sectⅥ 逃亡

 夜のとばりが降りた湾岸沿いに、二羽のゆりかもめが翔んでいた。

 隣接するゴミの最終埋立地には、無数のカラスが餌を求めて群れている。

 互いにテリトリーを持ち、棲み分けするような形で両者は共存していた。

 埋立地から延びた車道に、大量の血を引きずった跡が続いていた。

 血の跡は電話ボックスの前で止まっている。

 ガラスにベットリと鮮血が付いていた。

「死ンだら、ブッ殺すからな」

 若い男が、呟いた。

 受話器が外され、緊急連絡用の赤いボタンが血だらけの指で押された。

〝はい、119番。東京消防庁です〟

 受話器の向こうから、交換手の声が響いた。

「銃で、撃たれた…2人とも重態だ……」

 男は、横で寝そべっている陰惨な姿のハイティーンの女を見ながら答えた。

〝場所は、どこですか?〟

「江東区中央防波堤外側廃棄物処理場の電話ボックスだ」

 男が、ボックス内に書かれてある住所を読んだ後、指紋が付着したと思われる箇所

を無意識にシャツで拭っていた。

 受話器が、ダランと垂れた。

「死ぬなよ、メグミ。必ず、助けてやる」

 男はそう言ったきり、メグミと呼ばれる女をかばうようにして、その場にうずくま

った。

〝もしもし、どうしました?〟

 問いかける受話器の音は、その男の耳には既に聞こえていなかった。

 全ては31時間前に端を発した事だった。

 テレクラでメグミを拾った男は、相原功治と名乗っていた。

 互いにその場限りの出会いのつもりだったが、不思議とウマが合いツルむ事になっ

た。

 そして、行くあてもカネもないコージとメグミは、闇金融を襲撃した。

 そのあげく、ヤクザに焼きを入れられてこのザマだった。

 棲む世界のテリトリーを、侵した報いであった。

 救急車の赤色回転灯が、ボックスのガラスに映り込んだ。

 2人を乗せた救急車は、救命医療センターに向かった。

 瀕死の重症患者達は、ストレッチャーで手術室に搬送されていった。

 手術室のドアが閉められ、[手術中]のランプが点灯した。

 コージとメグミは、2人同時に手術が開始された。

 酸素吸入器をしたメグミの身体から数発の弾丸が摘出された。

 隣ではコージが刺された脇腹の縫合手術を受けている。

「ドクター! 心臓が停止しましたッ」

 看護婦が、メグミに付けられたオシロスコープの波形を見て言った。

 急に、波打たなくなったのだ。

「脳波は?」

 執刀医のドクターが、聞いた。

「反応しています」

 脳死には至ってはいなかった。

「電気ショックの準備」

 ドクターの指示の下、助手が電極パッドを持って構えた。

「チャージOKです」

 看護婦が、言った。

「カウント開始ッ」

「3、2、1」

「スタート!」

 “ボン”という鈍い音と共に、メグミの上半身が一瞬持ち上がった。

 依然、オシロスコープは無反応だった。

「チャージッ」

「チャージ完了。3、2、1」

「スタート!」

 再び、電気ショックが与えられた。

 その頃、コージは夢を見ていた。

〔あたし、コージにだけはウソつかなかッた〕

 夢の中で、メグミがはにかみながら話していた。

 その瞬間、コージの手が痙攣したように動いて、メグミの手に触れた。

「チャージッ」

「ドクターッ。これを!」

 オシロスコープの波形がゆっくりと波打ってきた。

 奇跡的に蘇生した2人は、ICU(集中治療室)に移された。

 ICUのドアに下がっている[面会謝絶]のプレートを、スーツ姿の男達が廊下か

ら鋭い眼光で見つめていた。

 手術が終わってからまる三日が過ぎた。

 男達は、担当医に警察手帳を見せながら室内を指差した。

 事情聴取のため入室許可を求める刑事達に、担当医はかぶりを振った。

 手術は成功したものの、まだ意識が戻らず予断を許さない絶対安静の状態だったか

らだ。

 院内感染の危険が叫ばれる昨今においては、なおさらの処置であった。

 刑事達は、担当医に対して凶弾に倒れた男女のどちらか一方でも意識が回復したら、

ただちに警察に連絡するように言い含めて去って行った。

 だが、この時コージは意識を取り戻していた。

 室内から担当医と刑事達とのやりとりを覗き見た後、隣のベッドで眠っているメグ

ミの寝顔を見ながら少し考えた。

「うッ」

 コージは、意を決した表情で脇腹の痛みに呻きながらもベッドから起き上がった。

 指紋が付いたと思われる手すりを消毒液で拭き取り、部屋を出て行こうとした時だ

った。

 不意に、コージの病院服の袖が引っ張られた。

「ハッピー・バースディ。……連れてッて…あたしも……」

 消え入りそうな声で、メグミが呟いた。

「ンなコトしたら、今度こそ死ぬぞ」

 コージが、言った。

「置いてかれるより、マシよ」

 メグミは、かすれた声でキッパリと言った。

 コージが、メグミの身体に付けられた脳波計や点滴のパッチを引き?がした。

