第9話 二人の生活の始まり

 乃愛ちゃんの様子を見ると彩乃さんと約束した次の日。

 今日もバイトが無かったので、一般的な晩飯の時間には杠家へと向かう事が出来た。

 インターホンを鳴らせば、ぱたぱたと軽い足音が近付いてくる。


「こんばんは、瀬凪さん」

「こんばんは、乃愛ちゃん」


 扉が開くと、柔らかい笑みを浮かべて蒼と黄金の瞳を細める乃愛ちゃんが居た。

 相変わらずの美しい瞳だなと思いつつ、彼女に促されて家に上がる。


「ゆっくりしていてくださいね。ご飯、もうすぐ出来るので」

「ありがとう。何か手伝う事はある?」

「うーん。……なら、お皿を運ぶのを手伝ってもらってもいいですか?」

「勿論。遠慮しないでね」


 おずおずとお願いを口にした乃愛ちゃんに苦笑を零し、キッチンへ向かう。

 乃愛ちゃんが晩飯を作る約束になってはいるが、それに胡坐あぐらをかくつもりはない。頼れる人になると誓ったのだから。

 俺の言葉に、乃愛ちゃんが顔を綻ばせる。


「はい。ありがとうございます」

「えーと、どの皿を運べばいいかな」

「でしたらここにあるこれと、これをお願いします」


 他家のキッチンの配置は分からないので、乃愛ちゃんに聞きながら皿を運ぶ。

 すぐに料理がテーブルの上に並べられ、準備が整った。


「「いただきます」」


 二人共が手を合わせ、口に晩飯を運ぶ。

 煮込まれて柔らかく、噛むと肉汁が溢れるハンバーグがたまらない。


「いやぁ、ホントに美味しい。最高の晩飯だよ」

「そう言っていただけて良かったです。昨日は手抜きだったので、張り切りました」

「頑張り過ぎないでね? 食べ物に拘りはないから」


 毎日美味しい物を用意しろと言うつもりはない。

 しかし、乃愛ちゃんは必要以上に張り切ってしまいそうだ。

 念の為に釘を刺すが、乃愛ちゃんは首を横に振る。


「いえ、出来る限りの事はさせてください」

「……無理しない程度にね」


 意外にも強情な乃愛ちゃんに、口酸っぱく言っても無駄だと悟った。

 苦笑を落とし、少々強引に話題を変える。


「彩乃さんは?」

「お母さんは朝一番で出て行きましたよ。いっつもこんな感じです」

「やっぱり滅茶苦茶忙しいんだな……。というか、酔い潰れてたけど大丈夫だった?」

「お母さんって酔い潰れはしますけど、次の日はけろっとしてるんです。元気でしたよ」

「あー、そういうパターンか。なら大丈夫そうだね」


 未だ会って数回だが、物静かなイメージの乃愛ちゃんは結構話してくれる。

 そのお陰で、もう会話に困って気まずい思いをする事はない。


「はい。帰ってきてはお酒のつまみを強請ねだってきますけどね。そう言えば、瀬凪さんの好きな食べ物って何ですか?」


 彩乃さんにはお酒のつまみを作れば良かったが、俺は普通に食べる。

 なので、今のうちに聞いておきたかったようだ。


「無難に肉料理かな。でも苦手な食べ物は無いし、魚でも大丈夫だよ」

「ふむ……。晩ご飯に食べたい物があるなら、言っていただければ作りますよ?」

「乃愛ちゃんは何を作っても美味しく作りそうだし、特にリクエストはないなぁ。リクエストがあった方が楽だったりする?」


 好きに作りたい派か、それともリクエストがあった方が良い派か。

 乃愛ちゃんの意思に任せると、彼女は顎に手を当てて考え始めた。


「んー。なら割と好き勝手に作ってもいいですか?」

「勿論。残さず食べるのを誓うね」

「ふふ、ありがとうございます」


 楽し気な笑みを零し、晩飯を摂る。

 それから暫くして、テーブルの上からご飯が無くなった。


「ごちそうさまでした。片付けは手伝うよ」

「これくらい大丈夫ですよ。瀬凪さんはゆっくりしてください」

「流石にそれは申し訳ないから、手伝わせて欲しいかな」


 この程度で頼れる人になれるとは思わないが、やれる事はすべきだ。

 昨日は彩乃さんの相手でほぼ手伝えなかったからこそ、今日から手伝わなければという思いもある。

 少々強引に懇願こんがんすると、乃愛ちゃんがへにゃりと笑う。


「分かりました。お言葉に甘えさせていただきますね」

「りょーかい」


 二人である程度の食器をキッチンへ運び、それから乃愛ちゃんは皿洗いに入った。 

 俺はというと運びきれなかった食器をキッチンへ運んだり、テーブルを拭いたり等の作業を行う。

 それ程時間を掛ける事なく、あっさりと片付けは終わった。


「「……」」


 さっき晩飯を摂っていた時とは違い、微妙に気まずい沈黙が部屋を満たす。

 乃愛ちゃんの様子を見るという俺の役目は終わったので、もう家に帰ってもいい。

 けれどここでそれを口にするのは、ただ約束の為に杠家へ来ているのだと態度で示しているのではないか。

 乃愛ちゃんはというと、僅かに不安を滲ませた顔で俺を見ている。


「あ、あの、ですね」

「な、何、かな」

「瀬凪さんのご飯、作ったじゃないですか。だから、ご褒美が、欲しいなって」

「あ、あぁ、そういう事か、いいよ」


 場の空気をほぐす為か、それとも本当にご褒美が欲しかったのか。

 答えは分からないが、乃愛ちゃんのおねだりを断る理由はない。

 美しい黒髪に触れ、労わるように撫でる。


「今日もありがとう」

「ん……。ふふ、私の方こそ、ありがとうございます」


 安堵したように頬を緩ませ、撫でられるがままになる乃愛ちゃん。

 よくよく考えると晩飯を作るのは約束だからなので、ご褒美をあげるのはおかしい気がする。

 けれど、この笑顔が見られるのなら細かい事は気にしない。


(こんな妹が居たら最高なんだろうなぁ)


 素直で可愛らしく、それでいてちょっと甘えたがり。さらに晩飯まで作ってくれるという、これぞ理想の妹だ。

 恋愛対象として見るのは流石に犯罪だし、妹扱いすら口に出すのは失礼な気がするので、心の中で思うだけだが。


「……これから、瀬凪さんはどうするんですか?」


 さらさらの黒髪を撫でていると、小さな声が耳に届いた。

 その声には、俺の勘違いでなければ「帰って欲しくない」という思いが込められている気がする。


「ぶっちゃけ言うと、後は風呂に入ってのんびりするだけだよ。あぁ、急ぎじゃないけど、レポートもあったっけ」

「でしたら、こっちでお風呂に入りませんか? それで、後で勉強するのはどうでしょう? 私も宿題が出てますし」

「彩乃さんから許可もらってないし、こっちで風呂に入るのは駄目だと思うよ?」


 ほぼ居ないとはいえ、杠家の家主は彩乃さんだ。彼女の許可なく風呂は使えない。

 それに、乃愛ちゃんも男が自分の家の風呂を使うのは嫌だろう。

 そう思ってやんわりと断りを入れたのだが、何故か乃愛ちゃんがスマホを取り出す。


「なら、許可があったらいいんですよね?」

「まあ、そうだけど」

「言質取りました。ちょっと待ってくださいね」


 乃愛ちゃんが手慣れた様子でスマホを弄り出す。

 会話が弾むようになったものの、乃愛ちゃんは物静かでおしとやかなイメージだ。しかし、こういう姿を見ると今時の女子中学生だなと改めて思う。


「タイミングよく返事くれました。好きに使っていいとの事です」

「……そっか。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ。ありがとう」


 何だか流されている気がするが、気にしたら負けだ。


「因みに、風呂に入る順番は?」

「軽く掃除しますので、私が後で入りますよ」

「了解。なら悪いけど先に入らせてもらうね。乃愛ちゃんが風呂に入ってる時に勉強道具を持って来ておくよ」

「はい。分かりました。その時は鍵を渡しますので、戸締りをお願いします」

「分かったよ」


 マンションのセキュリティはしっかりしているので大丈夫だと思うが、万が一の可能性がある。戸締りはしっかりすべきだ。

 話が纏まったので脱衣所に行き、乃愛ちゃんにタオルや洗濯物の置き場、風呂にある物の種類を教わる。

 下着類は履きなおし、家に帰ってから着替えればいい。

 乃愛ちゃんが脱衣所から出て行ったのを確認し、服を脱いで風呂場に入る。

 我が家と同じ配置ではあるが、女性の家となると緊張してしまう。


「……相手は中学生なんだ、余計な事は考えるな」


 中学生――しかも妹のように思っている人――が使っている風呂で緊張するなど、変態の所業だ。

 実際には彩乃さんも使っているはずだが、そこまで考えるのは業が深過ぎる。

 頭を振って余計な考えを放り出し、体を洗って湯船に浸かる。

 しっかりと体を温め、体を拭いて風呂場から出た。


「上がったよ」

「それじゃあ私も入っちゃいますね。あ、鍵どうぞ」

「ありがとう」


 既に準備を終えていたのだろう。乃愛ちゃんがソファから立ち上がり、パジャマと家の鍵を持ってこちらに歩いてくる。

 鍵を手渡した後、すぐに脱衣所に向かうと思ったのだが、何故かジッと顔を見られた。

 真っ白な頬が赤らんでいる気がする。


「お風呂上りの瀬凪さんって、その……」

「うん?」

「…………何でもないです」

「は、はぁ……」


 乃愛ちゃんが俺から視線を外し、脱衣所に入っていく。

 良く分からない態度に首を捻りつつ、一度家に帰るのだった。

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