでピアノ室に残り、音楽を紡ぎ続けた。まるで星の迷宮の中で、出口に繋がる光を一つ一つ探し出しているかのようだった。
カット:窓の外に輝く月と、その下で音を奏でる柚月と翔のシルエット。二人の音が静かに夜空に溶け込んでいく。
次回予告
柚月と翔が築いた新たな感覚が、三人のアンサンブルに変化をもたらす。アキとの再会で、さらに深い音楽の可能性が広がっていく――。
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