第38話 思い出と化した人
乃愛が前髪を切った数日後。
翼と話しながら講義の開始を待っていると、元恋人が教室に入ってきた。
暫くぶりに見た気がする彼女は、きょろきょろと教室内を見回して一人の男性へと近付く。
その男性の容姿を不思議に思い、首を傾げた。
「あれ? あいつじゃないんだ?」
「あいつって?」
「俺を振った時に隣に居たやつ。てっきり今も付き合ってると思ったんだけど、違うのか?」
「ああ、あいつか。又聞きだけど、別れたんだとさ」
「へー」
別れた事にもっと何かしらの感情を抱くかと思ったが、心の中は
それを翼は察したのだろう。嬉しそうに頬を緩める。
「どうでもよさそうだな」
「実際、ホントにどうでもいいんだ。あいつが何をして、誰と付き合って、誰と別れても何も思わないよ」
下手をすれば無情とも思える言葉。だが、俺と元恋人との縁は切れたのだ。
興味のない人に対しての反応などこんなものだろう。
俺の発言に翼が笑みを深める。
「そっか。もうあいつの事は、完全に思い出になったんだな」
「思い出に、か。……そうだな。乃愛と出掛けた時も、あいつより乃愛の方を気にしたっけ」
少し前から、元恋人を普段の生活の中で思い出す事は無くなっていた。
ふとした切っ掛けで思い出した時は、振られた事実よりも別の事で胸が一杯だった。
その時点で吹っ切れたと思っていたが、今日この場で元恋人を見て、翼の言葉を強く実感出来た。
どれだけ元恋人との出来事を振り返っても、俺の心は傷付かない。
「あいつの事を思い出して嫌な気分になるんじゃなくて、杠の為にか」
「ああ。そういう風に変われたのは、乃愛のお陰だよ」
「順調そうで何よりだ。比べるのは意味がないが、似たような立場としては嬉しいよ」
「似たような立場か。ありがとな、翼」
「いいって事よ」
翼や莉緒との勉強会が無ければ、乃愛との関係は進まなかっただろう。
心の底からの感謝を送れば、ひらひらと手を振って気にしていないとアピールされた。
親友の態度にくすりと笑みつつ、心の中で決意する。
(乃愛を待たせるのは、もう終わりだ)
元恋人に対しての感情がこんなに変わったのだ。
ひたすらに好意を向けてくれる乃愛と、大切な人が離れて行くかもしれないと怯える俺の関係。
それを変えなければではなく、変えたい。
心に恐怖を抱えながらも、自然とそう思う事が出来た。
「なら、今後の話をしようぜ!」
「今後?」
「おうよ。瀬凪と杠の事には変に首を突っ込むつもりはない。あ、困った時は頼って欲しいけどな」
「分かってる。その時は遠慮なく相談させてもらうよ。それで?」
「もう少しで夏休みだろ? 偶にでいいから、一緒に遊ぼうぜ」
「あー、そっか。もうそんな時期か」
大学生の夏休みは、中学生や高校生よりも長い。
遊び惚ける人、バイトに精を出す人、真面目に勉強する人と様々だ。
今年は何をするか全く考えてなかったが、間違いなく乃愛と一緒に行動するだろう。
「そうだな、遊ぶか。莉緒が言ってたように飯も食べに来ていいぞ」
「マジで!? いやー、莉緒が杠の料理を食べたいって言うんだが、二人の状況が状況だから遠慮してたんだ」
「変な遠慮なんかするなよ。普通に食べに来ていいから。多分、乃愛も喜んでくれるぞ」
「さんきゅー! それと、もう少しで瀬凪の誕生日だけど、今年はどうする?」
「そう言えば俺の誕生日が近いんだったな……」
乃愛との関係が充実し過ぎていて、自分の誕生日をすっかり忘れていた。
去年は何とか時間を作り、俺の家で翼や莉緒も招待してはしゃいだ。勿論、元恋人も一緒に。
今年も同じようにしてもいいが、俺と乃愛の二人きりで過ごしたい気持ちもある。
「ちょっと乃愛と相談させてくれ。もしかしたら別の日に来て貰う事になるかも。その時はすまん」
「おっけぃ。もし瀬凪の誕生日にお邪魔させて貰っても、今年もきちんと二人の時間は邪魔しないように退散するから、そこは安心してくれ」
「ありがとよ。気配りが出来る友人が居て幸せだ」
遠慮なくいちゃつけと言外に告げた翼。
その際に関係を進めろという事かもしれないが、そこまで引き伸ばすつもりはない。
とはいえ気配りは嬉しいのでお礼を告げれば、翼がからからと笑った。
「任せてくれよ。去年は二人きりになっても手を繋ぐだけだったんだっけ?」
「おう。あの頃は付き合ったばっかりだったからな。それ以上は出来なかったんだよ」
「大学生にしては清いお付き合いだったよなぁ」
「バイトで忙しいのを清いお付き合いと言うか? ま、今ではそれで良かったと思ってるよ」
「その心は?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら質問する翼。
答えは分かっているはずなのに、あえて突っ込むその姿に僅かながら苛立ちが沸き上がった。
露骨に嫌そうな顔をするが、それでも決意を言葉にするために口を開く。
「初めてはあいつじゃなくて、乃愛がいいからな。……そういうの、多分乃愛は気にするし」
「あっはっは! いやぁ、瀬凪がそこまで言うとはな!」
それなりに大きな声で笑う翼に、近くで講義の開始を待っていた人が迷惑そうな顔をした。
笑いながらも翼はきちんと謝罪し、すぐに優しく目を細める。
「ホント良かったよ。安心した」
「心配掛けたな。すまん」
「いいっていいって。…………因みにだけど、今の段階で手を出すのか? それとも高校生とか大学生になるまで待つのか?」
流石に乃愛の年齢が年齢なので、音量は抑えてくれた。
しかし内容があまりに下世話過ぎたのと、乃愛に手を出すタイミングをあえて深く考えてなかったせいで言葉に詰まってしまう。
「…………」
「一応忠告しとくが、今の段階だと犯罪だからな? いやまあ俺は杠が納得して、瀬凪が捕まらなかったら別にいいとは思うけど」
「……分かってる。というか、味方してくれるんだな」
「俺は高校生と付き合ってる微妙な立場だしな。つーか誤魔化すな。悩むからって絶対考えないようにしてただろ」
「…………ああ。どうしよう」
どうやら、前に進むと決めても順風満帆とはいかないらしい。
頭を抱える俺を見て、翼が呆れた風な溜息を漏らす。
元恋人の事は、すっかり頭から抜け落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます