第1章 戴冠式【2】
パッと意識が覚醒すると、両手を組んで跪いていた。頭に何かが乗った感覚で顔を上げる。背の高い黒髪の男性が、真紅の瞳を細めて微笑んだ。
「立てるか?」
優しく促されて姿勢を正す。その途端、わっと割れんばかりの歓声が上がった。彼は、聴衆の見上げる舞台に立っていた。
「おめでとう。今日からお前が魔族の王――レクスだ。さあ、民に顔を見せてやれ」
聴衆を振り返る。高らかに両手を叩く者。指笛で盛り上げる者。みな、朗らかに笑っている。見たことのない景色に、ほんの少しだけ心がざわついた。
「新魔王陛下の未来を祝して! 万歳!」
「万歳!」
声を上げる聴衆に、彼はようやく頭の中が澄み渡っていた。
(新魔王、レクス……もしかして、ここって……)
大きな手が肩に触れる。黒髪の男性を見上げると、頭ひとつ分より高い位置に瞳があった。
「戴冠式はこれで終わりだ。王宮に戻ってのんびりするといい」
「……はい」
この男性には見覚えがある。記憶が正しければ、確かにこの世界のことを、彼はすでに知っていた。
* * *
「湯浴みの支度ができたらお呼びしますね」
絹のような金髪をホワイトブリムでまとめた可愛らしい顔立ちの侍女イーリスは、優しく微笑んで寝室をあとにする。残された彼は、さて、と鏡台を覗き込んだ。
鏡に映るのは、肩ほどの長さの浅葱色の髪に、黒に近い紺色の瞳。童顔と体格が相俟ってまだ若い子どものように見えるが、これでも成人している。魔獣が人型に進化した魔族の年齢で考えれば。
(僕は、魔王討伐後の新魔王に選ばれる悪役……リベルだ)
何度も見たからわかる。ここは、亡き姉の遺作となったBLゲーム「暁を呼ぶ子ども」の世界だ。ゲーム自体は完成しておらず開発段階しか知らないが、設定資料で何度も目にした顔である。
(よりによってBLゲームのラスボスになるなんて……)
悪役リベルは新魔王レクスとして魔族の頂点に立つ。この可愛い外見からは想像もつかないほどに性格が歪み、残虐な行いを繰り返すのだ。そうして最後は主人公率いる勇者パーティに討伐される。主人公によって魔族の国は破滅から救われるのだ。
(じゃあ、神の言ってた破滅の大魔王って……)
コンコンコン、と軽快なノックが聞こえるので考えるのをやめる。どうぞ、と応えると、リベルの寝室に顔を出したのは、あの黒髪と赤い瞳の男性だった。
「やあ、私の可愛いリベル。元気にしていたか」
この男性にも見覚えがある。魔族から「キング」と呼ばれる先代魔王だ。しかし、キングは現時点ですでに勇者パーティに討伐されているはずで、先ほど終えたばかりの戴冠式には登場しない。キングが討伐されたため、新魔王レクスとしてリベルが選出されるのだ。
「無事に戴冠式を終えることができてよかったよ」
にこやかに微笑んだキングが肩に手を置いたかと思うと、突如として小さな体を抱え上げた。リベルが目を丸くしているうちに、体をベッドに押さえ付けられる。リベルが何も言えずにいると、キングは朗らかに笑みを深めた。
「これでお前を私のものにできるよ」
一瞬だけ混乱を起こした脳内にその言葉が浸透したとき、リベルは考えるより先にキングの肩を突き飛ばしていた。そのままの勢いで立ち上がると、一目散に寝室を飛び出す。照明を抑えた廊下を、ただひたすら走って行った。
(いやいやいや……いろいろおかしいだろ!)
ゲームには、戴冠式のシーンは確かにあった。だが、その時点で先代王であるキングは勇者に討伐されている。本編には、回想以外にキングの登情はなかったはずだ。
(それより、なんでキングが僕を……)
そう考えた途端、かっと顔が熱くなった。あの行動はきっと、
どこへ行くかもわからないまま走り続けると、次第に肺が苦しくなっていく。速度を緩めた先で目に入ったのは、立派な庭園だった。ちょうどいい、と花壇の隙間に潜り込む。色とりどりの花々が美しく咲き誇る庭園は、この国の権威の象徴のような景色だった。
花壇のあいだにうずくまり、深呼吸を繰り返して肩で息を整える。それから、頭の中でこの世界の情報を整理した。
このゲーム「暁を呼ぶ子ども」は、姉の長篠紫音が原作を務め、紫音はテストプレイヤーとして協力していた。設定とシナリオは完成していたが、ゲームはまだ開発段階だった。姉が「趣味全開だから親には見せられない」と隠し通した作品だ。
じわり、と涙が浮かぶ。姉はゲームの完成を待たずに亡くなってしまった。姉はいないのに、姉の作品は異世界として存在している。なんて虚しいのだろう。
姉に会いたい。なぜそれを神に願わなかったのだろう。それが叶うとしたら、神の力だけだったのに。
「リベル!」
「リベル様!」
焦燥感とともにかけられた声に振り向くと、キングとイーリスが中庭に出て来るところだった。リベルの涙に気付いたキングが、優しく彼の肩に手を添える。
「なぜ泣いているんだ」
気遣わしげな手が頭を撫でる。それでも、涙が止まることはなかった。
イーリスが差し出したハンカチを受け取ろうと手を伸ばした、そのとき――
《 紫音、こっちに来て 》
懐かしい声が頭の中に鳴り響いた。もう一度でもいいから聞きたいと何度、願ったかわからない、あの優しい声。
リベルは咄嗟に駆け出していた。驚くキングの声に引き留められることなく、城の廊下に飛び込む。左耳に鈴の音が届いた。まるで案内しているような音に導かれ、廊下の端の端に到達する。薄暗い廊下の隅で、誰かが軽く手を振った。その人物に、リベルはハッと息を呑む。
「……姉さん……?」
