第10話 発表会に向けて
夕方、公民館にはいつものように柚月のピアノの音が響いていた。夕焼けが窓から差し込み、静かな空間を温かい光で包み込んでいる。田辺先生が横で譜面を見ながら、小さくうなずいている。
田辺
「だいぶ良くなったね。リズムも安定してきたし、最後の音の響きも綺麗だよ。」
柚月は鍵盤に手を置いたまま、少し安堵したように微笑む。
柚月
「ありがとうございます。でも、やっぱり緊張します。発表会なんて、私にできるのかな…。」
田辺はその言葉に小さく笑い、軽く柚月の肩を叩く。
田辺
「誰だって最初は緊張するよ。でもね、柚月。発表会っていうのは、何か特別なことをやる場じゃない。ただ、今の自分をそのまま見てもらう場所なんだよ。」
柚月
「…そのままの自分。」
柚月は少し考え込むように鍵盤を見つめる。彼女の胸には、学校での孤独感や母への遠慮がまだ残っていた。
柚月
「でも、私の音楽なんて、誰も気にしてくれないかもしれない…。お母さんだって、まだ本当に納得してくれてるわけじゃないと思います。」
田辺は少し真剣な表情で柚月に向き直る。
田辺
「それでも、君がその音楽を好きだと思うなら、それだけで十分だよ。誰かに認めてもらうことも大切だけど、それ以上に、自分が自分の音楽を信じること。それが一番大事なんだ。」
柚月は田辺の言葉をじっと聞き、再び鍵盤に向き直る。その手つきには少し力強さが加わり、音が響くたびに、彼女の心の中の迷いが少しずつ消えていくようだった。
練習を終え、帰り道。柚月は公民館から自宅へと向かって歩いていた。海風が髪を揺らし、波の音がどこか遠くから聞こえてくる。夜の港町は静かで、灯りがぽつりぽつりと点在している。
ふと、柚月は足を止め、漁船が停泊している海を見つめた。波間に揺れる船の灯りが、どこか温かさを感じさせる。
柚月(心の声)
「お母さんがあの日、私の曲を覚えてくれたとき、私は少しだけ自分を信じられた気がした。あの時みたいに、誰かに私の音楽が届いたらいいな…。」
柚月は静かに深呼吸をして、再び歩き始める。その小さな足音が、静かな町に溶け込んでいった。
家に帰ると、台所では直子が洗い物をしていた。柚月は戸をそっと閉め、台所に足を踏み入れる。
柚月
「ただいま。」
直子(振り返りながら)
「おかえり。遅かったね。練習はどうだったの?」
柚月は笑顔を見せて答える。
柚月
「少しずつ形になってきた気がする。でも、まだまだ練習が足りないです。」
直子はその言葉に少しだけ笑い、洗い物を続けながら言う。
直子
「本当に大変だね。発表会なんて、どんなものかも分からないけど、あんたがそこまで頑張るなら、お母さんも応援するよ。」
柚月はその言葉に驚き、目を見開いた。
柚月
「…お母さん、本当に?」
直子は顔を少し赤らめながら、振り返らずに答える。
直子
「ただし、条件は変わらないよ。家の手伝いはちゃんとすること。それだけ守れるなら、あんたの好きにしなさい。」
柚月は涙をこらえながら小さくうなずき、台所を出て自分の部屋へと向かった。
その夜、柚月は布団の中で目を閉じながら、今日のことを思い返していた。田辺先生の言葉、母の優しい背中、そして波の音が、彼女の心の中に響いている。
柚月(心の声)
「誰かに届くかわからない。でも、この音楽を信じてみたい。」
彼女はゆっくりと目を閉じ、夢の中でまたピアノを弾く自分を想像していた。
カット:夜空に浮かぶ星々と、静かな港町の風景。波の音が優しく響き、次の挑戦へ向かう柚月の決意を象徴している。
次回、発表会当日が近づき、柚月がさらに大きな試練に直面する姿が描かれる。
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