永遠の踊り手

猿田夕記子

永遠の踊り手(完結)

「起こったことはすべていいことだ」

「それはどういう意味?」

「そのままだよ。この世界では、毎日いろいろなことが起こってるだろう。たとえば、船が沈没したり、誰かが殺されたり、戦争したりさ」

 彼は分厚いアクリルガラスの向こうで、こちらをまっすぐに見ていった。

「また逆に、平和になったり、溺れる人が助かったり、あるいは誰かが生まれたりする。それら含めて、みんないいことなんだよ」

「誰かが傷つけられたとしても?」

「もちろん。何かが起こるのは、それが正当なことだからだ」

「あなたは加害者よ。だからそんなふうに思えるんだわ」

「それは違うよ。僕だっていつか殺される」

「あなたはここで、平穏な一生を終えるでしょうよ」

「そうとは思えないね。でもいずれにしても、僕の身に起こるすべてのことは、いいことだ……本当だよ。信じていないんだね。ああ、君は黄金の森のことを知らないのか。それなら仕方がない。その話をしてあげよう」

 私は、彼の名前と年齢と元の職業を知っていた。だけどそうしたことは、何の意味もない。私は目を閉じて、彼の話に耳を傾けることにした。


 幼い頃から、ぼくはある「島」のことを夢見ていた。

 その島は、いつどこにでもあり、立ち去ることも立ち寄ることも自由な場所なんだ。

 そこではすべての人が、誰にも邪魔されずに行き来できる。権利も資格も何もいらない。ただ「そこへ行きたい」と願えば、その場所は立ち現れる。

 もちろん君だって行くことができる。君がそう望むならね。ただそれがあると信じて、そう願えばいい。

 大事なのは「この世のどこかに、そういう場所がある」と知ることだ。

 ぼくは、今ここにはないけれど、どこかにある場所のことを思うようになった。それは、取り返しのつかないことだった。何かを知ってしまったなら、それ以前に戻ることはできないんだ。

 君だって、元通りの体にはなれないんだろう。意地悪をいっているわけじゃない。それは真実で、曲げようがないことなんだ。


「あなた、さっきから何について話しているの? 殺人のことでも聞けるかと思っていたわ」

「僕は、僕について話しているだけだ」

「そうね、あなたは狂人だそうだから」

「それはお互いさまだろう。君こそ、どうしてこんなところにきたんだ」

「それをあなたに話すつもりはないわ」

 私は車椅子の上から、そう答えた。

「まあいいさ。君がここにいることも、こうして僕としゃべっていることも、すべてはいいことなんだよ」

「ではあなたは、私の身に起こったこと、それによって私が苦しんだこと、そのすべてが正しいというの?」

「もちろん。そうでなければ起こらなかったはずだから」

「やめてよ!」

 私は彼の声が嫌いではない。だが、その言葉だけは受け入れられない。

「あなたはそうやって、自分のしたことを正当化しているんだわ」

「僕はこうして語る。君はそう思う。どちらも間違いじゃないんだ。さあ、話を続けよう」


 幼い僕の耳のすぐ側で、誰かの声が聞こえた。

「これでいい。何もかもうまくいってる」

 そいつの姿は見えない。だけどぼくはわかったんだ。そいつは「今の全世界、すべてがうまくいっている」って、そういってるんだ。

「なにいってるの、この世界は間違っているよ」

「へえ、そうかい?」

「そうだよ。ウソだよ。なにもかもウソさ……でも、ほんとの国はあるんだ。そう、ここからずっと遠い場所に……島があるんだ」

「島なんて、どこにでもあるだろう」

「ちがうよ。そこは特別な場所なんだ。その島は海の上、黄金色の夕日の向こうにあるんだ。ふだんは、人があんまりこない場所だよ。そう、きっと大きな島だよ。そこには森があって……そのずっと奥に、金色の鳥がいるんだ。泉が湧いていて……誰かがいる。ああ、女の人だ。その人は、とってもうれしそうだ。なぜだろうね。ぼくにはわからない……」

