第15話 音楽の始まり

発表会の舞台に上がった柚月は、観客席から向けられる無数の視線を全身で感じていた。大きなシャンデリアの光が舞台を包み込み、会場全体が息をひそめたように静まり返っている。鍵盤の前に座った柚月は、じっと自分の手を見つめた。


柚月(心の声)

「大丈夫。ここまで練習してきたんだから。先生も、お母さんも応援してくれてる。」


胸の奥で響く緊張の鼓動を抑えるように、彼女はゆっくりと深呼吸をする。ふと視線を客席に向けると、前の方の列に母・直子の姿が見えた。直子は少し硬い表情で舞台を見つめている。柚月の目が母と合った瞬間、直子はわずかに頷いた。


その小さな仕草に、柚月の中に勇気が湧き上がる。


彼女は再び鍵盤に目を戻し、最初の音を頭の中で思い浮かべる。これは、彼女自身が作った曲。波の音と風のささやきから生まれた、自分だけの音楽。


柚月(心の声)

「誰かに笑われたっていい。この曲は私のもの。私が信じれば、それでいいんだ。」


静かに鍵盤に指を置き、最初の音を押す。ホールに響く音は、普段の練習のときよりもずっと澄んでいて、会場全体を包み込むようだった。


曲の始まりは穏やかで、波が静かに岸に寄せるようなイメージ。柚月の指は鍵盤の上を滑らかに動き、少しずつリズムが加わる。彼女の中にあった不安や緊張は、音に変わって消えていった。


観客席では、直子がじっと娘の演奏を見つめていた。その表情は次第に柔らかくなり、柚月の音楽に引き込まれていく。


直子(心の声)

「この子が作った曲…。こんなにも優しくて、力強い音を出せるなんて。」


後方の席では、美咲も黙って舞台を見つめていた。彼女の表情には、いつもの冷たさではなく、何かを感じ取るような真剣さがあった。


曲は中盤に入り、波が荒れるような力強いパートへと移る。柚月の指は時折迷いながらも、確実にメロディーを紡いでいく。その音が響くたびに、彼女の心はどんどん解放されていくようだった。


柚月(心の声)

「今までの練習で何度も間違えたけど、それでも私はこの曲が好き。この音が私の気持ちなんだ。」


演奏が終盤に差し掛かり、音は再び穏やかさを取り戻す。最後の一音を弾くと、ホール全体に静寂が訪れた。


観客席からは誰も動かない。拍手が来るのか、それとも何も起きないのか。柚月はじっと鍵盤を見つめたまま、少しだけ息を止めていた。


そのとき――


一人、拍手の音が響いた。それは前列に座っていた直子だった。彼女の手が強く叩かれるたびに、ホール全体にその音が広がる。それをきっかけに、次々と観客が拍手を送り始めた。やがてそれは大きな波となり、会場全体を包み込む。


柚月は驚きと安堵の入り混じった表情で、客席を見つめた。直子の笑顔、田辺先生の満足げな頷き、そして美咲の小さな拍手が彼女の目に映る。


柚月(心の声)

「私の音が届いた…。みんなに届いたんだ。」


彼女は深くお辞儀をし、ゆっくりと舞台を降りた。その瞬間、彼女の胸には、初めての達成感と自信が静かに芽生えていた。


控室に戻った柚月は、田辺先生から「よくやったね」と声をかけられ、思わず涙をこぼす。


柚月(涙声で)

「先生…私、すごく怖かった。でも、やっぱり弾いてよかったです。」


田辺先生は優しく彼女の肩に手を置き、静かに言った。


田辺

「君は本当に素晴らしかったよ。自分を信じて、音楽を信じた結果だね。」


その後、直子が控室に入ってきた。柚月は母を見て、少しだけ照れくさそうに頭を下げた。


柚月

「お母さん…ありがとう。来てくれて。」


直子は笑顔を浮かべ、柚月の髪をそっと撫でた。


直子

「あんた、本当に頑張ったね。お母さんもびっくりしたよ。こんなにすごい曲を弾けるなんて。」


柚月は母の言葉に胸が熱くなり、再び涙をこぼした。


柚月(涙声で)

「私、この曲を弾けたのは、お母さんが応援してくれたからだよ。」


直子は黙って柚月を抱きしめ、その背中を優しく叩いた。


その日の夕方、家に帰る途中、柚月は母と並んで歩きながらふと空を見上げた。夕日が港町をオレンジ色に染め、波の音が静かに響いていた。


柚月(心の声)

「私の音楽はここから始まる。もっとたくさんの人に、もっと遠くまで届けたい。」


彼女の目には、新しい挑戦への希望が輝いていた。


次回、柚月の音楽が町の人々にどのような影響を与え、彼女が次に進む道がどのように広がるのかが描かれる。

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