第6話 母親の想い

 夕方までのんびりと過ごし、飯時になったので杠家のインターホンを鳴らす。

 ぱたぱたと軽い足音が大きくなっていき、目の前の扉が開かれた。

 その奥から顔を覗かせた乃愛ちゃんが、蒼と黄金の瞳を嬉しそうに細める。


「こんばんは、瀬凪さん」

「こんばんは、乃愛ちゃん」

「さあ上がってください。お母さんは我慢出来ずに始めちゃってますけど、許していただければと」

「ご馳走になるのは俺の方だし、許すもなにもないよ。お邪魔します」


 彩乃さんは相当忙しいようだし、こういう時くらい思い切り息抜きすべきだろう。

 苦笑を落とし、杠家へと上がる。

 リビングに辿り着けば、頬をほんのりと赤く染めた彩乃さんがビールの缶を揺らしながら俺を見た。


「こんばんはー、瀬凪くん。くつろいでいいからねー」

「そうさせてもらいます」

「それじゃあご飯を用意するので、ちょっと待っててくださいね」

「あ、手伝いはいる?」

「後はお米だけなので大丈夫ですよ。ありがとうございます」


 乃愛ちゃんがくるりと身を翻し、キッチンへと向かう。

 リビングの椅子に座ると、目の前のテーブルには鶏もも肉の炭火焼が。

 いかにもな酒のおつまみだが、確かにこれは飯が進むだろう。


「瀬凪くんもお酒飲んでいいのよ?」

「流石にお呼ばれして初日に酒を飲むつもりはありませんよ。そもそも未成年ですし」

「そうなの? でも大学二年生って事は、もうすぐ二十歳よね?」

「ですね。誕生日は八月一日ですから、あと二ヶ月と少しですよ」

「あらあら。乃愛ー! ちゃんと覚えたかしらー!?」


 彩乃さんがキッチンへと顔を向け、確認を取った。

 俺の誕生日を覚える必要などないし、乃愛ちゃんも反応に困るのではないか。

 そんな考えはキッチンから「勿論!」と元気の良い声が聞こえてきた事で霧散した。

 すぐに乃愛ちゃんがお椀を二つ持ってキッチンから出て来る。


「瀬凪さんの誕生日はお祝いしましょうね」

「いや、そこまでしなくても……」

「しましょう。私の誕生日が八月七日で近いですし、折角ですから一緒にお祝いしましょう。ね?」

「乃愛ちゃんの誕生日って俺と近いのか。……まあ、それなら」


 誕生日が離れていたら何が何でも遠慮したが、これならば一緒に祝うのもアリかもしれない。

 妙に必死な様子の乃愛ちゃんに、何だか流された形になったと思いつつも頷きを落とすと、彼女の顔が綻んだ。


「ふふ、約束ですよ」

「もしその時に私の休みも一緒だったら、二人で飲みましょうね。……多分、仕事が入るけど」

「その時は気持ちだけ受け取っておきますよ」


 俺の誕生日など無理に時間を作って貰うようなものではない。乃愛ちゃんの誕生日は祝って欲しいが。

 とはいえ、彩乃さんが苦笑を浮かべているのでほぼ無理なのだろう。


「さてと、それじゃあ私達も食べましょうか。お母さんのお酒のアテですけど、大丈夫ですか?」

「勿論。いただきます」

「いただきます」


 手を合わせ、鶏もも肉の炭火焼を頬張る。

 口の中に広がる鶏もも肉の油と炭火焼の味が堪らない。


「ん、美味しい! 炭火焼も出来るってホントに料理が上手いんだね」

「……その、ですね。一般家庭で炭火焼は流石に出来ませんよ。市販のタレを使って焼いただけです」

「そんなタレがあるんだ」

「はい。なので結構な手抜き料理です」


 乃愛ちゃんが申し訳なさそうに眉を下げるが、罪悪感を覚える必要なんてない。

 自炊の面倒さは良く知っているし、毎回手の込んだ料理を作って欲しいと言った覚えもないのだから。


「手抜きでも全然大丈夫だよ。気にしないでね」

「うぅ……。ありがとうございます……」


 俺のフォローにへにょりと眉を下げる乃愛ちゃん。

 年下の少女を励ますのは難しいと思いながら、料理に舌鼓を打つのだった。





「すみません。お母さんの相手、よろしくお願いしますね」

「うん、任されたよ」


 深く頭を下げる乃愛ちゃんに、苦笑を返す。

 料理で腹を膨らませた俺と乃愛ちゃんだったが、彩乃さんはまだ飲むとの事だ。

 結果、彩乃さんのおかずを除いて片付けを済ませ、俺が晩酌の相手になった。

 乃愛ちゃんはというと、彩乃さんが風呂に入るように勧めたのもあって準備を終えている。

 酔っ払った母親の晩酌の相手は疲れるだろうし、話し相手になるくらい何も問題はない。


「変な絡みをしたら引っ叩いていいですからね」

「いや、流石にそれは……」

「心外ねぇ~。そんな事しないわよぉ~」

