第20話 新たな世界の扉

列車がしばらく町を離れたあと、窓の外には山々が連なり、遠くには広がる田畑の景色が見えた。柚月は静かに座席に体を預け、手に握りしめた小物入れを見つめていた。母が渡してくれたその銀色の小さな箱は、まだ少し冷たくて重みを感じる。彼女はその冷たさに触れるたび、母の声を思い出していた。


柚月(心の声)

「お母さんが『帰る場所がある』って言ってくれた。それがあるから、私、どこまでだって行ける気がする。」


隣では田辺先生が新聞を広げて読んでいたが、ふと視線を柚月に向けた。彼女の表情に何かを感じ取ったのか、新聞を畳んで口を開く。


田辺

「緊張してる?」


柚月は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに小さく笑った。


柚月

「はい、少し。でも、楽しみでもあります。」


田辺先生は穏やかに頷き、窓の外を見やりながら言った。


田辺

「新しい環境っていうのはね、最初は誰だって不安になるものさ。でも、君はちゃんと自分を持ってる。それがあれば、どこへ行ったって大丈夫だよ。」


柚月はその言葉に小さく頷き、目を閉じて深呼吸をした。母や翔、町の人々の顔が思い浮かぶ。そして、それと同時に、これから出会うであろう新しい人たちの顔を想像した。


列車は都会へと近づくにつれ、景色が大きく変わり始めた。高層ビルや忙しそうに歩く人々の姿が増え、港町の静けさとはまるで違う空気感が車内にまで流れ込んでくる。柚月はその変化に少し圧倒されながらも、どこか新しい冒険が始まる予感に胸を高鳴らせていた。


やがて列車が終着駅に到着し、柚月と田辺先生は改札を出た。駅前の広場は大きな時計台があり、観光客や地元の人々が行き交っている。都会独特のざわめきが耳に響き、柚月はスーツケースを握り直した。


田辺

「ここからバスで20分ほどだ。音楽教室は静かな場所にあるから、すぐに慣れると思うよ。」


柚月

「はい、ありがとうございます。」


田辺先生に続いてバスに乗り込むと、都会の喧騒は少しずつ遠ざかり、次第に落ち着いた住宅街が広がっていった。窓から見える景色は、どこか懐かしさを感じさせる静けさがあった。


バスを降りて少し歩くと、白い外壁に赤い屋根が特徴的な一軒家が見えてきた。それが音楽教室だった。門には「佐伯音楽学院」と書かれた看板が掛かり、玄関先には季節の花が飾られている。


田辺

「ここが君が通うことになる音楽教室だ。佐伯先生はとても熱心な人で、君のことをすごく楽しみにしているよ。」


柚月はその言葉に少し緊張しながらも、頷いて玄関のベルを鳴らした。しばらくすると、中から柔らかな声が聞こえてきた。


佐伯先生

「どうぞ、お入りなさい。」


出迎えたのは50代くらいの女性で、きちんとまとめた髪と穏やかな笑顔が印象的だった。彼女は柚月の顔を見て、優しく手を差し伸べた。


佐伯先生

「あなたが宮本柚月さんね。お話は田辺先生から聞いているわ。これからよろしくね。」


柚月はその手を握り返し、少しぎこちなく頭を下げた。


柚月

「よろしくお願いします。」


佐伯先生は柚月のスーツケースに目をやり、微笑んで言った。


佐伯先生

「たくさんの荷物を持って、遠くからよく来てくれたわね。まずは中で一息つきましょう。お茶を用意しているから。」


案内された部屋は、ピアノが二台置かれた広々とした空間だった。壁には楽譜や音楽家たちのポスターが飾られ、窓からは庭の緑が見える。そこには他の生徒たちの気配もなく、静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。


佐伯先生がお茶を用意する間、柚月は部屋を見渡しながら、その空間に自分が馴染めるかどうかを想像していた。ふと、田辺先生が隣で話しかけた。


田辺

「この教室で学べることは、きっと君の音楽に新しい風を吹き込むよ。でも、一番大事なのは、自分らしさを忘れないことだ。先生に教わるだけじゃなく、君自身の音を育てるんだ。」


柚月はその言葉を静かに噛み締め、小さく頷いた。


やがて佐伯先生が戻ってきて、二人を見つめながら話し始めた。


佐伯先生

「宮本さん、ここでは誰かと競争する必要はないわ。あなたが感じる音楽を、あなた自身のペースで磨いていけばいいの。安心して取り組んでね。」


その言葉に、柚月の心が少しだけ軽くなった。彼女は深呼吸をしてから、小さな声で答えた。


柚月

「ありがとうございます。私、頑張ります。」


佐伯先生は満足そうに頷き、穏やかな声で言った。


佐伯先生

「それでいいわ。一緒に音楽を楽しみましょう。」


その日の夕方、初めてのレッスンを終えた柚月は、教室の庭に座って空を見上げていた。暮れゆく空には、港町の夕暮れとはまた違う、美しい茜色が広がっている。


柚月(心の声)

「ここが私の新しい場所。この音楽をもっと広げて、いつかまたお母さんに聴かせたい。」


彼女は手にした楽譜をそっと膝の上に置き、未来に思いを馳せる。新たな挑戦が始まり、音楽が彼女をさらに遠くへと導いていく。


カット:夕焼けに包まれる教室と、ピアノ室の窓越しに見える柚月の横顔。その先には、音楽に満ちた新たな未来が広がっている。


次回、柚月が教室での新たな仲間と出会い、音楽を通じて成長していく姿が描かれる。彼女の音楽がどのように変わり、広がっていくのか。

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