 と同時に、ナースステーションの警報ブザーが鳴った。

 看護婦達がICUに着いた時、バンとドアが開き、メグミを乗せたベッドが廊下に

押し出されてきた。

「ちょッと」

 コージは、看護婦の制止を振り切り外来や患者をどけるようにしてエレベーターに

乗り込み、1Fのボタンを手の甲で押した。

 病院一階のエレベーターのドアが開いた。一階には救急車が置かれてあった。

 非常用の車のため、キーは差したままである。

 コージは、車内備品の手袋をすると、メグミを抱きかかえて後部のストレッチャー

に移した。

 指紋を残す事に異常な警戒をしていた。

 病院である以上、患者のレントゲン写真や血液が採取される。

 IDとしては指紋が最も信憑性が高い。

 同じ指紋を持つ確立は56億分の1とされるからだ。

 入院中に採血される事はあっても指紋を取られる事はない。

 コージは、それを知っていた。

 そして、救急車のエンジンをかけて急発進させた。

 一般道の信号機を全て無視するように、コージがサイレンを鳴らしながら救急車を

走らせた。

 コージは、コインパーキングに救急車を乗り捨て、そこに偶然駐車してあったスモ

ークガラスのステップバンに乗り換えた。

 ステップバンならメグミをストレッチャーごと乗せる事が可能だった。

 コージは、救急車に置かれてあった白衣と長靴を着用して民間の無人貸金庫にクル

マを停めた。

 貸金庫からキーを取り出した。

 キーは私設ロッカーの物だった。

 コージは、そのロッカーに向かった。

 ロッカーにはシャネルの旅行用バックが入っていた。

 バックの中身はヤクザの闇金融から命がけで奪った、三千万円分の札束が入ってい

たのだ。

 ステップバンが歌舞伎町の路地に停まった。

 苦しそうな表情で、コージはバックを手にして降りた。

 脇腹から血が滲んでいる。

 いかがわしそうな薬局に、コージが入った。

 一癖ありそうなオヤジの経営する店だった。

「手術後に必要な止血剤と点滴を、あるだけ欲しい」

 コージが、青息吐息で言った。

「病院からの処方箋は?」

 オヤジは、老眼鏡を鼻の下にずらして上目づかいに喋った。

 コージは、黙って札束を差し出した。

「なるほど…わけありね。処方箋がないと、売る事はできないな」

 血の滲んだコージの脇腹を一瞥して、オヤジが言った。

「足元見ンじゃねーよ。医療用の麻薬を立ちンぼのコロンビアーナに、裏で横流して

ンのをチクるぞ」

 コージが、凄んだ。

 この薬局はバクチの借金で飛んだオヤジが企業舎弟の仲介で、利子の棒引きを条件

に、ヤクザに薬を違法に卸していたのだった。

 企業舎弟とは警察が指定する暴力団名簿に、名前が載っていないヤクザの事である。

 暴対法施行後、指定暴力団はその構成員を警察に届けなければならなくなり、更に

ヤクザと名乗っただけで恐喝罪が適用されるようになった。

 シノギが厳しくなったヤクザは、計算に強い構成員を破門した上、表向きカタギに

戻し経済ヤクザとして資金を稼ぎ出したのである。カタギになれば暴対法は通用しな

い。

 一般市民同様に、民事事件扱いになる。

 民事であれば豊富な資金力をバックに弁護士を雇い、のらりくらりと裁判を引き延

ばし相手の訴訟費用が尽きるのを待って示談に持ち込むのである。

 金融スキャンダルで暗躍する総会屋がその例だ。

 経済ヤクザはバブルの地上げで儲け、バブルが弾けた後でさえなおも損切りという

不良債権処理の名目で、企業舎弟の抵当権が付いた土地を銀行に買わせて暴利を貪っ

ている。

 まさに、バブルはヤクザ一人勝ちであった。

 そのツケは増税され、税金で賄われる事になる。

 政・官・財による国家支配形態のおいて、利権闘争と私腹を肥やすためにヤクザを

利用する者がいる以上、ヤクザは永遠にその存在価値と共に巣食うのである。

「つ、つまらン言いがかりだ」

 狸オヤジは、動揺の表情を見せた。

「俺は強盗じゃない。タダの客で来てンだ」

 コージは、更に札束を積んだ。

 オヤジが、奥からダンボールに詰まった薬を持って来た。

 コージは、ステップバンに梱包された薬品を積み込んだ。

「どこ…行くの……」

 後部シートに寝ているメグミが、肩で息をしながら聞いた。

「高飛びする。警察とつながってる国内の病院にいたら、パクられるからな」

 コージが、エンジンキーをひねりがなら答えた。

「……」

 メグミは、宙を見つめながら虚ろな眼をしていた。

「メグミ、それまで持つか?」

「コージと一緒なら、いつ死ンでもいい……」

「俺の眼の前で、死ンだらブッ殺すぞ」

「うン…」

 メグミは、フッと笑みを浮かべた。

 大井埠頭で、巨大なクレーンに吊り下げられたコンテナが貨物船に積み込まれてい

る。

 コンテナを満載した貨物船が出航した。