「……笑いながら言われても説得力が無いんだけど」


 けらけらと笑う彩乃さんに、乃愛ちゃんのジト目が突き刺さった。

 家族だからこその雑なやりとりが微笑ましくて、くすりと笑みを零す。


「まあまあ。取り敢えず風呂に入ってきなよ。彩乃さんは俺がしっかり見張っておくからさ」

「あー、瀬凪くんまでひーどーいー!」

「はぁ……。よろしくお願いします、瀬凪さん……」


 盛大に溜息をついて、乃愛ちゃんが風呂場に向かった。

 すると、唇を尖らせていた彩乃さんの顔が、スッと真面目なものへと変わる。


「付き合ってくれてありがとうね、瀬凪くん」

「……変わりようが凄いですね。さっきまでのは演技だったりしますか?」

「半分正解かな。色んな所を飛び回ってると飲みに誘われる事が多くてねぇ。この程度で潰れはしないわよ」


 家の中なので気を抜いてテンションは上がっているが、羽目を外し過ぎはしないらしい。

 肩を竦める仕草が、大人びた雰囲気を醸し出していた。


「あの子の事、よろしくね。……私には、駄目だったから」


 影を帯びた微笑と後悔にまみれた言葉に、つい疑問が口から出る。


「駄目だった、とは? 彩乃さんと乃愛ちゃん、仲が良いと思いますけど」


 一日見ただけではあるが、二人の仲は非常に良好なものだった。

 俺に様子を見て欲しいとお願いする程には仕事が忙しいようだが、それでも彩乃さんがそんな表情をする理由にはならないだろう。

 普通ならば他人の家庭事情に首を突っ込むのはマナー違反だが、彩乃さんがこの話題を口にした事は踏み込んでいいはずだ。


「仲は良いと思うわよ。少なくとも、さっきみたいなやり取りが出来る程度にはね」

「じゃあ、何が駄目だったんですか?」

「あの子が辛い時に、一緒に居られなかったの。悩みに寄り添えなかったのよ。それは今もだけれど」

「……悩み、ですか」


 乃愛ちゃんと駅から帰った時や瞳を見せて貰った時など、彼女は明らかに悩みを抱えていそうだった。

 何となく内容は予想しているものの、今の話題以上に俺から踏み込んで良いものではない。


「そう。仕事が忙しいから傍に居られないなんて、言い訳にもならないわ。母親失格よ」

「母親失格は言い過ぎでは……?」

「言い過ぎじゃないわよ。『私の事は気にしないでね』って娘に気を遣われてるくらいなんだもの」

「乃愛ちゃん、さとい子ですからね」


 ほんの数日会話しただけだが、乃愛ちゃんは聡明だと分かる。

 中学生などもっと我儘になってもいいくらいなのに、仕事で忙しい彩乃さんに愚痴一つ零さないのだから。

 娘を褒められて嬉しかったのか、彩乃さんの目が細まる。


「ふふ、そうね。聡いからこそ、自分の瞳がどんなものなのか、分かってるのよね……」

「やっぱり、瞳ですか」

「ええ。……これ以上は、あの子からね」

「分かってますよ」


 ここまで話してくれただけでも有難いのだ。文句など無い。

 けれど、最後に確認はしておきたい。


「彩乃さんは、乃愛ちゃんの事が好きですか」

「ええ、好きよ。最愛の一人娘と、胸を張って言えるわ」


 迷いなく告げられた言葉には、一人の母親としての覚悟と意思がこれでもかと詰められていた。

 ならば、これから二人の仲が悪くなる事は無いだろう。


「そう言えるって事は、彩乃さんは立派な母親だと思いますよ」

「……そう、かしらね。そうだと、いいんだけど」


 話す事を話して満足したのか、それとも酒に強いと見栄を張っていたのか。

 彩乃さんのまぶたがどんどん下がっていく。


「ねえ、瀬凪くん? 乃愛の事、よろしく、ね」

「はい。任されました。俺なんかで良かったら、ですけど」

「ふふ、大丈夫、よ。最初に会って、何かの為に、頑張れる人だなって、思って。今日見て、確信したの。瀬凪くんは、痛みを知る人だって。だか、ら……」


 言葉の途中で乃愛ちゃんによく似た蒼の瞳が見えなくなり、彩乃さんはテーブルに突っ伏してしまった。


「痛みを知る人、か。この人はどこまで見てるんだろうな……」


 陽気な時もあれば、大人びた姿を見せる時もある。

 そんなころころ変わる態度の裏で、俺の傷をしっかり見抜いていた。

 不思議な人だなと笑みを零し、小さく呟く。


「俺なりに、やってみますよ」


 微かな寝息と僅かに聞こえるシャワーの音を聞きながら、信頼に応えなければと思うのだった。

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