 ここからずっと遠い、もしかしたら存在しないかもしれない場所のことなんて、誰も聞きたがらないだろう。でも、今では聞き手がいた。僕が森について語り終える頃、目の前には、黄金の羽を持ち、人語を解す鳥が生まれていた。

「ほら……ほらね! 君は、きっとあの森からきたんだろう」

 鳥は何も答えない。

「ぼくはずっと向こうの島に、あの森があることを知ってるよ、ねえ、お願いだ。ぼくをそこに連れて行ってよ」

「おまえは、ここにいたくないというのか」

「そうだよ」

「ならば、望み通りにしてやろう」

 鳥はそういい、ぱっと羽を広げた。

 そこには光があった。きらきらと光る、黄金色の……でも何だろう、それはとてもイヤなものだ。光はぼくに敵意を持っている。空から針が降ってきた。それはぼくを切り離してバラバラにして、何も考えられなくしてしまう。

 その時、僕からとても何か大事なものが消え失せてしまった。それは何だったろう。森か、影か、自分なのか……それからぼくは、ずっとそれを探し求めているんだ。


 この世のどこかに美しい森があって、そこには人語を解す鳥がいる。苦笑した。なぜなら、私もまた似たようなことを思っていたからだ。

 私は幼い頃から、ある小箱について想像していた。それはとても小さくてきれいな箱で、誰もそれを見つけることはできない。だけど、その中にはたった一人だけ入ることができる。その中にいれば絶対に安全だ。外で嵐が吹き荒れていても、みんなが血みどろになっていても、自分だけは傷つけられることはない。そういう箱があればいいと願っていた。

 ――彼は狂っていて役立たず。

 そう断じて、話を終わりにすればよかった。

 けれど私は、彼との対話を続ける。なぜあの時私があそこにいたのか、なぜ私が選ばれたのか、なぜ私が苦しまなければならないのか――その理由が知りたい。


「それであなたは殺人を犯したというわけ」

「そうだよ」

「それと森と、何の関係があるの」

「それは説明が難しいね。単に、何かすごいことを成し遂げたいっていう、思春期的な願望だったのかもしれない。犯行がバレてもバレなくても、どっちみち特別な人間になれるじゃないか――少なくとも、そうなっているという錯覚はできる。でも結局は、無駄なことだったよ。何の手ごたえも感じられなかったからね。毎日、いつ捕まるかとびくびくしていなきゃならない。でも、どうしてそんなふうに恐ろしがるんだろうね。この世界がニセモノなら、何もかもが薄っぺらくて実態がないのなら、どうなったっていいじゃないか。それなのに僕は天気予報を見て、折り畳み傘をきちんと準備している」

「そうね」

 私はちょっと笑った。そして続けた。

「あなたって、身勝手な人ね。いつでも自分の考えだけで物事を進めてるわ」

「森を失ったからだよ。君だって、あの森を取り戻すためなら、そのために人を殺さなければならないとしたら、そうするだろう」

「そんなこと絶対にしないわ」

「いや、わからないね」

「で、これからどうするの。あなたは脱獄して、世界中の人間を殺しつくすつもり?」

「僕はもう誰も殺さない。そんなことをする必要はないんだ。だって、もうすぐ森がやってくるからね」


 ――森。

 それは彼の逃避先なのだろう。私の小箱と同じく。私の小箱は役立たず。紙のようにあっけなく燃えてしまった。彼の森も、蜃気楼のようなものに違いない。

 私が苦しみを受けてから、私の人生はすっかり変わってしまった。もしここで生を投げ出しても、誰も私をとがめないだろう。それはあまりに重すぎる荷物だから。それなのに、私は彼との対話を続けている。

 そもそも私は、何を求めて彼と会話しているのだろう。運命や因果、あるいはどこかにある理想郷について話したかったというのか。

 私は彼に何かを期待していた。だけど、彼はただ単に狂っている。自分の夢を見るだけで手一杯だ。私の体は元には戻らないし、記憶は消えない。私は、私の身に起きたことを受け入れるしかないのだ。