重厚な鎧を身に着けたその女性は、長篠紫音の姉――長篠美緒だった。騎士のような出で立ちだが、その優しい微笑みを忘れるはずがない。
「久しぶりね、紫音。実は、私もこの世界に転生したの」
「……ほんとに姉さんなの……?」
「ええ。長篠美緒よ」
その途端、溢れ出る感情のままに姉に抱き着いていた。いまの身長では首まで届かないが、姉は優しくリベルの頭を撫でる。その手付きは、あの頃と何も変わっていなかった。
「いまはリベル付きの騎士として仕えてるわ。名前はミラ・ローシェンナよ」
年甲斐もなく、声を振り絞りながら泣いた。姉を心から愛していた。姉を看取ったあと、心にはぽっかりと大きな穴が空いていた。もう一度でもいいから会いたいと、何度、願ったことか。
「あんた、馬鹿ねえ。あんたまで死んでどうするのよ」
呆れた声で言う姉――ミラ・ローシェンナは、リベルの肩をぽんぽんと優しく叩く。それにより、リベルはなんとか気分を持ち直した。ミラの差し出したハンカチで乱暴に顔を拭い、それにしても、と顔を上げる。
「どうして姉さんの外見のままなの?」
「こんなこともあろうかと、自分にそっくりなモブを入れておいたのよ」
「どんな備えなの」
いまでは「あり得ないこと」と言えなくなったが、異世界転生などというものが現実に存在することはないと前世では思っていた。それが、いまこうして自分が別人として生まれ変わったこと、同じ外見のままの姉と異世界で再会したことで、事実は小説よりも奇なり、という言葉をしみじみと実感していた。
「僕はこの世界のラスボスってことでいいのかな」
「そうね。将来的にこの国を滅ぼす大魔王になるわ。新魔王として引き継いだ魔力を悪いようにしか使わないのよね」
「原作者がそれを言うの?」
リベルはようやく理解した。この世界のことを説明してくれる「絶対的な味方」は姉――長篠美緒だったのだ。神と同じくらいにこの世界を知っているとすれば、それは原作者である美緒しかいないだろう。
「神には会ったでしょ?」
「うん。細かいことは教えてくれなかったけど」
「そういう契約になっているから仕方ないわね。順を追って話すわ。まず初めに、この世界の実現を望んだ人間がいたの」
リベルは、この世界の実現を望んだ人間がいるとすれば姉ではないかと思っていたが、この口振りからすると、また別の人間が存在していたらしい。
「その人間が新魔王リベルに転生して、この世界を滅ぼそうとしたわ。私がこの世界に転生したのが滅ぶ寸前。神による強制的な転生だったけどね」
ミラは軽く肩をすくめる。ミラもあの少女の声の神とすでに会っていることだろう。姉はこの世界の原作者で、創造主のようなものである。その点において、神と同等の立場と言えるだろう。
「神は自分の作った世界が滅ぼされるのを防ぐために、私を転生させたの」
「じゃあ、姉さんが病気で亡くなったのは、神のせいなの?」
「まさか。さすがにあの神でもそんな非人道的なことはしないわ」
怒りに駆られそうになったリベルに、ミラは明るく笑う。それを確かめる方法はないが、彼女がそう言うなら間違いはないのだろう、と思い直した。
「私はこの世界を作ったひとり。この世界を救えると期待したのね。でも……私だけじゃ力不足だった。それだけリベルの力が強すぎたの」
「そのチート能力は神が授けたものだったんだよね」
「ええ。その力で世界を滅ぼそうとしているなんて思いもしなかったでしょうね。神と私の力で再生に向かわせたのはよかったけど、それ以上に進ませることができなかったの。再生への歯車を回す鍵はあなたの転生。私たちは、それに賭けるしかなかったわ」
リベルは、自分が死を選んだのは神に導かれたのではないか、と考えてみたが、おそらくそれは姉が許さなかっただろう。彼は自らの意思で死を選んだ。それが偶然にこの世界の滅亡の危機と重なっただけで、それはこの世界にとって残された唯一の好機だったのだろう。それで愛する姉と再会できたのだから、転生を叶えた神に感謝するべきだ、とリベルは考えていた。
「それで、僕はどうすればいいの?」
「具体的にどうということはないわね。リベルの中に、世界を再生する核が埋め込まれているの。あなたの転生をきっかけに、神がこの世界に介入しているはずよ。あとは神の仕事ね」
「そう……。じゃあ僕たちは普通に生きていればいいのかな」
「そうね。あなたは、リベルとしての人生を謳歌することが役目、かしらね」
長篠紫音は死んだ。そして、リベルが生まれた。さらに姉との再会を果たした。これほどまでに良いことは、これ以上にはもうないだろう。
「それと、私とリベルは
「そんな便利な設定、あったっけ?」
「いわゆるチート能力ね。だから、安心して新魔王リベルとして生きるといいわ」
そんなことができるのは、おそらく原作者の特権なのだろう、とリベルは考える。原作者というチートが存在しているのは、リベルにとってとてもありがたい恩恵だ。
「あなたが破滅の大魔王になるとは思えないし、なろうとしていても、必ず私が食い止めるわ。まあ、抑制力はあるかもしれないけど」
ミラが、気休めでごめん、と薄く笑うので、シリルは苦笑いを浮かべた。
「とにかく、第二の人生を楽しみなさい」
「……うん」
すべてに失望し、絶望していたあの夕焼けが脳裏から消える日がくることはないだろう。それでも、また愛する姉に会えた。これからの人生がどうなろうと、それだけで充分のようにも思えた。
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