世の中に『正解』はひと握りなもので

 読書をする。咀嚼して、味わって、呑み込む。

 私は自分の読書が絶対に正しいとは思っていないし、先にも書いた通り、百人いれば百人それぞれの読書があって、それで良いのだと思っている。


 そもそも世の中、『正解』が決まっているものの方が少ないものだ。

 私のような職業の者がこれを言うのもどうかという話ではあるが、学校など教育機関で教える『勉強』というものは、そのほとんどがひと握りの『正解のあるもの』だけを教えている。

 世の中、これが正解であると言えるようなものなどないだろう。料理の味付け、人との関わり方、子供の育て方、「コレが百点満点正解です!」と言われるものがあるだろうか。

 ないからこそ人は試行錯誤するし、より良い方法を探していく。そういう試行錯誤するというのが、私は好きなのである。

 ああ今回は上手くいかなかったな。その瞬間もまた私にとって貴重な経験で、何も無駄なことはないのである。失敗したのなら、次は失敗しないように考えればいい。成功したのなら、次はもっとより良い方法がないかを考えればいい。

 そういうものだろうと、個人的には思うのだ。


 私は考え方がどこか脳筋というか、「やってみれば何とかなるだろう」なのである。石橋を叩いて渡るのも大いに結構、それは慎重であり、危機管理という点で素晴らしいことである。ただ私がそうではないだけで、私という人間はある種の無鉄砲とでも言うべきだろうか。

 もちろんこれは人に迷惑をかけないとか、損害を与えないとか、そういう当たり前のことはあった上でだ。他人の迷惑を考えないのは無鉄砲とかそういうのではなく、ただの迷惑な人であるので。


 試行錯誤は楽しい。

 そういう積み重ねの上に自分があるというのも楽しい。

 正解を知りたくて迷うことはあっても、結局は自分で決めて自分の舵取りをして、そして歩く。私はそういう自分のことも好きなのだ。

 他人に「こうすることが正解だ」と言われて迷うこともあるかもしれない。結果が出なくて焦ることもあるかもしれない。

 けれど私はこう思う――でも、私の道は私が歩くことでしか完成しないからな、と。

 迷っても焦っても、何もかもはきっと「いつか」のため。そういう風でいた方が、楽しいではないか。

 小説だってなんだって、巷には「こうしなさい」とか「こうしてはならない」とか、そういうものが溢れている。私はそれにはあえて目と耳を閉ざすのだ。だってそう言っている人は誰も、それを実行した人に対して責任なんて負ってはくれない。

 それなら自分の責任は自分で背負って、自分の決めた道を行く。その方が絶対に楽しいではないか。


 もちろん苦しいこともある。でもそんなときに私は、まるでお守りのようにして本を読むのだ。


 もちろん、正解がただひとつに決まるものも好きではある。

 数学における数式の美しさや、遺伝学における整然とした遺伝配列などその最たるもので、結果私はそれを専門にしていたくらいなのだから。

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