第3話 風が運ぶ願い
早朝、薄い霧が海の上に漂う中、柚月は一人で家を抜け出し、海辺へと向かっていた。夜明けの風は少し冷たく、肌を刺すような感覚がある。それでも彼女は、誰にも見られない静かな場所を求めるように、海岸の砂浜に足を踏み入れる。
靴の裏が砂に沈み込み、波の音が彼女の耳を包み込む。柚月は小さく深呼吸をして、波打ち際にしゃがみ込む。
柚月(心の声)
「波の音って、毎日同じように聞こえるけど、ちょっとずつ違う。昨日と今日は違うリズムみたいに。」
彼女は耳を澄まし、波が寄せては引く音を聞きながら、自然と口ずさむように小さなメロディーを作り始める。砂の上に指で鍵盤を描くようにして、イメージだけで弾く仕草をする。
柚月(つぶやくように)
「風が歌を運んでくるみたい…。でも、この音をみんなに聞いてもらうには、どうしたらいいんだろう?」
彼女は一瞬、昨日の母の厳しい言葉を思い出して顔を曇らせる。しかし、波が足元に触れるたびに、その思いが少しずつ消えていくような気がした。
小さなカモメが彼女の近くに降り立ち、首をかしげながら柚月を見つめる。それに気づいた柚月は小さく笑い、そっとつぶやく。
柚月(つぶやくように)
「ねえ、私、これでいいのかな?もっと頑張れば、いつかお母さんも分かってくれるのかな…。」
カモメが翼を広げ、静かに空へと舞い上がる。その姿を見上げながら、柚月は再び深呼吸をして立ち上がる。
柚月(心の声)
「きっと大丈夫。今はまだ小さい音かもしれないけど、この波みたいに、少しずつ広がっていくはずだから。」
彼女は足を踏み出し、朝日に照らされた海辺をゆっくりと歩き出す。波の音が彼女の背中を押すように、静かに響いている。
カット:太陽が昇り始め、海が金色に輝く風景。柚月の小さな足跡が砂浜に続いていく。
市場は早朝から賑わいを見せている。魚の生臭さと潮の匂いが混ざり合い、活気ある掛け声が響く中、直子は魚の入った重い籠を抱えながら、いつものように坂本(地元の漁師の妻)の屋台へ足を運ぶ。
坂本
「おはよう、直子ちゃん。朝早くから大変ね。」
直子
「お互い様よ。家計を支えるにはこれくらいじゃ足りないくらいだもの。」
直子は籠を台に置き、坂本が差し出した魚を受け取りながらため息をつく。その表情はどこか沈んでいる。
坂本(優しい口調で)
「どうしたの?最近、顔に疲れが出てるわよ。」
直子は一瞬言葉を飲み込むが、坂本の親しげな表情に心がほぐれたのか、小さくつぶやく。
直子
「…柚月のことでね。」
坂本は驚いたように眉を上げる。
坂本
「柚月ちゃん?何かあったの?」
直子
「先生がね、あの子にはピアノの才能があるから、もっと練習させてあげてほしいって言うの。でも、家のこともあるし、翔だってまだ小さい。そんな余裕、どこにもないのよ。」
坂本は直子の言葉を黙って聞きながら、慎重に言葉を選んで答える。
坂本
「でも、それだけ熱心に言ってくれる先生がいるなら、直子ちゃんも一度信じてみてもいいんじゃない?子どもが好きなことを見つけられるって、簡単なことじゃないわ。」
直子は少し困った顔をして首を振る。
直子
「そんな綺麗ごとじゃないのよ。好きなことを見つけたって、それが生活の役に立つとは限らない。夢なんて、現実には何の意味もないのかもしれないじゃない。」
坂本は黙り込み、直子の言葉の重さを感じ取ったように目を伏せる。それでも、少しの間を置いてから静かに口を開いた。
坂本(低く穏やかに)
「確かにそうかもしれない。でも、好きなことがある子は強いよ。その子が何かに夢中になれる時間があるだけで、人生は変わる。私たちが子どもの頃に、そんなものを持ってたかしら?」
その言葉に直子はハッとし、顔を上げる。坂本の言葉には、どこか自分自身への後悔が滲んでいるように感じられた。
直子
「…でも、どうすればいいの?応援してあげたい気持ちがないわけじゃない。でも、お金も時間もない現実の中で、何を優先すればいいのか分からないの。」
坂本は直子の手を軽く叩き、柔らかな声で答える。
坂本
「優先するものなんて、直子ちゃんが決めればいいのよ。でも、あの子が自分の道を進もうとしているなら、少しだけ背中を押してあげてもいいんじゃない?」
直子はその言葉に再び考え込む。市場の喧騒の中で、坂本の声だけが穏やかに響いている。