 けれど私はなおも彼に問う。

「もうすぐ森がやってくる――そう言ったわね。だったら、あなたは誰も殺す必要がなかったのでは?」

「この世界は単純じゃないんだ。いつも公明正大に物事が進むと思わない方がいい。鳥は恩寵を与えると見せかけて、僕から森を奪った。バラの苗を植えると、どこかで土地の価格が下落する。そんなことだってあるんだよ。僕が殺して殺して殺し尽くして、もう誰も殺さなくてよくなったから、あの森が僕の前に現れたんだ」

「なぜそう思うの」

「鳥の声を聞いたときに、知ったんだよ」

 ここへ来る前、私は彼が「人間らしい感情を持っているかどうか」ということを気にしていた。彼がそうであるならば、私を傷つけた犯人も、その行いを後悔しているかもしれない。もし自らの行いを悔いてくれるならば、私は幾分なりとも救われるだろう――そんなのは甘ったるい感傷だ。彼は意味不明なことばかり言っている。加害者は加害者。私は私の傷をどうすることもできない。

「お邪魔したわ」

 私は車椅子を操作して、彼の前から立ち去ろうとした。

「待ってよ。君はなぜ、僕と会おうとしたんだ」

「それは……何かがあると思ったから」

「そうだろうとも。僕の殺人の理由も、それと同じだ」

「冗談よしてよ。あなたと私は違うわ」

「同じだよ。いずれわかるさ」

 私は帰り道、彼に尋ね忘れたことを思い出した――もし私とあなたが外で出会っていたなら、あなたは私を殺していたの?


 君は、僕をただの狂人だと思っているんだろう。「起こったことはすべていいことだ」なんて、自分の殺人趣味を肯定しているだけじゃないかと。そう思われても仕方がないね。だけど、僕のいうことにちょっとは耳を傾けてもらいたい。

 もしかしたら君は、勧善懲悪のつまらない物語を信じているかもしれないね。いつか君にひどいことをした人に天罰が下されるだろうって。だけどそうじゃないんだよ。殺されることが名誉で、生まれることが最高の呪いだっていう場合もあるんだ。鳥が僕から光を奪って、そして最高のものを与えてくれたように。何がよいことで何がわるいことかなんて、簡単に判断はできないんだ。

 だってそうでなきゃ、どうしてあんなにたくさんの人たちが僕に殺されたんだろう。彼らは殺されることを望んでいたんだよ――殺人者は、誰でもよかったんだ。別の人、あるいは君でもいい。僕はたまたまそこにいて、そういう役割を与えられただけだ。君もいつかわかるよ。そういうことが起こり得るんだって。


 おれは走っている。

 何年間もこうして走り続けているんだ。ただまっすぐに赤い土を見て。この先に何があるのか知らない。

 おれはもう死にもの狂いで走っている。どうしてこんなことをしているんだっけ。誰かおれを追う者がいるのか。くそっ、どうしてこんなことを考えはじめたんだろう。今まで何も思わずにすんでいたのに。

 ――時間がない。もう今にも。

 ああ、そうか。そうなのか。おれの命はもうあとわずかだっていうのか。せっかくここまできたのに、もう寿命だなんて。いやそんなことはない。それはおれの歪んだ考えだ。自分で作り出した幻だ。おれは本当はもっとずっと長い間生きるかもしれない。

 でもそんなことはどうでもいい。おれはこの命が尽きる前に、やらなきゃいけないことがある。何かから逃げる、あるいは追う――この先へ進まなきゃいけないんだ。走り、走り続けて。

 その先に、何が現れるかはわからない。だけどそれを目にした時、おれは自分が何をするべきなのか、何のためにここまできたのか、たちまちわかるだろう。

 だから、ただ走り続ければいいんだ。

 最初の殺人はいつだったろう。

 そんなことはもう忘れたいもんだ。そいつは天気雨の日、たった一人でのろのろと舗道を歩いていた。狙いをつけた理由といえば、それだけだ。辺りはとても静かで、空気が水のように澄んでいた。どうして自分がこんなに安らかな気持ちでいるのか、わからないな。

 でもそうするべきだとは知っていた。おれはやるべきことをやった。そいつは驚いたような、信じられないような、まるで夢を見ているみたいな目をして倒れた。

 なぜそんなことをしたのか。何人も何人も、それを聞いてきた。「海を渡って森へと行けるはずだったから」と答えるほかない。それがおれにとっての確信で、唯一の正しい答えだからだ。


