第15話 僕に全てを教えてくれた人

この場所に根を下ろしたのは、近くに湖があったから。だったと思う。

意味があったとするならばそれだけだ。

そこでただぼんやりとしているうちに、人が来て、街になり、最終的には国となり、しまいにヴェリデは神と崇められていた。

一瞬のうちにこうなっていた。ヴェリデはただ、この場所に存在していただけだった。


お気に入りの湖は変わらずそこにある。透き通る緑青色の水面は見ているだけで蕩けてしまいそうになる程美しく、こんなに無垢であるのに湖の底が見えないことも、得体が知れない感じがして興味が尽きなかった。

人間もただそこに住む分には良かった。何よりも彼らは全ての生命を平等に丁寧に扱った。


だからヴェリデが根を下ろす前からあった木々は今日もそこにいるし、湖だって未だ麗しい姿のまま静かに佇んでいられる。

人間のおかげでそうしていられる、と考えている時点で既に人間に毒されているのだろうと思うが、しかし、この国の民が我々に畏敬の念を抱いていることは、少なからず尊重しなければならない。

それに見知らぬ土地に根を下ろし命を営むことは人間だって自分だって同じだ。後から来たからと人間に文句を言う筋合いなどない。


ただ。

草木や動物が焦げたような悪臭が時々風に乗っては背中や頭を撫でる時、時々どうしても考えてしまう。

少し人間と近づきすぎてしまったかもしれない、と。

「ヴェリデ」

 天使のように愛らしい声が遠くから聞こえる。新芽や雑草を奥ゆかしく踏みしめながら走ってくる足音が近づいてくる。

この世に根付いて享受した一番の喜びがやってきた。

「今日はいたのね。気分はどう」

「まあまあかな。フィオリアこそどうしたの、そんなに焦って」


 ヴェリデが笑いかけると、フィオリアは不安定な笑みを返して俯いた。

彼女のこういった嘘のつけない性格にもヴェリデは安心していた。

フィオリアはこの国の人間の特徴を全て体現している。だからきっと、人間ではない自分のよう存在とも心を通わせることができるのだろう。

「別に焦ってなんかいないわ。最近会えなかったら心配していただけ」

「僕ならずっとここにいるよ」

「それは知っているけど。時々面白がって隠れちゃうじゃない」

「随分と人聞きが悪いな」

「……ヴェリデ、具合が悪いの? なんだか顔色が良くない」

 そんなことないよ、と返して、ヴェリデは自分の頬に触れた。


「ねえ、顔色が良くないって、どういうの」

「そうね、例えば、ヴェリデはいつも真っ白でサラサラの石みたいな肌をしているけど、今日はなんだか影がかかっているみたい」

「影がかかっているって?」

「曇り空の日、ヴェリデの木に重たい影が落ちるでしょう。あんな感じよ」

「なるほど」


 自分の肌が白いということも髪は銀色だということも、人間で言う「男」のような風貌だということも、ヴェリデはフィオリアから全て教わった。

だがそれはあくまでフィオリアにはそう見えているというだけなのかもしれない。

ヴェリデにも自分の「風貌」など分からない。

ましてや自分が人間のような姿かたちをしているなんて、到底信じられない。

「それで僕の顔色が悪いと、君が見えている僕はどうなのかな」

「別に何も変わらないわ。ただ少し心配なだけ。何か気に病んでいるんじゃないかって」

「人間は顔色が悪いと、気に病んでいるということなんだね」

「すべての人がそうと言うわけではないけど……」


 言い淀んで、フィオリアはまたあやふやな笑みを浮かべた。

細めた目の下や歪んだ口元には影が落ちている。

「僕は君の方が心配だよ。だって顔色が悪い」

「……そう見える?」

「見える」

「さすがヴェリデね。私、あなたに隠し事はできないみたい」


自然と背筋が伸びて、背中の辺りがムズムズした。

鳥が頭に止まっても空の揺らぎを感じても、身体から新芽が吹いても、こんな感覚にはならない。

それらはヴェリデと通じ合ってはいるが、会話はしないからだ。

ヴェリデをヴェリデとフィオリアが名づけるまで、ヴェリデには名前がなかった。

名を授け感情を与えたのはフィオリアだ。

これは喜び、これは悲しみ、とひとずつ覚えるにつれ、人間に近づいていくということはヴェリデという存在にとっては複雑で、とにかく難儀なことで、そして喜びでもあった。


「僕、君にはいつも元気でいてほしい」

「私はいつも元気よ」

「でも湖に落ちるほどではないだろう」

「やめてよそんな昔のこと」


 ふっと柔らかな息が漏れて、フィオリアがころころと笑う。

影のないふっくらとした笑顔。身体が大きくなっても、この笑顔は変わらなかった。

昔の事、とフィオリアは言ったけれど、正直ヴェリデにとっては昔も今もない。

そういった時間の感覚は人間とは大きく異なっているようで、ヴェリデにとっての昔というのはしいて言うなら、何もない大地に小さな種が根付いた時だ。


 追いかけっこをして湖に落ちてしまった時のことをフィオリアは昔のことだと笑ったけれど、ヴェリデにとってはそれもすべて最近の出来事で、ただフィオリアの身体つきだけが変わった。

