第19話 別れの準備
それから数週間後の午後。空気が冷たく澄み、港町に冬の足音が聞こえ始めていた。柚月は部屋で一人、小さなスーツケースに荷物を詰め込んでいた。手元には田辺先生から紹介された音楽教室の案内資料と、母・直子がこっそり渡してくれた家計簿の一部が置かれている。
スーツケースにはピアノの練習ノートや譜面、そしてお気に入りの本が数冊。だが、最後に何を入れるべきか迷いながら、柚月はしばらく手を止めて窓の外を眺めた。外には風に揺れるコスモスの花が見え、その向こうにはいつものように静かな海が広がっている。
柚月(心の声)
「本当にこの町を離れるんだ…。ずっとここで暮らして、ここでピアノを始めたのに。」
そのとき、背後から静かに部屋のドアが開いた。振り返ると、直子が立っていた。彼女は無言のまま部屋に入り、柚月の荷物に目をやる。
直子
「少しずつ片付いてきたみたいだね。」
柚月
「うん。でも、まだ何を持っていけばいいのか迷ってる。」
直子はスーツケースの中身をちらりと見て、少しだけ笑った。
直子
「それなら、必要なものは少なめにしておきなさい。どうせ新しい場所で、また必要なものが増えるんだから。」
柚月はその言葉に頷き、母の言葉の裏に込められた「これからも支えるからね」という気持ちを感じ取った。
しばらくの沈黙の後、直子は畳に座り、ポケットから小さな包みを取り出した。それは綺麗な布に包まれた何かだった。
直子
「これ、持っていきなさい。」
柚月が受け取ると、その中には、小さな鍵が付いた銀色の小物入れが入っていた。それは、直子が昔から大切にしていたものだった。
柚月(驚きながら)
「お母さん、これ…大事なものじゃないの?」
直子(少し照れくさそうに)
「そうだけどね。でも、今のあんたにはこれが必要だと思うの。新しい場所で不安になることもあるだろうけど、これを見て、ここに帰る場所があるって思い出しなさい。」
柚月はその言葉に目を潤ませ、小物入れをそっと握りしめた。
柚月(涙声で)
「ありがとう、お母さん。私、絶対に頑張る。」
直子
「頑張らなくてもいいのよ。ただ、あんたが好きなことを続けてくれるだけで、お母さんはそれで十分だから。」
直子はそう言って、立ち上がるとそっと部屋を出ていった。その背中はどこか寂しげで、けれど頼もしくもあった。
翌朝、柚月は母に見送られて駅へ向かうことになった。出発の時間が近づくにつれ、家の中はどこか静けさを増していた。準備を終えたスーツケースを引き、玄関に立つ柚月に、翔が少し恥ずかしそうに近づいてきた。
翔(小声で)
「姉ちゃん、行っちゃうの?」
柚月(優しく微笑んで)
「行くよ。でも、また帰ってくるから。それまでお母さんのこと、頼んだよ。」
翔は少し唇を噛みながら頷き、玄関に置いてあった柚月のスーツケースに何かをそっと滑り込ませた。
柚月
「翔、それ何?」
翔は少し照れくさそうに笑いながら言った。
翔
「姉ちゃんのお守り。学校で作ったやつだから、笑わないでね。」
柚月はそれを見て目を丸くした。手作りの紙のお守りには、翔の子どもらしい文字で「無事に帰ってこい」と書かれていた。
柚月(涙ぐみながら)
「ありがとう、翔。これ、大切にするね。」
玄関先で、家族が静かに見守る中、柚月はスーツケースを引いて外に出た。町の風景を一つ一つ目に焼き付けながら、彼女は駅へと向かう。
駅には、田辺先生が迎えに来ていた。これから柚月を音楽教室のある町まで送り届けるためだ。先生は彼女の姿を見つけると、穏やかに微笑みながら言った。
田辺
「大丈夫、君ならきっとやれるよ。」
柚月はその言葉に力をもらい、小さく深呼吸をして頷いた。
列車の発車ベルが鳴り、柚月は改札を振り返った。そこには母と翔が立ち、彼女に向かって手を振っている。母の目には涙が浮かんでいたが、その顔には強い決意が感じられた。
柚月(心の声)
「お母さん、翔…。ありがとう。私、絶対にこの音楽を続けてみせる。」
列車が動き出し、柚月の新しい挑戦が静かに始まった。窓の外に広がる港町の風景が次第に遠ざかり、彼女の胸には未来への期待と少しの不安が渦巻いていた。
カット:動き出す列車の窓から見える柚月の顔。涙をこぼしながらも、その目は新たな世界を見据えている。
次回、柚月が音楽教室での新しい環境に馴染もうと奮闘する姿が描かれる。新たな出会いと挑戦が、彼女の音楽にさらなる広がりをもたらす。
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