 森はやってくる。君が僕を訪れたように。

 だけど、何ということだろう。ここはもはや森とはいえなかった。赤茶けた大地の上に、何本かの枯れ木が突き刺さっているだけだ。これがあの鳥のいた森……僕は、遅すぎたのだろうか。

 一本の太い木に目をとめる。もうすっかり枯れ果てて、何十年も経っているみたいだ。

 僕は小さい頃から今まで、本当の世界を求めてきた。ずっとずっとそれだけを考えていた。森を求める気持ちは、誰よりも強いものだ。だからいつの間にか、世界が僕に何を望んでいるのか、わかるようになったんだ。愛する人の気持ちがわかるのと同じだよ。相手がそれを望むのなら、何だって起こるんだ……だからさ、きっと奇跡が起きる。森は必ずよみがえる。


 ――死なないうちに、早く早く。

 おれがなぜ走っているのかって? 一刻も早く、そこにたどりつかなきゃならないからだ。

 その場所は、いつだってあるとは限らないんだからな。おれが手を伸ばした瞬間に、消え去ってしまうかもしれない。行けども行けども森はない。そりゃそうかもしれないな。あの森は、おれの頭の中にしかないんだから――なに、金色の鳥がいたって。ああ、おまえはまったくほんとに愚かなやつだな。ぺらぺらと余計なことばかりしゃべって、あげくに目をふさがれてしまった。そんなことで、どうやって世の中を渡っていくつもりなんだ。

 ああ、でも心配するな。おれがその垂れ幕をひきはがしてやるよ。そうすれば、おまえは今まで自分が為してきたことすべての本当の意味を知るだろう。

 そうだそうだ。もうすぐだ。

 おれがどうして何年も何年も走り続けてきたんだと思う? おまえがずっと俺を呼んでいたからだ。おまえが生きれば生きるほど、おれの力は強くなってくる。ああ、だんだん頭がはっきりしてきたぞ。そこへ行けば、そうすれば……おれはおまえに自由を与えてやれる。なあ、これ以上の贈り物はないだろう。こんなにも気分のいいことなんて、滅多にないぞ。


 私は木漏れ日の下、湿った下草を踏んで歩いている。暑くもなく寒くもない。この森は永遠の春が続いているのだ。ああ、これは夢ね。だって私が歩けるわけはないんだから。

 そうとは知っていたが、自由を取り戻したことはうれしい。私は胸いっぱいに空気を吸い込む。どこかから、甘い蜜のような匂いが漂ってくる。ほんの少しだけ風が吹く。私は温かい空気に包まれた。この森は私を歓迎してくれているのだ。

 しばらく行くと、ぽっかりと開けた場所があった。私はそこで、手をかざして頭上の光を見た。光がきらきらと跳ねている。

 車椅子を使ってたなんて、嘘のよう。不安なんて、塵ほどもない。とてもいい気分。こんなに平穏で満ち足りた気分になったのは、生まれてはじめてだ。今まで起こったことのすべてはどうでもよかったし、気がかりなことは何もない。

 ――森の奥で、何かが動いた。

 目を細めて見ると、それは彼だった。ああ、あなたなの。やっと森にたどりついたみたいね。本当によかったわ――私はそう思いながら、弓をつがえた。

 なぜこんなものが手元にあって、私は弓をひけるのか? それは何ひとつわからない。私には彼を殺す力があり、今はただ、たわむれにそうしたいというだけ。

 彼が殺人を犯した時も、今の私と同じようなことを思っていたのかもしれない。こうするのが最も正しい道なのだと、ただ静かな心でそう思った。それは誰にとっての正しさ? 誰が私を裁く? さあ、わからない。でもあなたなら、きっと理解してくれるでしょう。


 ――いた、おまえだ!

