転生したら姉の遺作BLゲーム世界の悪役魔王だったので無限の天啓で魔王国を救います

加賀谷 依胡

第1章 戴冠式【1】

 那珂月なかつき埠頭ふとうを見下ろせる月野宮つきのみや大橋おおはしは、この町の象徴と言われている。海面が遥か遠くに見える頂上は、冷たい風が吹き荒び、海の向こうには高層ビルの電灯が輝いている。まるで世界から孤立しているかのように感じさせる光景だ。

 ――ああ……死にたくないな……。

 ――でも、もう生きていけないな……。

 絶望の淵は深く、満たされない幸福の器は消え失せ、眼前に広がる夕焼けより紅いはずの血潮はすでに意味を為さない。

 在りし日の面影は遠く、命を繋ぎ留める糸は焼き切られた。胸の奥でくすぶる想いの果てに、星屑が瞬く間に堕ちていく。

 ――そうだ……僕、明晰夢ができるし、死後の世界でも夢を見られないかな。

 呑まれるように眠れば、眠るように終えれば、美しい夢に迷い込めるかもしれない。この切望もきっと、海風に掻き消されていくのだろう。

 ――もしそれができるなら、僕の書いた主人公になりたいな。

 ――人から愛されて、チート能力もばんばん身に付けて、無双するんだ。

 ――最期くらい、願いが叶うといいな……。

 そうして、長篠ながしの紫音しおんは最期の一歩を踏み出した。






   ――……






 一面の花畑がくすくすと揺れている。頬を撫でる柔らかな穂先は、慰めるように、はたまた涙を掬うように。微かな歌声が耳元をくすぐる。

『愛してるわ、――。あなたが何者でも、何者でなくても』

 優しい手の温もりが、傷をすべて消し去るようだった。




   ◇   ◇   ◇




 薄っすらと開いた目が眩さに痛む。視界に映るのはただ白の世界。

「おっ、やっと起きたわね」

 優しい少女の声がする。白い影が紫音を覗き込んだ。

「……姉さん……?」

「残念ながら違うわ。ごめんなさいね」

 温かいものが頬に触れるので、ようやく頭が覚醒する。重い体を起き上がらせると、白い影が微笑んでいた。輪郭はぼやけているが、人の形をしている。

 辺りを見回すと、白い影の他には何もない。ただ真っ白な空間が広がっていた。

「ここは……」

「ここは、人間の言葉で言うと『神界』かしら。つまり、神の領域ね」

 紫音の脳裏に、あの夕焼けが浮かんだ。最期の一歩を踏み出した瞬間まで鮮明に思い起こされる。心の中に渦巻いていた記憶さえ。

「そうか……僕は死ねたんだ」

 その事実に、少しだけ安堵していた。あの世界から消えることができたのが、こんなにも嬉しいのだ。

「えっと……きみは……」

「あたしは……そうね。とある世界の神、といったところかしら」

 その声は若い女性のもので、姿は見えないが、紫音のイメージする神とは印象が少し違う。しかし、紫音が生きていた国には八百万やおよろずの神が存在するとされている。想像と差異のある神がいてもおかしくはないだろう。

 死後の世界で神と対面するなど夢見心地な話だが、輪廻転生の間際に空想を見ているのだろう。この時間が終われば、次の生が始まるのかもしれない。

「疑ってるわね。神に会うなんて非現実的にも程があるものね。でも、あなたにある取引を提案したくてここに呼んだの」

「取引……?」

 少女の声の神は白いもやのようで、表情は紫音の目には見えない。それでも、その声はどこか楽しげだった。

「あなたを異世界転移させてあげる。その代わり、あたしの世界を救ってほしいの」

 ライトノベルでよくあるシチュエーションだ。夢であるなら、このまま覚めるのは惜しい。それでも、輪廻転生の間際にこんな心の躍るような夢を見られたのは、得をしたような気分だ。

「世界を救うって、どういうこと?」

「あたしの世界には、先にふたりの人間が転生して来たの。そのうちのひとりは、あたしとあなたの絶対的な味方ね。でも……問題は、もうひとりの転生者よ」

 少女の声に影が落ちる。その真剣な様子に、紫音は首を傾げて先を促した。

「もうひとりの転生者が、あたしの世界を滅ぼしたの。破滅を招く大魔王として」

「大魔王……」

 随分と壮大な話になった、と紫音は小さく息をつく。紫音の世界の物語では、魔王は勇者との戦いの末に討伐される。この神の世界では、魔王が世界を滅ぼしたのなら、勇者は戦いに敗れたのだ。物語であればゲームオーバーからのリトライで終わる。それも、現実世界であればそんな仕組みはあり得ないのだ。