それ以外は、翡翠色の美しい瞳も、陽の光でキラキラと光る長い髪も、そしてあどけない笑顔も何も変わらない。

だから内面だって変わらない。きっとそうだ。


「あなたの言っていた異国の旅人が来たわ。それと、バステラ王国の騎士も」

 いつの間にか笑顔は失せ、フィオリアの顔に再び影が落ちていた。

「旅人の方はラントって言うの。ヴェリデの言った通り不思議な力を持っているみたいだけど、どんな力かは教えてくれない。それに彼、いつもすごく不機嫌なの。私のことが嫌いみたい」


 突き放すような物言いの陰に隠れて、微かな戸惑いが混じっている。

いつも自信に満ち溢れた彼女には珍しい声色だった。

「それにバステラの騎士が来たのも早かった。向こうの王様からの言付けですって。きっと近いうちに攻撃を仕掛けるって脅しに来たんでしょうね」

 どうだろうね、と努めて流れるように言ってみた。

フィオリアは黙りこくって、湖のそばに咲いた桃色の花を見つめている。

彼女が何を言いたいのかは予想がついている。分かっているが、ヴェリデはどうか自分の予想が外れていて欲しかった。


「その花はこの前やっと咲いたんだ。新入りなのにお転婆だから、踏まないようにね」

「そうではなくて」

 焦れたようにフィオリアが顔を上げ、ヴェリデに一歩踏み込んだ。

「バステラが攻撃を仕掛けてきたらマヌスはどうしようもできない。でも時間さえ分かれば避難させることはできるわ」

「人間のすることなんて僕には分からないよ」

「でも今まで教えてくれたじゃない」

「それは風や海や動物たちが教えてくれるんだ。地震や豪雨なんかはね。でも人間はそうはいかない。彼らがいつ攻撃してくるかなんて、僕に教えてくれるわけがないだろう」

「それじゃあラントは? 特別な力を持った彼なら私と一緒に立ち向かってくれるのよね」


 可哀想に愛らしいこの少女は、国の行く末を心から憂いている。

自分の力で民を救わなければと焦り、たった一人で戦い、そして自分と言う「神」に助けを求めている。

だけど僕は、とヴェリデは心の中で呟いた。

ヴェリデはただそこに根を下ろしただけの存在だ。人間と変わらない、そこで命を育んでいただけなのに、神と崇めて縋りついてきたのは人間の方だ。

僕はただ、他より少し大きな樹だっただけ。


「その旅人が君と一緒に立ち向かう、なんて僕は言っていないよ」

「え?」

「ただ君と同じように特別な力を持った人間がやってくると言ったんだ」

褐色の肌の特別な青年がやってくることは知っていた。遠くの砂漠で歩いているのが見えたし、彼が近づくことで生物たちがいくらか動揺していたのが分かったからだ。

そしてもっと驚いたのは、旅人にくっついている死を纏ったなにか。

ヴェリデに似ているが、しかし決定的に違う厄介な存在。

彼はどうやら人間ならざる者に深く愛されているようだった。

そしておそらくそういう人間は、どこにも根付けない。

この国に来たってそれは変わらない。


どちらにしても、なにもかもがヴェリデにとってはどうでも良いことなのに、フィオリアは不思議な力を持つ彼を救世主だと信じて疑わないようだった。

「欲深いフィオリアに忠告しておくよ」


 穏やかな口調でそう言うと、大きな目を真ん丸にしてフィオリアはヴェリデを見据えた。瞳の奥に恐怖と期待が渦巻いていた。

悲しみや喜び、苦しみは理解できた。それらは全てフィオリアが教えてくれた。

しかし、今感じている胸の重さや熱い苛立ちのようなものは初めての感覚だった。

これがなんという感情なのかもきっと、そのうち彼女が教えてくれるだろう。


「なに、教えてよヴェリデ」

「その不思議な力を持った異国の旅人は、この国に災いをもたらすよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る