 なぜおれは走り続けていたのか。なぜ何かを求めていたのか――遠い昔、おれはおまえの世界から追いやられた。鳥のやつのせいでな。だけどあきらめるもんか。おれにだって求めるものがあるんだ。おまえが誰かを殺すなら、おれだってそうする。さあ、もう堪忍しろ。

 おれは力いっぱいに跳ね、牙を突き立てる。そして、血の味と共に知った。

 おれがいちばん殺したかったのは、どうしてもそうしたかったのは……おれ自身なのか?


 死が僕に追いついた。

 僕は喉を矢で射貫かれ、濁った炎の色をした犬が僕に噛みつく。鳥の声がした。

「おまえのものを返してやろう」

 猟犬に引き裂かれつつある僕は、梢から流れ落ちる金の光を見る。眼前に何かが広がる。それは僕を覆い隠すようでもあり、また何かの覆いを取るようでもあった。そこには黄金が広がっている。太陽が中天にかかる、真昼の森。木々の間から、光が矢のように落ちてくる。ここは光でいっぱいだ。

 空から、金色の光が降ってくる。鳥だ――僕を惑わし、そして導く鳥だ。僕はいった。「ただいま」鳥は答える。「おかえり」

 

「これでもあなたは世界を肯定するの?」

「もちろん。起こったことはすべていいことだよ」

「あなたは嘘つきよ。あなたほど何もかもうまくいっていない人はいないわ」


 これまで僕は、どこかにある素晴らしい場所を求め続けてきた。でも。それは間違いだったんだ。

 どの世界もこの世界もないんだ。すべては同じだったんだ。誰もが僕に語りかけてくれる場所、思ったことがすぐに跳ね返ってくる場所、阿鼻叫喚と歓喜の歌声が同列の地平線上で生まれるところ――それがこの世界なんだ。

 君にそれを教えてあげたいよ。今の願いは、ただそれだけ。だから僕はすべてを差し出そう。

 それはかつて僕が思い描いた光景だ。森の奥に誰かがいる。そう、女の人だ。彼女はとてもいい気分だ。だって獲物を捕まえられたし、猟犬は忠実だから。その犬をほめてあげるといいよ。とてもよくきく鼻をしているね。

 彼女はすらりとした足で下草を踏み、円を描いて踊る――その踊りはこれから永遠に続く。猟犬は彼女に忠実に仕える。森は茂り、泉はこんこんと湧く。僕はほどなくして土に還る。彼女はこちらへやってくる。僕は君に告げる。

「おめでとう。君はまた踊りはじめるんだ」


 それから私は、二度と彼に会わなかった。理由は簡単だ。面会の後しばらくしてから、彼は自殺したのだ。私は本当の死因を知っている。

 私が弓で射て殺したのだ。彼は森の中、猟犬に引き裂かれて横たわっている。

「心配いらないよ。何もかもうまくいく」

 そうね。何も心配いらないわ。

 彼は言う。起こったことはすべていいことだ――ええ、その通りだったわ。これまで私は、自分をどうしたらいいのかわからなかった。でも私は、踊り方を忘れていただけ。

 私はずっと昔から黄金の森の奥にいた。ただそうと気づいていなかった――ありとあらゆることに意味があり、殺人もその例に漏れない。起こったことはすべていいことなの。

 私は彼の忠告を忘れたくなかった。これが衝撃的な事実の後に起こった、一種の錯乱なんかであっていいはずはない。これは本当にあったことだし、私にとっては啓示でもある。

 だからもし、あなたがあらゆることに望みを抱いていないとしても、打ちのめされたのだとしても、あるいは殺されたのだとしても――起こったことはすべていいことなの。

 あなたはそれに耳を貸さないでしょう、打ち棄てようとするでしょう、私がそうであったように。そして私も、歳月が経つうちに忘れてしまうかもしれない。人間というものは、極度に忘れっぽいものだから。

 でもこれは本当のことなの。ここは完璧な世界で、私たちは素晴らしい人生を生きている――彼はその通りに振る舞った。たとえそれが信じられなくても。

 彼のように、いつかすべてを思い出す時のために。あなたが騙されないように。その垂れ幕を取り払えるように。森への道を見つけられるように。私はこれを記して、あなたへの愛とする。



                               《了》

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永遠の踊り手 猿田夕記子 @tebasaki-yukio

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