第63話 夏祭り
実家での時間はあっという間に過ぎていき、残り数日となった。
今日は、最後のイベントに参加する日だ。
目の前の鏡には、浴衣を着た大学生が映し出されている。
しっかり用意出来た事を確認し、リビングにいる父さんに見せた。
「どうかな、父さん」
「似合っている。着付けの仕方は忘れていなかったようだな」
「一年以上着付けしなかったから、結構怪しかったけどね。後は乃愛だな」
「女性の準備は時間が掛かる。瀬凪はどっしり構えて待っていればいい」
「分かってるよ」
待つ事に不満はないし、むしろ後の事を想像出来るのだ。いくらでも待てる。
そうしてリビングでのんびり過ごしていると、乃愛が顔を見せた。
「えと、どうでしょうか」
頬を赤らめながら乃愛がはにかむ。
藤色の浴衣がお淑やかな雰囲気を出し、下手をすれば地味になってしまう印象を紫陽花の柄が消している。
腰まで伸ばしている黒髪が纏められているからか、可愛らしくはあるものの、普段とは全く違う印象だ。
「似合ってる。すっごく可愛い」
「良かったです。瀬凪さんも似合ってますよ」
「ありがとな。それじゃあ行くか」
「はい」
数日前に四人で浴衣を買いに行って正解だった。
乃愛の褒め言葉に頬を緩め、彼女の手を引いて玄関に向かう。
父さんに車を出してもらい、そう時間を掛ける事なく目的地に着いた。
「帰りたくなったら連絡するんだぞ」
「ありがとう、父さん」
「ありがとうございます」
「ではな」
父さんを見送り、乃愛と二人きりになった。
彼女が蒼と黄金の瞳で、目の前の光景を見つめる。
「祭りとは聞いてましたけど、こんな感じなんですね」
「田舎だからな。規模が大きくないのは、ごめん」
少し大きい公園を使っての、地元だけで開催される祭り。
公園の中心に出し物用のステージがあり、外側に屋台が並んでいた。
とはいえ大賑わいしている訳でもなく、多少人が居る程度だ。かなり昔に参加した時より、人が減っている気がする。
落胆させてしまったかもしれないと謝罪すれば、乃愛が大きく首を横に振った。
「謝らないで下さい。祭りに行くのが初めてなので、新鮮なだけですから」
「そっか。一緒に行ける彩乃さんは、仕事が忙しいもんな」
「それもありますけど、祭りに行けるような歳になる頃には、瞳の事で人見知りになってましたので」
「成程な。なら今までの分、今日は目一杯楽しもうな」
初めての祭りなのだ。乃愛にはいい思い出を作って欲しい。
手を差し伸べると、小さな手が握り返してくれた。
「はい。瀬凪さんと一緒なら、凄く楽しめると思います」
乃愛の手を引き、まずは屋台で腹を膨らませる。
食べ物を買う時に微笑ましい目で見られたので、どうやら仲の良い兄妹に見られているらしい。
「はい、瀬凪さん。あーん」
「あーん。……ん。屋台の飯って、普通の物より美味しく感じるんだよな」
乃愛が食べさせてくれたのは、至って普通のフランクフルトだ。
同じ大きさには出来ないだろうが、やろうと思えば家でも作れるだろう。
不思議に思えば、乃愛も可愛らしく小首を傾げる。
「ですね。何ででしょう? 値段を高くしてるから、良いものを使ってるんでしょうか?」
「流石にそれは無いな。身も蓋も無い事を言えば、雰囲気代だろ。あの焼きそばが良い材料を使ってるとは思えないし」
「ふふ、確かにそうですね」
焼きそばの屋台に視線を移した乃愛が、苦笑気味に笑った。
そのまま俺が食べたフランクフルトに齧りつく。
普通に食べているはずなのに、妙に色っぽく見えるのは何故だろうか。
「なあ乃愛。それ、俺を誘惑してる訳じゃないよな?」
「まさか。でも瀬凪さんがして欲しいのなら、誘惑しましょうか?」
「止めてくれ。乃愛が本気でやると、他の男も釣られそうだ」
「はぁい。ふふ、私が普通に食べてるだけなのに誘惑されたと思ったなら、瀬凪さんは順調に私に染まってきてますねぇ。若しくは暫く
「祭りの最中に言うんじゃない。……溜まってるし、順調どころか既にどっぷりだけどさ」
乃愛が艶のある笑みを浮かべて小首を傾げる。
食べる姿だけでなく、そんな些細な仕草でも性的なものを感じてしまうのだ。
帰省してから発散してないせいでもあるが、既に俺は手遅れなのだろう。
あるいは、手遅れにされてしまったのか。
それは全く後悔してないが、祭りの最中に誘惑されては大変だったので、未遂に終わって良かった。
ホッと胸を撫で下ろし、腹を膨らませる。
その後は数少ない遊べる屋台で、射的やヨーヨー釣りを楽しんだ。
「何か、あっという間でしたね」
休憩の為に公園の端に寄り、乃愛がぽつりと呟いた。
「田舎の祭りだからなぁ。楽しめたか?」
「はい。私はこういう祭りが合ってるのかもしれません。人が多すぎるのは、ちょっと……」
俺と乃愛が住んでるマンションの近くにも祭りはあるだろう。
けれど、その祭りは間違いなく今より人が多い。
ショッピングモールでのデートに慣れた乃愛でも、参加したくないようだ。
形の良い眉がへにゃりと歪んでいる。
「だよな。俺としても、乃愛と
「そうですね。瀬凪さんと逸れちゃったら大変です」
小さな笑みを零しつつ、乃愛がぼんやりと祭りを眺める。
澄んだ蒼と黄金の瞳が祭りの光に照らされて、吸い込まれそうな程に美しい。
「そう言えば、瀬凪さんの同級生に会わないですね。もしかしたら会うかもと思ってたんですけど」
「俺のように上京したんだろ。それに、父さんと母さんを馬鹿にされてから祭りに参加しなくなったし、会ったとしても忘れられてるだろうな」
会いたいとは思わないし、会った所で何を話せばいいかも分からない。
そもそも、名前すら忘れてしまった人達だ。今更興味など無い。
「俺にとっては昔の同級生よりも乃愛の方が大切だよ」
「ふふ、ありがとうございます」
淡く笑った乃愛だが、その笑顔に陰りがある気がする。
何か悩みを抱えているのではと不安になり、口を開こうとした。
しかし、俺よりも先に乃愛が言葉を紡ぐ。
「誰もが別れる不安を抱えながら、恋人と一緒に居る。瀬凪さんはそう言いましたよね?」
「ああ。今も俺は不安を抱えてるよ。乃愛だってそうだろ?」
「はい。でも私の不安は、それだけじゃないんです」
「それだけじゃない? 他に何かあるのか?」
素直に尋ねれば、蒼と黄金の瞳が俺をジッと見つめた。
その瞳の中には諦めや不安、様々な感情が渦巻いている気がする。
「私と瀬凪さんの年齢差は変わりません。どうやっても、私は瀬凪さんの後を追い掛けるしかないんです。……置いて行かれそうで、怖いんですよ」
ぽつりと呟かれた言葉に宿る思いは、俺と乃愛が付き合っている限り、取り除く事が出来ないのだろう。
けれど、寄り添う事は出来る。乃愛が俺にしてくれたように。
「どれだけ言葉を口にしても、乃愛の不安は消えない。でも、俺は絶対乃愛を置いて行かないからな」
「……はい」
「それにな。俺はずっと、乃愛に引っ張られてきたと思ってるんだ。置いて行かれるとしたら俺の方だよ」
俺が元恋人に振られて傷付いている時も。親しい人が離れて行くと怯えていた時も。
そして恋人になってからも、ずっと乃愛が俺を引っ張ってくれた。
こんなに素晴らしい恋人を置いて行くなど有り得ない。
美しい黒髪を撫でながら笑むと、乃愛が小さく首を振った。
「そんな事、しません」
「分かってるよ。でもやっぱり不安だ。お互いに、な」
「そう、ですね」
「だから、約束しよう。とは言っても祭りの端っこで言うのも何だしな……。そうだ」
頭に閃いた事を実践すべく、スマホを取り出して連絡した。
突然の俺の行動に、乃愛がきょとんと呆けている。
「祭りを実家での最後のイベントにしようと思ったけど、もう一つやっていいか?」
「え? は、はい、大丈夫ですけど……」
「よし。なら一先ず帰ろうか。父さんには連絡したから、すぐに来ると思う」
「はぁ……」
訳が分からず曖昧な返事をした乃愛の手を引き、祭り会場を後にするのだった。
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