 中国船籍のこの老朽船は中国の新界という港に向かっていた。

 積み荷の中には蛇頭(スネークヘッド)と呼ばれるチャイニーズ・マフィアの手引

きによって、日本から盗まれた最高級クラスのメルセデスベンツが十数台隠されてい

た。

 盗難ベンツの密輸である。

 中国では国産車推進のため外車の輸入規制を強いており、特にステータスシンボル

として人気の高いベンツは入手するのに難しい状況が生まれていた。

 一国二制度の政策で西側との貿易から富を得た新興ブルジョア階級に取って、ベン

ツは必要不可欠なモノになっていた。

 つまり、需要と供給のバランスが崩れ、極端な供給不足が中国では起こっているの

だ。

 そうなれば、そのニーズを埋めるために闇市場が活性化する。

 新品のモノが手に入らないとすれば、程度が良ければ中古でも構わないとなり、そ

の入手経路が盗難車でもとなる。

 こうして、一部の富める者達がマフィアを肥え太らせていくのである。

 コンテナ前面を中古車の解体部品でカモフラージュして、斜めに宙吊りにされたベ

ンツの一台に手負いのコージとメグミがいた。

 コージは、プリンセス・ダイアナが事故死した時に乗っていたのと同タイプのベン

ツを盗んだ。

 それをヤードと呼ばれる千葉の佐倉市にある中古車解体業者に持ち込んでいた。

 オーナーは蛇頭につながる中国人で、盗難車をバラして中古車として輸出していた。

 近年の規制緩和により手続きの簡素化から書類審査のみになったので、密輸が容易

になったのだ。

 国内に入ってくるモノに関しては税関の厳しいチェックがあるが、国外に持ち出す

のは人を含めてそう難しい作業ではなかった。

 コージは、盗んだベンツの代金の替わりに密航の条件を蛇頭に提示したのだった。

 こうして、コージとメグミは狭い車内で止血剤と点滴で急場を凌ぎながら新界のツ

ェンワン港に着いた。

 漢字の羅列するネオンの上を、ジャンボ機が手の届きそうな超低空で飛び去ってい

く。

 その整形外科は航空機の轟音の震動で揺れる香港の場末にあった。

 待合室の灰皿には吸殻がたまっていた。

 サングラスをしたコージが、タバコを吸い終えて9本目に火を点けようとした頃だ

った。

 手術室からミイラのように顔面を包帯でグルグル巻きにしたメグミが出て来た。

「コージ!」

 メグミが、言った。

「時間くッたな」

 コージが、持っていたタバコをしまいながら言った。

「ケガだけじゃなく、顔までいじるなンて聞いてないよォ」

「顎周りを少し削っただけだ。ヤクザとポリに面が割れちまッたからな…包帯、いつ

取れるッて?」

「6日後…」

「それまで、ミイラ女か」

「ねェ、コージ……」

「ン」

「…もし…もしもよ、手術が失敗して、あたしがお岩サンのよーな顔になッてたら、

どーする……」

「お岩サンは毒飲まされたからゾンビ顔になッたンで、もともとキレイな女だったン

だ。オマエとは違うよ」

「シツレーね。じゃァ、そのゾンビよりヒドい顔だッたら!」

「俺は、『エレファントマン』に感動したンだぞ」

「何それ。どーゆーイミ?」

「ルックスで、人を判断しないッてコトだ」

 コージは、そう言って廊下を歩き出した。

「よくわかンなーい。ちょッとォ、待ッてよ」

 メグミが、コージの後を追った。

 コージとメグミの2人は、新界で身体を直し、中国に返還されて日の浅い香港で顔

面を整形手術によって変えていた。

 それから、中国本土からカンボジアに移動した。

 大陸の地続きなので、賄賂次第でいくらでも密入国が可能だった。

 カンボジアに移動したのは二つの理由からだった。

 潜伏する滞在費が格段に安いからである。

 それと、隣国のタイに偽造パスポートを二通オーダーしていたからだ。

 不法就労目的で黄金の国ジパングを目指す中国系外国人の多くは、蛇頭の手引きで

多額の借金をしながら密航するのである。

 漁船による密入国は海上保安庁の巡視船の警備が厳しく、上陸後も目立つので最近

は偽造パスポートを使って入国をパスするケースが増えていた。

 タイの偽造技術は最新のパソコンを使ったモノで、現在その技術力は世界一とされ

ている。

 蛇頭による闇ビジネスは、日本をターゲットに多岐に渡っていた。

 日本のヤクザと連携して、密入国・盗難車や偽ブランドの卸・パチンコの不正ロム

による換金、そして銃や覚醒剤の密輸である。

 アジアの死の商人達は、平和大国ニッポンを色々な角度から喰い物にしているのだ。

 コージとメグミは、二週間の滞在で蛇頭からパスポートを受け取った。

 橙色に染められた法衣をまとった仏教徒のそばを、輪タクが走っている。

 顔を変えた2人の若い男女は、タイの国際空港に向かった。

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