カット:直子が手に持った魚の包みをぼんやりと見つめる。その目には迷いと、ほんの少しの希望が入り混じっている。
昼下がりの教室。窓から差し込む柔らかな陽射しが、机の上を静かに照らしている。柚月は一人、ノートを開きながら鉛筆を握りしめていた。そこには音符や鍵盤の図が描かれ、彼女が今朝の海辺で考えたメロディーを一生懸命形にしようとしている。
教室の他の子どもたちは机を寄せ合い、おしゃべりに夢中だ。柚月のそばには誰も寄らない。それでも彼女は気にする様子もなく、ノートに夢中になっている。
クラスメイトA(ひそひそ声で)
「またあのノート書いてるよ。何やってるんだろうね。」
クラスメイトB
「ピアノらしいよ。でも、お金もないのに意味あるのかな?」
クラスメイトC(冷ややかに)
「そんなの、ただの自己満足でしょ。」
その声が耳に届いているのか、柚月の手が一瞬止まる。しかし、顔を上げることなく、再び鉛筆を動かし始める。彼女の小さな肩には、どこか緊張感が漂っている。
そこへ、教室の中心的存在である美咲が近づいてきた。美咲は机に腕を乗せ、上から柚月を見下ろすようにして話しかける。
美咲
「柚月、そんなにピアノが好きなら、都会に行けばいいのに。」
その言葉には皮肉が混じっていて、周囲のクラスメイトたちがクスクスと笑い声を上げる。柚月はノートから顔を上げ、少しだけ眉をひそめる。
柚月(静かに)
「どうしてそんなこと言うの?」
美咲(肩をすくめながら)
「だって、ピアノなんて弾いても何も変わらないでしょ?それに、家のことだってあるんでしょ?」
柚月は少し言い返したい気持ちを抑えながら、静かに答える。
柚月
「…分からない。でも、私がピアノを弾くと、なんだか自分らしくいられる気がするの。」
その言葉に、美咲は一瞬戸惑ったように目をそらす。だが、すぐに笑みを浮かべて冷たく言い放つ。
美咲
「ふーん、変わってるね。」
美咲が去ると、クラスの他の子たちも柚月から距離を取り、再び自分たちの遊びに戻る。教室の中にぽつんと取り残されたような柚月は、再びノートに目を落とす。だが、その鉛筆の動きは、さっきよりも力強く、迷いのないものだった。
柚月(心の声)
「私が変わってるって、分かってる。でも、それがどうしたの?ピアノを弾いてるときだけは、私の中のすべてが正しいと思えるんだから。」
彼女はノートを閉じ、そっと胸に抱きしめる。窓から吹き込む風が、彼女の髪を優しく揺らした。
カット:教室の外に広がる青空。柚月の胸に秘めた強い意志が、静かに描かれている。
夕方、空が茜色に染まる頃。柚月は家の縁側に座り、夕焼けに照らされる海をぼんやりと見つめている。波の音が遠くから響き、風が木々を揺らしている。学校での出来事が頭をよぎり、柚月は膝を抱えながらため息をつく。
そのとき、台所から微かに歌声が聞こえてきた。
直子(鼻歌で)
「…ふんふん…ふんふん…。」
柚月はそのメロディーに気づき、驚いて立ち上がる。鼻歌のメロディーは、柚月が公民館で練習していた自作の曲だった。彼女は縁側から台所を覗き込み、包丁を握る直子の背中を見つめる。
柚月(驚きながら)
「お母さん、それ…私の曲だよね。」
直子は一瞬動きを止めるが、振り返らずに答える。
直子(照れくさそうに)
「あんたが弾いてるの、家に帰ってからも耳に残ってたのよ。つい、口ずさんじゃっただけ。」
柚月は目を丸くして驚いた表情を浮かべたまま、縁側から台所へ入ってくる。
柚月
「お母さん、私の曲…覚えてたんだ。」
直子はようやく振り返り、少し照れたような顔で包丁を置く。
直子
「変な親子でしょ?でも、あんたの弾いてた曲、悪くなかったわよ。」
その言葉を聞いた瞬間、柚月の目に涙が浮かぶ。彼女は口を開こうとするが、何を言えばいいのか分からないまま、ただ直子を見つめる。
直子はその様子に気づくと、小さくため息をつきながら言葉を続ける。
直子
「でもね、柚月。家のこともちゃんとやりなさい。それが条件よ。お母さんがあんたの音楽を認めるのは、それができてからの話だから。」
柚月は涙を拭いながら、力強くうなずく。
柚月
「分かった。私、頑張る。ピアノも、家のことも、どっちもちゃんとやる。」
直子は少し驚いたように柚月を見つめるが、すぐに優しい笑みを浮かべて頷く。
直子