「でも、もう滅んでいるなら救いようがないんじゃないの?」

「その辺りの詳しい話は、あたしの世界に入らないとできないのよ。でも、あたしの世界のことを、あなたはすでになんとな~く知ってるわ」

 少女の声は真剣そのものだ。夢であったとしても、ほんの少しだけ信憑性が出て来たように感じられる。

「あたしの世界には、あなたの絶対的な味方がいるわ。その子が教えてくれるはずよ。詳細が何もわからないままで放り出すのは申し訳ないけど、そういう警戒になっているの」

 この少女の声が本当に神なのだとしたら、その「契約」について紫音が知ることはできないのだろう。そういった「契約」は人には話せない、というのが定石だ。聞いたところで自分には理解できないのだろう、と紫音は考えた。

「あたしの世界はいま、再生を始めようとしているところよ。あなたの魂を送ることで、再生への歯車を回すわ」

「取っ掛かりが必要ってことなのかな」

「ええ」

「僕は何をすればいいの?」

「特にこれと言って」

 あっさりと言う神に、紫音は拍子抜けしていた。そんな紫音の表情に、少女の声はくすりと小さく笑う。

「あなたは第二の人生を楽しんでいればそれでいいわ。あなたの絶対的な味方がそう望んだから」

「絶対的な味方って誰なの?」

「それはあたしの世界に行ってみればわかるわ」

 とにかく取っ掛かりがあればいいということか、と紫音は考える。きっかけさえあれば、あとはこの神が世界を再生することができるのだ。紫音はその取っ掛かりのために転生する。その後の役目はあまりないのだろう。

「申し訳ないんだけど、あたしのチート能力は先のふたりに授けてしまったから、あたしから直接にあなたにあげられるチート能力はないの。ごめんなさいね」

「そう……」

 転生と言えばチート能力。紫音は少しだけ期待していたのだが、転生という稀有な経験をできるならそれで充分という気もした。

「けど、ひとつくらいなら能力を授けられるわ。何か望みはある?」

「うーん……魔法を使えるようになりたいな」

「いいわ。無双できるくらいの魔力を授けてあげる」

 無双も異世界転生には付き物だ。チート能力とは違うようだが、新しい人生で魔法を楽しむことができることには心が躍った。

「あなたの魂の流入で、再生の歯車を回せるはずよ。あとはあたしの役目ね」

「きみの世界は荒れているのかな」

「取っ掛かりができれば、世界の中身も正常に動き出すわ。暮らす分には問題ないはずよ」

「そう」

 この神の世界がどんな世界であるかはまだわからないが、神は「第二の人生を楽しんでいればいい」と言っていた。紫音の絶対的な味方がそう望んだからだ、と。

「あなたの絶対的な味方は、あなたから探さなくても向こうが見つけてくれるはずよ。あなたは、長篠紫音の名を消して、まったく別の者として、自分の望むように生きられる人生を楽しんで」

「……それこそ、僕の望んでいたことだな」

「よかったわ」

 温かいものが手に触れる。両手を包み込む優しい温もりが、新しい門出を祝福しているようだった。

「長篠紫音。あなたにこの世界の命運を託したわ。どうか、あたしの世界を救って」

 体がふわりと浮かび上がる。吸い込まれるような感覚に身を委ねているうちに、白い影が遠くなっていく。心地良い微睡まどろみが、紫音の体を浚っていく。

「また会えたら嬉しいわ」

 温もりが手を離れ、夢に呑まれるように、長篠紫音の意識は溶けていった。




   ◇  ◇  ◇




 とぷん、と水に落ちる感覚で意識を取り戻す。予想外の事態に、肺の中からすべての空気が抜けていった。このままでは息ができなくなる。

 大きな手が襟首を掴んだ。流れに逆らう力強さが、一気に水面へと引き上げた。

『――、しっかりしろ!』

 影が上から覗き込む。短い呼吸を繰り返しながら開いた瞼は、水底へ引き摺り込まれるように閉ざされていった。




『愛してるよ、――。きみが何者でも、何者でなくても』







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