第43話 暴走と寝過ごし

「ふふふ……」


 ようやく。ようやくこの時が来た。

 瀬凪さんの服も纏めて洗濯する事になり、今日はその第一号が乾く日だ。

 天気は快晴。晩ご飯の買い物は不要。瀬凪さんが家に来るまでの時間もある。

 となれば、楽しむのは必然だ。口から勝手に笑い声が漏れるのも仕方がない。


「まずはいつも通り、そう、いつも通り。ここで慌てるな、私」


 ベランダに出て、洗濯物をリビングに放り込む。

 瀬凪さんの服にも当然触れるが、ここは理性を働かせなければ。

 とはいえ自分とは違う男性用の下着には、どうしても目が惹き付けられてしまう。


「ホント、男の人の下着って不思議だなぁ……」


 当然ながら干す際にも見ているので、今更慌てはしない。干す際は盛大にテンパってしまったが。

 あの時の私を瀬凪さんに見られなくて、本当に良かった。

 まじまじと見つめていたが、時間を浪費する訳にはいかないと、理性を取り戻して全ての洗濯物を取り込み終えた。

 私の服はきちんと畳んで自室にしまい。瀬凪さんの服だけが残る。


「……さて、やりますか」


 そっと瀬凪さんの服を掴み、鼻に当てて思い切り吸い込んだ。

 途端に鼻腔を通る瀬凪さんの匂い。同じ洗剤を使ったせいで匂いが消えてしまうのではと不安だったが、杞憂だったらしい。

 落ち着くようで、それでいて心臓の鼓動を乱す匂いは、他に例える物が見当たらない。


「はふぅ……しあわせぇ……」


 本当ならば、洗濯前の服をこうしてみたかった。

 瀬凪さんの汗がたっぷり染み込んだ服を。そして、下着を。

 流石にそれは変態過ぎると判断して辞めたが、今の状況も大概だろう。

 そう頭の冷静な部分が囁くが、残念ながら私の意思は全て欲望に押し流されている。


「これが毎日とはいかなくても、かなりの頻度で出来る……! 提案して良かったぁ!」


 瀬凪さんは申し訳なく思っていたようだが、そんな感情は抱かなくていい。

 何せ、最初から欲望まみれ――それどころか欲望しかない――提案だったのだから。

 胸を満たす心地良さに溺れていると、体の中心に熱が灯る。


「…………ちょっとだけなら大丈夫だよね。瀬凪さん、まだ来ないし」


 思春期真っ盛りの中学生となれば、異性に興味を持つのは当たり前だ。当然、その先に興味を持つのも。

 だからこそ瀬凪さんを誘ったのだが、残念ながら乗ってくれなかった。

 となれば、これで発散するしかない。いや発散したい。

 そしてこんな事をするのは、誘いに乗ってくれなかった瀬凪さんが悪いからだ。

 もう止まる事など出来ず、体に指をわせるのだった。





「……はっ!? 今何時だ!?」


 突然意識が浮上し、慌てて時刻を確認する。

 普段なら杠家に行く時間をとっくに過ぎており、夕暮れの光が群青に染まり掛けていた。


「しまったなぁ……。仮眠のつもりだったのに……」


 別に乃愛と詳細な時間を約束してはいない。それでも、罪悪感が沸き上がる。

 スマホとキーケースを掴み、急いで家を出た。

 鍵を差し込んで杠家の扉を開けると、リビングから「はえっ!?」と素っ頓狂な声が聞こえてきた。


「ごめん乃愛! 爆睡してた!」


 普段とは違う時間に、勢い良く玄関が開いたのだ。驚くのは当たり前だ。

 取り敢えず謝ろうと、靴を脱いでリビングに向かう。

 到着する直前で「ちょっと待って下さい!」と悲鳴のような声が聞こえたが、一足遅かった。

 目に入ってきた光景に、思考がフリーズする。


「……」

「あの……。その……」


 リビングの床に俺の服が散らばっているのは何も問題無い。逆に、それ以外に問題があり過ぎる。

 キャミソールとショートパンツが乱れているせいで、ばっちり見えてしまっている真っ白な下着。

 その下着も本来の役目を放棄し、体の上下にある見せてはいけない場所が露わになっていた。

 更には何かで濡れた指が、部屋の照明を受けて妖しく光っている。

 この光景を見て、乃愛が先程まで何をしていたのか分かった。分かってしまった。


「…………取り敢えず、家に帰ってようか?」

「ぉね、がぃ、ひま、すぅ…………」


 今にも火が出そうな程に、顔を真っ赤にしている乃愛。

 彼女の顔に何も反応せず、くるりとUターンして玄関から外に出る。

 ぱたりと扉を閉めた後、扉越しにすら微かに悲鳴が聞こえた。

 それを無視し、水樹家に戻ってソファに沈み込む。


「俺の考えが甘かったか……。中学生って進みすぎだろ」


 付き合った初日に、いつでも手を出して良いとは言われていた。

 しかし、まさかあんな事をする程に興味があったとは思わなかった。

 深い反省だけでなく、今時の中学生に心の底から感心する。

 同時に先程の光景を忘れようとするが全く忘れられず、何とかしなければとトイレに向かった。

 その後、ソファで呆けているとスマホに乃愛からの連絡が入ったので杠家に戻る。

 玄関に入るが乃愛は迎えに来ず、リビングの床に正座していた。


「この度はあんなはしたない姿を見せてしまい、申し訳ありません」


 綺麗な土下座を披露ひろうする辺り、かなりの罪悪感を抱いてるらしい。

 一先ひとまず体勢を変えさせ、俺もリビングの床に座り込む。


「俺の方こそごめん。もっと気を付けて入ってくれば良かったし、起きた時点で連絡すべきだった」

「瀬凪さんは悪くないんです。私が悪いんです……」


 俺に見られた事が余程ショックだったのか、乃愛ががっくりと肩を落として落ち込んだ。

 怒ったり嫌ったりはなさそうで一安心だ。


「瀬凪さんの匂いをもっと嗅ぎたいからって、洗濯物を引き受けたのが悪いんですぅ……」

「え、そういう理由だったのか?」

「はぃ。それでその、魔が差しまして……」

「抑えられなかったと」


 こくり、と乃愛が無言で頷く。

 肩を縮こまらせている姿は、これから怒られるのに怯えているようだ。

 この様子だと、まずは誤解を解かなければ話が進まない。


「分かった。びっくりはしたけど、怒ってないよ」

「ホント、ですか? 嫌いになったり、しませんか?」

「しないって。まあその、乃愛にもそういう欲があるんだなって、理解した」

「…………ありますよぅ。滅茶苦茶あります」


 俺が怒ったり嫌ったりしないと分かって安心したのか、乃愛が両手の人差し指を合わせていじけだした。


「なのに瀬凪さんはいつ手を出してくれるか分かりませんし、下手したらお母さんが禁止するでしょうし」

「それは……」

「だったら、これくらいしてもいいじゃないですか。私だって思春期なんですよぅ……」


 どうやら乃愛の暴走は、彩乃さんに対応をぶん投げる俺のやり方が原因だったらしい。

 罪悪感に胸を刺されると同時に、蒼と黄金の瞳がじとりと俺を見つめる。


「そりゃあ私は中学生ですし、世間的に見ればるのは早過ぎます。でも、それで納得したくありません」

「そう、だよな。でも、やっぱり今すぐには手を出せない」

「……ですよね」


 どうしても、俺と乃愛の関係には年齢が付きまとう。

 けれど、そんなの知った事かと常識から外れるのを分かって、乃愛と付き合ったのだ。

 ある意味切実な悩みには、俺もしっかり向き合うべきだろう。


「だから、彩乃さんに俺達が付き合った事を報告するのに合わせて、相談するんじゃなくて許可を貰おう。それまでは、乃愛には悪いけど駄目だ。これは譲れない」

「…………分かりました。じゃあ、意地でもお母さんに許可して貰います」


 彩乃さんに報告する際、乃愛がそういう話に意地でも持って行くとだけ決めていた。

 つまり、許可に関しては完全に彩乃さんに任せる形になっていたのだ。

 それを変えるのはここが限界だ。後は何を言われても許可を貰うしかない。

 覚悟を決めつつ、蒼と黄金の瞳に暗い光を帯びさせる乃愛をなだめ、いつも通りの生活に戻るのだった。

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