「じゃあ、もう一度あの曲聞かせてよ。お母さん、今度はもっとちゃんと覚えるから。」
カット:その後、柚月が台所の隅で小さなメモ帳を取り出し、直子に向けてメロディーを口ずさむ姿が映る。直子は包丁を置き、少し照れながらそれに耳を傾ける。
窓の外では、夕焼けが海を金色に染めている。親子の間に小さな温もりが流れるように、波の音が背景に響いている。
夜の公民館。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、かすかに風が窓を揺らす音だけが響いている。柚月は田辺先生と向き合いながら、ピアノの鍵盤に手を置いている。その小さな手には、昼間の迷いや不安ではなく、どこか穏やかな決意が宿っていた。
田辺
「今日は随分いい顔してるね。何かいいことでもあったの?」
柚月は少し恥ずかしそうに微笑みながら答える。
柚月
「お母さんが…私の曲を覚えてくれてたんです。それが、すごくうれしくて。」
田辺先生は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと微笑む。
田辺
「それはいいね。きっとお母さんも、君がどれだけ一生懸命か分かってきたんだと思うよ。それじゃあ、今日はその気持ちを込めて、もう一度あの曲を弾いてみようか。」
柚月は深くうなずき、鍵盤に指を置く。目を閉じて深呼吸をすると、彼女の頭の中に波の音や風のささやきが蘇る。そして、ゆっくりと鍵盤を押し始める。
ピアノの音が静かな公民館に響き渡る。昨日よりも滑らかで、どこか優しさを感じさせる音色に、田辺先生は感心したように腕を組む。
田辺
「いい音だね。感情が音に乗ってる。それが音楽にとって一番大事なことだよ。」
柚月は弾きながら、田辺先生の言葉を聞いて小さく頷く。その表情は真剣そのものだ。
演奏が終わると、柚月は少し息を切らしながら田辺先生を見上げる。
柚月
「先生、これでいいんですか?」
田辺(微笑みながら)
「もちろん、素晴らしいよ。でも、もっと広げてみよう。例えば、この部分を繰り返すことで曲に強さを持たせるとか、最後の音を長く伸ばして余韻を作るとか。音楽は、君が感じたままに自由に形を変えていいんだよ。」
柚月はその言葉を聞き、目を輝かせる。
柚月
「自由に…音を変えていいんですか?」
田辺
「そうさ。それが音楽の面白さなんだ。誰かに教わるだけじゃなくて、自分で作り出していく。それが君の音楽になるんだよ。」
柚月は再びピアノに向き直り、先生のアドバイスを元にメロディーを少しずつ変えていく。音を試行錯誤しながら、少しずつ自分の「音楽」が形を変えていく様子に、彼女は楽しさを感じていた。
田辺先生はそんな柚月の姿を見守りながら、心の中でつぶやく。
田辺(心の声)
「この子の音楽がどこまで広がるんだろう。きっと、こんな小さな町を超えて、大きな世界まで届くかもしれないな…。」
カット:ピアノの音が止むと、静かな夜が公民館を包み込む。柚月は満足そうな顔で椅子から立ち上がる。
柚月
「先生、今日はなんだか自分の音が少し変わった気がします。もっともっと練習したいです。」
田辺(微笑みながら)
「いいね。その気持ちがあれば、どんな道だって進んでいけるよ。」
カット:公民館の窓から見える夜空。星々が輝き、静かな波の音が遠くから聞こえている。
次回予告
ナレーション(田辺先生の声)
「音楽に向き合う中で、自分の居場所を見つけ始めた柚月。しかし、その小さな一歩の先には、さらなる試練が待ち受けていた――。」
映像予告:
•クラスメイトたちに再び冷たく扱われる柚月。
•直子が市場で漁師仲間たちと話し込み、何かを決断する様子。
•田辺先生が柚月に新しい挑戦を提案する場面。
•波打ち際で何かを決意する柚月の横顔。
タイトル表示
「次回:挑戦のステージ」
「才能の光と影、その中で揺れる少女の心。」
読者へのメッセージ
「『Gifted』第3話をお読みいただき、ありがとうございます。柚月が自分の音楽に一歩踏み出す姿に、何かを始めた頃の自分を思い出された方もいるのではないでしょうか?次回は、柚月が新たな挑戦に向き合うと同時に、家族や周囲との関係がより深く描かれていきます。どうぞお楽しみに!」
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