第11話 うっかり

「ふぅ……。疲れた……」


 バイトを終えて自宅に辿り着き、溜息を落とす。

 以前より時間は減っているが、働いているのだ。どうしても疲れてしまう。

 いつもならこういう時はコンビニ弁当で晩飯を済ませるのだが、今日からは違う。

 下着を含む着替えを持ち、隣の家へ向かった。呼び鈴を鳴らせば、昨日と同じく軽い足音が耳に届く。


「はーい。こんばんは、瀬凪さん。バイトお疲れ様です」

「……こんばんは、乃愛ちゃん」


 自分から望んでバイトをしているが、こうして誰かに迎えられ、そして労われると胸が温かなもので満たされる。

 思わず手を伸ばし、美しい黒髪に触れた。


「ありがとう。元気になった」

「は、はい? 私は何もしてないんですけど……」

「してくれたよ。ホント、ありがと」

「はぁ……」


 僅かな言葉だけで人を喜ばせる事が出来るのだ。俺も、乃愛ちゃんが頑張った時には労いたい。

 困惑を露わにしつつも、撫でられるがままになっている乃愛ちゃんの頭から手を離す。


「いきなりでごめんね。それで、上がっていいかな?」

「勿論、上がってください。それに、謝る必要はないですよ」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。お邪魔します」


 リビングに辿り着くと、乃愛ちゃんは先程まで作業していただろうキッチンに戻った。


「晩ご飯はもうちょっと掛かるので、瀬凪さんはお風呂をどうぞ。私は入っちゃいましたので」


 乃愛ちゃんにはバイトが終わったタイミングで連絡しており、俺の帰る時間に合わせて晩飯を作ってもらっている。

 また、連絡した際に『昨日と同じでこっちでお風呂に入ってください』と言われた。

 至れり尽くせりであり、頼れる年上じゃないなと苦笑を零す。


「何から何までごめんね」

「いえいえ。わざわざ瀬凪さんの家のお風呂を準備するのも面倒でしょうし、それならこっちの方が楽でしょう?」

「それはそうなんだけどね……」

「でしたら、何も気にする事なんてありませんよ。お風呂なんてもう一度沸かし直しただけですから」


 ふわりと柔らかい笑顔で言われれば、これ以上謝る事が出来なくなる。

 なので「ありがとう」とお礼を告げ、脱衣所に向かった。

 昨日と同じく、服と下着を脱いで床に置いておく。流石に乃愛ちゃんに洗濯はさせられない。

 そうやって洗濯物を入れているかごに服を入れなかったからか。

 籠の一番上に、ライムグリーンの布地が置いているのが目に入った。入ってしまった。


「……っ!!」


 慌ててそれから目を逸らし、記憶から消そうとする。けれど、バッチリと脳に焼き付いてしまっていた。

 妹のように思っている存在ではあるが、昔から一緒に過ごしている家族じゃないのだ。

 あの布地を見て、動揺しないのは無理がある。


「な、何でこんな見える場所に置いてるんだ……」


 ばくばくと激しい鼓動を刻む心臓を抑えつつ、息を吐き出す。

 この場で考え事をすると視線が洗濯籠に向かってしまいそうで、慌てて風呂場に入った。

 無心で頭や体を洗い、湯船に浸かる。

 そこまでして、ある程度は頭を冷やす事が出来た。


「油断、なんだろうな……。昨日と違って俺が後から風呂に入ってるのもあるかも」


 家の中は気を抜いて当たり前の場所だし、乃愛ちゃんを責めるのはお門違いだ。

 女性の下着は男性の物と違って纏めて洗濯してはいけない可能性もあり、わざと分かりやすくしているかもしれない。

 けれど、あの状態をこれから続けられるのは心臓に悪い。

 覚悟を決めて湯船から上がり、身支度を終えて脱衣所から出た。


「あ、瀬凪さん。ちょうどご飯出来ましたよ。というか瀬凪さんのパジャマ姿が見れました」

「……普通のシャツとズボンだよ」


 乃愛ちゃんが嬉しそうに笑うが、家用のラフな姿の何が良いのか分からない。

 曖昧な苦笑で誤魔化してキッチンに向かう。


「今日も運ぶのを手伝わせてくれないかな?」

「ふふ、分かりました。それじゃあお願いします」


 今の状況で話せば、乃愛ちゃんがテンパってしまうかもしれない。むしろ彼女の性格だと、間違いなくテンパる。

 動揺させた結果、料理に被害が行くのは避けたい。

 妙な態度を取って乃愛ちゃんに勘付かれないように気を付けつつ、晩飯の準備を終えた。


「さて乃愛ちゃん。大事なお話があります」

「はい? えっと、何でしょう? というか食べないんですか?」

「食べる前に話しておこうと思ってね」


 下着の話など食事中に出来ない。タイミングとしては、ここがベストだ。

 俺の態度を怪訝に思いつつも、真面目な話と判断したようで乃愛ちゃんが姿勢を正す。


「分かりました」

「…………その、何だ。多分、乃愛ちゃんは怒ると思う。悪いのは誰かって言えば、俺だと思うし。だから、覚悟はしてるつもり」


 意を決して口を開いたが、つい予防線を張ってしまった。

 要領を得ない俺の言葉に、乃愛ちゃんが眉をひそめる。


「瀬凪さんに怒ったりなんてしませんよ?」

「それは、下着を見られても?」

「……………………はぃ?」


 全く理解出来ない言葉を聞いた。という風な声が小さな口から漏れた。

 羞恥にじわじわと頬が炙られていくのを自覚しながらも、決定的な言葉を放つ。


「洗濯籠の一番上。下着置いてなかった?」

「――――っ!?」


 びくん、と体を跳ねさせ、乃愛ちゃんが勢い良く立ち上がった。

 料理がテーブルの上にあるのにバタバタと慌てて脱衣所に入って行く。


「いやぁぁぁぁぁ!!」


 事件性のある悲鳴が杠家に響き渡った。

 拒絶の言葉を発したのは単に羞恥が限界に達したからか、それとも俺に見られた嫌悪感からか。出来れば前者であって欲しい。

 言う事は言ったとテーブルに肘を立て、手で顔を覆って羞恥を逃がす。

 少し経って落ち着いた頃に、乃愛ちゃんが戻ってきた。

 真っ白な頬は火傷したように真っ赤に染まっている。


「汚い、いえ、みっともない物を見せてしまい、本当にすみません」

「…………そんなに卑下しなくていいよ、とだけ言わせてね」

「はぃぃ……」


 下着は汚れるものだ。けれど、この場で言及するのはどう考えてもデリカシーがない。

 みっともない物に関しても全くそんな事はないのだが、これも同じだ。

 俺の曖昧な言い方に乃愛ちゃんがか細い声で返事をし、向かいに座って顔を俯かせる。


「見られた。見られちゃった。分けなきゃいけないけど、なんであそこに置いたの私ぃ……」

「その、ごめん」

「……瀬凪さんのせいじゃないです。私が出しっぱなしにしていたのが悪いんです」


 どうやら怒られるのは回避したようだ。同様に、俺を嫌っている風でもない。

 しかし、あまりの羞恥に上目遣いで俺を見る蒼と黄金の瞳が潤んでおり、妙な色っぽさを醸し出している。

 最悪のパターンは回避したが安堵は出来ない。あの目で見られ続けると変な気分になりそうなのだから。


「と、とりあえず、この事はお互いに忘れよう。いいかな?」

「オネガイシマス」


 話を強引に纏め、これ以上引き摺らないようにする。

 下着の対策は、乃愛ちゃんがやってくれるだろう。


「よし、それじゃあ改めて。食べようか」

「そう、ですね。いただきます」

「いただきます」


 箸を動かし、相変わらずの美味な料理に舌鼓を打つ。

 それでも昨日とは違い、特に会話もなく晩飯の時間は終わった。

 二人で片付けを行って時計を確認すれば、もう早寝の人は寝る時間だ。


「今日はもう帰るよ。でも、その前にお礼をいいかな?」

「お礼、ですか?」

「うん。ご飯を作ってくれてありがとうって事で、昨日と同じようにしようと思うんだけど」


 お礼は忘れてはならない。乃愛ちゃんが労いの言葉を掛けてくれて、胸が軽くなったからこそ。

 今度は俺の番だと乃愛ちゃんの頭に手を伸ばそうとしたのだが、後ずさりされた。

 何となく考えている事は分かるものの、露骨に避けられるのは傷付く。

 内心が表に出ていたようで、乃愛ちゃんが顔に焦燥を滲ませた。


「き、今日はいいです。お礼が嫌って訳じゃないですけど、その」

「分かったよ。でも、本当にありがとね。それじゃあおやすみ」


 今日はお互いに落ち着くために、これ以上の接触は避けた方が良い。

 乃愛ちゃんのフォローに僅かだが頬を緩め、玄関に向かう。


「……おやすみなさい、瀬凪さん」


 扉が閉まる直前に見た乃愛ちゃんの顔は、申し訳なさと羞恥で彩られていた。

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