第18話 次の一歩

翌週の土曜日の朝。秋晴れの空が広がる港町。柚月は公民館のピアノ室に向かう途中だった。手には練習用の楽譜とノートを抱え、肩には町の風景と馴染む少し古びたバッグを掛けている。


公民館に到着すると、田辺先生がすでに部屋の準備をしていた。窓を開け放ったピアノ室には、冷たくも心地よい風が流れ込んでいる。柚月は部屋に入ると、深呼吸をして自分の席に向かった。


田辺

「今日は気持ちのいい日だね。新しい曲、どんな感じ?」


柚月はバッグから楽譜を取り出しながら答える。


柚月

「まだ全部は弾けないけど、この曲、すごく綺麗な旋律で…。弾いてると、不思議と気持ちが穏やかになるんです。」


田辺先生は微笑みながら頷き、譜面台を少し調整して言った。


田辺

「それはいい兆候だね。曲が心に響くってことは、君の中にその音楽が根を張り始めている証拠だよ。」


柚月はその言葉に少し照れたように笑い、ピアノに向かって姿勢を正した。


ピアノの鍵盤に指を置き、彼女はゆっくりと最初の音を押す。透明感のある音が部屋に響き渡り、それが新しいメロディーの始まりとなった。曲は途中で何度かつっかえるものの、柚月の手は迷いながらも進んでいく。田辺先生はその姿をじっと見守りながら、必要な箇所で助言を加える。


田辺

「そこは少し間を取ると、次の音がもっと生きてくるよ。焦らずに、一つ一つの音を味わうように弾いてみて。」


柚月は頷き、もう一度弾き直した。今度は音に柔らかさが加わり、旋律がより鮮明に浮かび上がる。


田辺(満足げに)

「いいね。その調子だ。」


一通りの練習を終えたころ、田辺先生はピアノの蓋を閉じ、椅子を回して柚月の方に向き直った。


田辺

「さて、今日は少し話があるんだ。」


柚月は驚いた表情で先生を見つめる。


柚月

「話?」


田辺先生は頷きながら、少し真剣な表情で続けた。


田辺

「君のことを、町外の音楽教室の先生に紹介したんだ。もっと専門的に学ぶ環境があれば、君の音楽はさらに伸びると思う。」


その言葉に、柚月は目を見開き、思わず息を呑んだ。


柚月

「私が…もっと専門的に?」


田辺

「もちろん、無理にとは言わない。でも、君の音楽はこの町だけで終わらせるにはもったいない。可能性を広げるために、新しい場所を見てみるのもいいと思う。」


柚月は視線を落とし、しばらく考え込んだ。その言葉は嬉しくもあり、不安でもあった。彼女の胸には、これまで慣れ親しんだ町や家族を離れるかもしれないという恐れが芽生えていた。


柚月

「お母さん…許してくれるかな。」


田辺先生はその言葉に柔らかく微笑み、言った。


田辺

「君のお母さんは、君がどれだけ頑張っているかちゃんと見ている。時間はかかるかもしれないけど、きっと分かってくれるさ。」


柚月は小さく頷き、静かに言葉を返した。


柚月

「分かりました。私…その話、前向きに考えてみます。」


練習を終え、公民館を出ると、外はもう夕暮れが近づいていた。オレンジ色の光が町を包み込み、海はきらきらと輝いている。柚月はバッグを抱えながら、家に向かって歩き出した。


途中、港の近くで漁から戻った漁師たちが網を片付けている姿を見た。どこかで見覚えのある風景に、彼女は立ち止まり、波打ち際に目を向けた。


柚月(心の声)

「この町で、私はピアノを始めた。でも、先生が言うように、もっと大きな世界を見に行くべきなのかもしれない。」


彼女は海から吹く風に髪を揺らしながら、自分の足元を見つめた。地面に刻まれた自分の足跡が、これからの未来を模索するかのように続いている。


家に帰ると、台所では母・直子が晩ご飯の準備をしていた。魚を捌く音と、鍋がコトコト煮える音が響いている。柚月はリビングの椅子に座り、母の背中をじっと見つめた。


柚月

「お母さん、ちょっと話してもいい?」


直子は手を止めて振り返る。その顔には少し疲れたような表情が浮かんでいたが、娘の真剣な様子に気づくと、椅子に座り直した。


直子

「何?学校のこと?」


柚月は首を横に振り、バッグから田辺先生に渡された楽譜を取り出しながら話し始めた。


柚月

「先生が、私をもっと本格的にピアノを習える場所に紹介してくれたんだって。でも、それには…この町を出るかもしれない。」


直子はその言葉に驚き、しばらく何も言わずに柚月を見つめていた。やがて、深いため息をつき、小さな声でつぶやいた。


直子

「そう…。」


その一言に込められた意味を測りかねて、柚月は不安そうに続けた。


柚月

「お母さん、私はもっとピアノを続けたい。でも、お母さんが嫌だと思うなら…やめてもいい。」


直子は黙ったまま目を伏せていたが、やがて顔を上げて娘の目を見つめた。


直子

「あんたがやりたいことなら、応援するよ。でも、どんなに遠くに行っても、この家があんたの帰る場所だってことだけは忘れないで。」


その言葉に、柚月の目に涙が浮かんだ。母の深い愛情を感じながら、彼女は力強く頷いた。


カット:夜の静かな港町。窓から漏れる明かりの中で、柚月が新しい未来への一歩を踏み出そうとする姿が映し出される。


次回、柚月が新たな挑戦に向けて決断し、町を出る準備を始める姿が描かれる。家族との絆、町の人々との別れが織りなす新たな章が始まる。

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