生と死を見つめる静かな眼差し

 吉村よしむらあきらという作家がいる。

 ご存知ない方もいるかもしれないが、『羆嵐』『三陸沖大津波』『関東大震災』『戦艦武蔵』など、数多くの作品を遺した作家である。

 今度『雪の花』が映画化されるということで、私は密かに楽しみにしている。


 私が吉村昭作品に最初に触れたのは、いつだっただろうか。おそらくは中学に入りたてくらいの頃か、もしくは小学校高学年の頃か。ともかくそれくらいの時期であったことは確かである。

 最初に読んだのが、『冬の鷹』であった。

 これは、『解体新書』を翻訳した前野まえの良沢りょうたくを描いた作品である。歴史の教科書にその名前はあれど、杉田すぎた玄白げんぱくほど知られていない、そんな人物の生き様であった。

 それから『破獄』『海も暮れきる』などを読み、すっかり吉村昭作品に魅せられた私は、祖父の家にずらりと並んでいたそれを片っ端から読んでいったわけである。


 おそらく『戦艦武蔵』などの戦記文学が有名だろう。

 史実を徹底的に調べ、そして小説として完成させていく。その文章は静かで、整い、そして私個人としては非常に読みやすい。戦記文学と書くと難しいことばが多いように思われるかもしれないが、そんなことはない。


 さて、ではこの話のタイトルにもした眼差しの話をしよう。

 吉村先生の作品は、静かなのである。生と死、それを静かに見つめ続けているようなのである。特に純文学の作品に顕著だろうと思うのだが、緻密な描写も相俟って、本当に静かに人の生と死を見つめているようなのだ。

 例えば、『少女架刑』という短編がある。この短編の語り手である少女は、既に死んでいる。その死んだ彼女の遺体が解剖され、最後には骨となる。その様を、自分が死んだ後のことを、少女は静かに見ているのだ。

 何か劇的なことがあるわけではない。ただ静かに、人の死を見つめる。

 これは先生が生死の境をさまようほどの大病を患ったからであったのか、先生から答えを聞いたわけではないから分からない。ただ本当に、静かに、静かに――ある意味でこの眼差しは、戦争を描くときでも変わっていないように思う。

 押し付けるわけでもない。我を出すわけでもない。ただあるものをあるがままに、静かに静かに描く文章が、私にとっては何よりも尊いものに思えたのである。

 生と死、生まれた以上死は避けられない。避けられないそれを悲観でも達観でも諦観でもなく、静かに見つめる。不変の真理を真摯に描くというのが文学のひとつの面なのだろうなと思う次第だ。


 それから忘れてはならないのは、エッセイである。

 このエッセイのタイトルは、吉村先生のエッセイを参考にしてつけてみたものである。とはいえ先生の『私の好きな悪い癖』のようにはいかない。ところで悪い癖と聞くとついどこかの「僕の悪い癖」と言う警視庁の警部殿が脳裏をよぎるのだが、その話はまたいずれしたい。今すると話が逸れてしまう。

 エッセイを読むと、吉村先生のお人柄も伺える。エッセイがあったからこそ、より一層私は吉村昭という作家を敬愛するに至ったのかもしれない。


 いつも何かに迷ったとき、どう書いたら良いか分からなくなったとき、私は吉村先生の作品のところに戻ってくる。真似をするわけではない、先生の文章は先生のものであって、真似たところでそれは別物になってしまうからだ。私は私の文章で、けれど誰に押し付けるでもなく、ことばを綴っていく。

 ただその中に、先生のような静けさがあれば良いと願って。

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