第9話本能
ララの体が急激に変化し、ワーキャットとしての「本能」の姿が現れ始めた。全身の毛が逆立ち、猫のような鋭い爪が伸び、牙がむき出しになった顔つきはもはやララの面影すら感じさせなかった。手足も獣のように変わり、彼女は四足で地面を踏みしめた。
「……これが、本能に支配されたワーキャットの姿……」
ルリは震えた声でつぶやいた。その姿は、かつてルリ自身が恐れ、理性で抑え込んできたものだった。
赤いオーラがララの体から漏れ出し、癒しの力が攻撃的な波動へと変わっていく。
「どうして……ララ……?」
ルリは必死に問いかけるが、ララはもはや答えることはなく、ただ荒々しい息を吐きながら、鋭い赤い瞳でルリを見つめていた。かつては純粋だったララの緑色の瞳は、今や怒りと復讐心に燃えているように見えた。
「これが……本能……?そんなものに、なりたくはなかった……!」
ルリは自らの本能を抑えてきた理由を再確認し、恐れを感じながらも、ララを止めなければならないという焦燥感が募っていた。ララが一歩踏み出すと、四足で地面に爪を立て、次の瞬間にはルリに襲いかかろうとしていた。その姿を見ていた女神は、先程までの怒りに満ちた表情は消え去り、一気に満面の笑顔に変わっていた。
「そうそう、こういうのが見たかったのよね〜。素質がありそうなルリは使い物にならなかったけど、まさかあの天然お嬢ちゃんが本能に目覚めるなんてね。意外だったわ」
この姿を見て満足したのか、震えて後退りしているルリに指示を飛ばす。
「いい物見せてもらったし、心の中から無事に戻って来てね〜」
女神はすっかり明るい声色に戻っていた。それを聞いたルリは、内心でこう思った。
“いや、本気で無事に戻って来て欲しいなら強制的に戻すこともできるはずだ。それをしないってことは、ここでやられてもやむなしってことよね…”
ここから出るには集中し直さないといけないが、目の前のララがそんな時間をくれるとは思えない。ルリは焦り、好きあらば自分に襲いかかってくるだろうとララの動きを警戒していた。
ララは、ルリのことを完全に「獲物」としか認識しておらず、お尻を振りながらいつでも飛びかかれるような態勢を取っていた。ルリは後退りしながら、なんとか回避策を考えていた。
“一度でいい……一度でもいいから……回避できれば一気に距離を取ってここから出られる……!”
そう考えたその時、ララの姿が忽然と消えた。
“え……!?”
次の瞬間、ルリの左横腹に激しい痛みが走った。一瞬のうちに鋭い爪で切り裂かれたのだ。衣服は爪の一撃によって裂け、その場に蹲ってしまう。血がぽたぽたと地面に落ち、立ち上がることすらままならなくなっていた。
“これで終わり……”
そう思った矢先、背後からフーフーと荒い息遣いが聞こえ、右横からララの鋭い爪が顔に向かって襲いかかってきた。意識も朦朧とし、抵抗する力も失いかけていたルリは、すでにぼろぼろの状態だった。ララは獲物で遊ぶかのように、何度も両爪でルリを転がし、その度にルリの体に深い傷が増えていった。
“もう、いっそのこと……一撃で仕留めて……無理か、猫だもんね……”
力尽き、何もできずに倒れ込んだルリは、全身血まみれの状態で死を覚悟していた。だが、ララは全く動かなくなったルリに飽きたのか、口で咥えると無雑作に放り投げた。
ルリは雑巾のように転がされ、意識を集中させて精神を元に戻すことに成功する。
一方、ララも獲物が消えたことには特に執着を示さず、毛繕いをしながら「うみゃ?」と軽く声を上げるだけだった。ルリが目を覚ますと、全身が切り裂かれた感覚と激痛が走ったが、肉体的には何の傷も残っていなかった。
「あら〜、無事に戻れてよかったですね〜♪」
呑気な女神の声が耳に届いた。ルリがその声の方へ顔を向けると、女神は何の気もなく、スカートが乱れて片膝を立て、足を広げて座っていた。彼女の無防備な姿は、逆に神としての圧倒的な自信を感じさせた。まるで周囲のすべてが些細なことに過ぎないかのように、無頓着な態度が際立っていた。
「女神様……見えてますよ……」
逆に恥ずかしくなり、ルリは思わず目を背けたが、女神は気にもせず笑顔で言ってくる。
「別に気にしてませんよ〜」
「いえ、こちらが気にします……」
ため息をつきながら返答するルリだが、すぐに話を切り替えた。
「そんなことより、ララの試練はどうなりますか?」
女神はしばし考えてから答える。
「う〜ん、いいもの見せてもらったので今回は合格です」
「そうですか……え? 今回は?」
「そう、ルリさんも頑張ってくれたので、今回はお咎めなしです。でも次は精神世界じゃなく、くるみさんの心を壊しに行ってくださいね♪」
その呑気な声の裏に、絶対的な命令が隠されていることをルリは悟った。
「……はい。どっちにしても、復讐するべき相手ですし、二度と修復できないぐらい粉々にします……!」
「はい、それでよし。ただし、すぐに壊されては面白くないので、一ヶ月ほど泳がせてください」
「え? なぜですか?」
「人間になったララちゃんがどう暮らしていくか見てみたいんです♪ ほら、私も好奇心が旺盛だから〜。任務よりも面白いでしょう?」
女神は心底楽しんでいるようで、ルリは半ば呆れたように答えるしかなかった。
「……分かりました」
「それより、ララはどうなっていますか?」
「そういえば……」
女神は立ち上がり、心の中の映像を映し出す。画面には、獲物がいなくなったためか、ララが両腕を伸ばし、股を広げて無防備に眠っている姿が映し出された。
「結構大胆ですね」
ルリは苦笑しながらつぶやいた。
「次第に元の姿に戻っていくようですね」
その姿を見て、ルリは感心した。
「あれは未熟なだけですよ。自分の意思で戻すこともできるはずです」
女神は冷静に言い放つ。
「ちょっと厳しいですね……」
ルリが思わず口にすると、女神はスルーし、また映像に目を戻した。元の人の姿に戻ったララは、目を覚まし、あたりの様子に驚いていた。周囲には血が飛び散り、地面はボロボロになっている。
ララはあたりを見渡すが、ルリの姿はなく、代わりに幼いくるみと子猫のやりとりが繰り広げられていた。それを見て、ララは試練のことを思い出し、くるみの元へ行き、子猫を抱きかかえる。
「この子はちゃんと私が面倒を見ますから、安心してくださいね」
そう伝えると、くるみは「お姉ちゃん、本当? じゃあルリちゃんのこと、ずっと大事にしてね」と伝え、去っていった。
「え? ルリちゃん……!?」
ララは驚くが、その後、くるみの現在の姿が映し出され、ララの精神も元の体に戻った。
一方、ルリはその場を立ち去ろうとしていた。
「あら〜、戻ってくるのに待たないの?」
女神が不敵に笑いながら問いかける。
「いえ、結構です。あんなおかしなシーンを見せられても納得できません。あんな綺麗な別れじゃないし、あんな綺麗事で終わらせられても、あたし自身何も解決していない!」
ルリは怒りを露わにしながら、ドアを強く閉めて立ち去った。
「あらあら〜、お気をつけて〜」
女神は不敵に笑い、軽く手を振って見送っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます