第8話 欲しい言葉をくれる人

「そろそろ部屋に戻ろうか」


 瀬凪さんが私の頭から手を離す。

 固く骨ばっていて、それでいて優しい温もりが遠ざかった事に、胸がきゅっと締め付けられる。


「あ……」


 小さな声を漏らしてしまったが、瀬凪さんは苦笑するだけに留めて部屋に入っていく。

 たった数回話しただけ。これから一緒に晩飯を摂るけれど、それでも一緒に過ごした時間は短い。

 だからこそもう一度頭を撫でてくれなかったのだろうが、それがどうしようもなく悲しかった。

 とはいえ、この状況でもう一度と強請ねだる勇気は流石に無い。

 細く息を吐き出し、ベランダからリビングに戻る。


「そろそろ帰るね。お邪魔しました」

「あ、ち、ちょっと待ってください」


 きょとんとした顔が、いつもの大人びた表情と違って少しだけ幼く感じる。

 もう少し一緒に居たくて、つい引き留めてしまった。 

 けれど、瀬凪さんをここに留まらせる理由などない。

 どうしたものかと頭を回転させると、ふと一つの案を思いついた。

 長時間引き留められはしないが、それでも価値のある事だ。


「あの、連絡先を交換しませんか? 用事がある時とか、連絡出来ると便利だと思うので」

「あー、そっか。毎日じゃないけど、バイトで帰りが遅くなる時があるもんなぁ。気付かなくてごめんね」


 瀬凪さんが心底申し訳なさそうに眉を下げる姿に、罪悪感という名の棘が胸を刺す。

 連絡先を交換するもっともな理由を瀬凪さんが口にしてくれたが、当然ながらそんな事は考えていなかった。単に、繋がりが欲しかっただけだ。

 お願いだからそんな顔をしないで欲しい。


「いえ、気にしないでください。あんまり詳しく聞かなかったですけど。結構帰りが遅くなるんですか?」

「うん。飲食店だからね。ほら、駅からちょっと離れた――」

「ああ、あそこですか。自炊ばっかりしてるので、縁が無かったです」

「確かに乃愛ちゃんは一回も見なかったね。それで、夕方から夜の晩飯時を過ぎるまで働くから、バイトがある日は結構遅くなると思う」

「……大変そうですね」


 そこそこ夜遅くまで働くのだ。かなり疲れるだろう。

 バイトをする理由は知らないが、無理しないで欲しい。

 そんな思いを抱いて瀬凪さんを見つめると、彼が気まずそうに視線を逸らした。


「まあ自分で決めたバイトだからね。文句は言えないよ。でも、これじゃあ乃愛ちゃんの様子を見るって約束はあんまり果たせないな……」

「だ、大丈夫です! 瀬凪さんが帰ってくるまで、待ってますから!」


 瀬凪さんはバイトをしていると事前に言っていたので悪くない。

 むしろ、詳細を聞かずに約束をしようとしたお母さんや私が悪い。

 気負わないで欲しいという願いを込めた言葉は、苦笑によって受け止められた。


「いや、流石にそれは申し訳ないよ。彩乃さんに相談しようかな」

「ホント、大丈夫ですから!」

「でも、帰りが遅くなるんだよ? お腹空かない?」

「大丈夫ですから!」

「…………分かった。それじゃあ数日やってみて、乃愛ちゃんが無理そうだったら考えようか」


 諦めたように瀬凪さんが溜息を落とす。

 元々一人だった家に、瀬凪さんが来てくれるのだ。わざわざその機会を減らすというのは有り得ない。

 確かにお腹は空くだろうが、その程度は耐えられる。


「はい! ……えと、それじゃあ、帰りますか?」

「そうしようかな」

「玄関まで送りますよ」

「ありがとう」


 瀬凪さんの後をついていき、玄関に辿り着く。

 鉄の扉が開き、瀬凪さんの体が半分以上隠れてしまった。


「今日は本当にありがとう。ご飯美味しかったよ」

「あんなつまらない話を聞いてくださって、こちらこそ本当にありがとうございました」


 瀬凪さんはフォローしてくれたものの、私の事情に巻き込んでしまったのだ。だからこそ、罪悪感もあるが打ち明けた。

 普通ならば怒るか呆れるかといった所だが、瀬凪さんはそんな事などせず受け止めてくれた。

 あの時の嬉しさは、頭を撫でる手の温かさは、絶対に忘れない。

 深く頭を下げると、ほんのりと不機嫌の色を宿した瞳が私を見つめた。


「俺からすれば、つまらない話じゃないよ。それだけは、覚えていてくれると嬉しいな」

「……はい。ありがとうございます」


 どうしてこの人はこんなにも欲しい言葉をくれるのだろう。私の瞳を初めて見た時もそうだ。

 見惚れていたとの事だったが、前髪で隠していただけで事情を何となく察して「髪で隠していいからね」と言ってくれた。

 それは大人だからなのか。それとも瀬凪さんだからなのか。

 理由は分からずとも歓喜に胸が震え、頬が緩んでしまった。

 このままお別れなのが嫌で、僅かに瀬凪さんへと近付く。


「えと、その。甘えても、いいんですよね」

「そう、だね」

「じゃあお別れの挨拶に頭を撫でて欲しい、です」


 こんな些細な事で頭を撫でて貰うのは流石に迷惑だろうか。

 僅かな不安は、柔らかい笑顔を向けられて吹き飛んだ。


「分かった。それじゃあ、いくよ?」

「はい」


 お母さんとは全く違う、男の人の手。

 それが頭を撫でる度に、胸がどくりと跳ねる。


(お兄ちゃんって、こんな感じなのかな)


 こんなに優しい兄が居てくれたら、毎日が楽しいはずだ。

 唇の端が勝手に上がるのを必死に堪えながら瀬凪さんに視線を向ければ、ばっちりと目が合った。

 かと思ったら、すぐに瀬凪さんの手が頭から離れる。


「おやすみ、乃愛ちゃん」

「…………おやすみなさい、瀬凪さん」


 パタンと扉が閉まり、瀬凪さんの姿が見えなくなる。

 一気に体の温度が下がった気がして、ぶるりと体を震わせた。


「また明日、会えるんだもんね」


 期待に胸を弾ませ、寝る準備をしてからリビングに戻る。

 ソファで寝息を立てているお母さんにブランケットを掛けると、気持ち良さそうな声が唇から漏れた。


「私のじゃなくて、自分の部屋を作ったら良かったのに」


 この1LDKの家にお母さんの自室は無い。「あまり家に居られないし、だったら乃愛が使った方がいいわ!」との事だ。

 ならば酔い潰れた時くらい私の部屋で寝て欲しいが、寝るのはソファでいいと言われている。

 娘に甘い母親に頬を緩めつつも、自らをあまり省みない発言にちくりと胸が痛む。

 とはいえ、今更お母さんを移動させるのは不可能なので諦めた。


「おやすみ、お母さん」


 挨拶をして自室へ。ベッドにダイブして、スマホを眺める。

 連絡アプリの『水樹瀬凪』という名前に頬が緩んだ。


「えへへ。連絡先、交換しちゃった」


 男性と連絡先を交換したのなど初めてだ。とはいえ、瀬凪さん以外の男性と交換する予定はないのだが。


「瀬凪さん、かっこよかったなぁ……」


 友人ではあるが、親密な関係とは言えない私達。なのに、これから一緒に過ごす。

 しかも甘えたり頼っていいと言ってくれた。

 正直なところ、お母さんには甘え辛かったのでそれも嬉しい。


「んふふー。明日が楽しみだなぁ」


 もう明日会う事に胸を弾ませてしまう。

 そんな変化を与えてくれた瀬凪さんとお母さんに感謝しつつ、目を閉じるのだった。

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