第16話 最悪に不幸な結末
マヌスに住んで得たものは、不本意ではあるがいくつかあるように思う。
しかし反対に失ったものもある。一人の時間だ。
正確に言えば人ではないティアが四六時中くっついているので一人の時間など今までもなかったと言えばそうだが、マヌスに来てからは遂に人間もラントを放っておかなくなった。
パドラからは一緒に住むことを提案されたがそれを拒むと、だったら我が家で面倒を見る、という家主からいくつも声がかかった。
それも断り空き家がないかと聞くと、知らないうちに住民の間で話し合いが行われ、結局パドラの家が所有している農具置き場の二階なら、と話がまとまり、ラントはされるがままそこに住むことになった。
人が住むように設計されていない部屋は窮屈で埃臭かったが、足を伸ばして眠ってもまだ十分に広さはあるし、申し訳程度についている小窓からは朝になれば陽の光が差し込んで、それがなんとも気持ちが良かった。
なにより世捨て人同然の生活をしてきたラントにとっては雨風をしのげる屋根さえあればそこは天国だ。それで万々歳だったが、パドラも燐家の家族も、その隣の家も周辺の家も国王にとっても、ラントを物置小屋の二階で住まわせることには納得していないようだった。
朝になればパドラが問答無用で朝食を持ってくるし、食べても食べなくても、ぺブルがそれを下げに来る。
農作業中は道行く人誰もかれもがラントの調子を聞いてきたり作物の収穫の仕方を説明したり、挙句差し入れの団子や飲み物を持ってきた。
夜は夜でパドラが夕食を持ってきていたが、「わざわざ小屋まで持っていくのが面倒だから」と言われ渋々ラントが取りに行くようになり、ついでにここで食べちまいな、と半ば強引に座らされ、今ではパドラとぺブルと三人で頭を突き合わせて夕食を食べることが当たり前になっている。
それにしても、パドラとぺブルはよく喋った。
どこの家の誰とどんな会話をしただとか川で見つけた虫が卵をたくさん産んでいた話だとか、その全てがラントにとっては呆れるほどにどうでも良い内容だ。
しかし話を聞いていなくても相槌を打たなくても、パドラもぺブルもラントに向けて話している。
見ず知らずの他人から無条件に受け入れられている感覚は、非常に居心地が悪い。
けれど、この国の人間にそんなことを抗議するだけ無駄だろう。
誰だって自分の中の「普通」をそう簡単に変えられやしない。
ラントはすっかり疲れていた。
せめて少しで良いから自分だけの時間が欲しい。
そうして畑作業の合間にふらりとひとけの少ない場所を探して歩き回り、やっと見つけたのが国を見下ろせる小さな丘だった。
真っ青な空と深緑の芝生がはっきりと二層に別れており、その緑の芝生に敷き詰められるように木を交差させた十字架がいくつも刺さっている。
国を見下ろすように佇むこの地は、墓地だった。
いくつもの十字架を背にして、丘の先端に足を投げ出す。
ただ何をするでもない、息を吸って吐く。
それだけでいくらか胸の奥が凪いだ。
耳元を緩やかな風が通り過ぎ、遠くで波の音がカラカラと鳴っている。
こんなに静かな時間はいつぶりだろう。
礼拝所での出来事以来、ティアがラントの前に現れることはなくなった。
子供の頃にあの女と出会って以降こんなことは初めてだ。
しかしティアが消えようがなくなろうが、ラントにはどうだって良いことだ。
元々人間でもなければ悪魔かも死神かも分からない存在だ。
消えてしまったとしても何も変わらない塵のような存在。
それはラントもそうだし、ティアも同じだった。だから、どうでも良い。
どうでも良いのに、この国の人は塵のような存在であるラントをまるで蝶や鳥のように慈しみ、得体の知れない情でもって接する。
それがラントにとってこの上なく理解に苦しむことであり、反吐が出るほど気持ちが悪く、それなのにこの国を離れられなくさせている要因でもある。
頼りなく浮かぶ一筋の雲を見上げながら、どうしたものか、と柄にもなく物思いに耽った。
しばらくそうしていると、後ろで金属の擦れる厳しい音がして咄嗟に身を固めて振り返る。
濃い肌に艶のある瞳が目を見開いて、ラントと同じように素っ頓狂な表情を浮かべていた。
「すまない。先客がいたとは」
ハイタイは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべると、ゆったりと、そして遠慮がちに歩き出す。
「この場所は本当に昔から変わらないな。景色が綺麗で空気が美味しい。バステラも景色は綺麗だけど派手でね。おまけに工業地帯が多くて煙たい」
滑らかに喋るハイタイから距離を取るようにラントは立ち上がる。
カチャカチャと鳴る甲冑の無機質な音が、貴重な一人の時間の終わりを告げたのだ。
善人にまみれたお伽噺の国に来たからと言って、世捨て人まで善人になるわけではない。
見ず知らずの人間とにこやかに世間話をするほどラントはできた人間ではないのだ。
これ見よがしに眉間にしわを寄せそそくさと丘を出ようとすると、くぐもった声が少しだけ声を大きくした。
「国王様が君のことを話していたよ、ラント君」
はたと足を止め、思わず止まった自分の足を憎らしく睨む。
ハイタイは味を占めたように目を細めて話し続けた。
「まるで自分の孫の話でもするかのようにね。それはそれは楽しそうだった。君にずっといて欲しいんじゃないかな」
にこやかなハイタイの視線を、ラントは乱暴に受け流した。
「異国人同士語り合おうじゃないか」
ハイタイはそう言って、愉快な声を上げる。
どいつもこいつも。
胸の内で呟いたはずが声に出てしまっていたらしい。
甲冑の大柄な青年は首をかしげて白い歯を見せる。
「この国の人はみんなそうさ。お節介で情にもろくて見返りを求めない。実に慈悲深いが、異国の人間にとっては不気味にも見えるよな。僕も昔はそうだった」
やだ、なんなのこいつウザいんだけど、こんなの放っておいて行きましょうよラント。
いつもならそう喚く耳障りな声が聞こえるはずだが、今日は聞こえない。
だからつい、ラントはその場で立ちすくんでしまった。
「僕はバステラで生まれた根っからのバステラ人だけど、昔マヌスに住んでいたことがあるんだ。母親と二人でね。だから再びこの国に来られたことがとても嬉しいんだよ。彼女にも会えたし」
含みを帯びた言い方に、ラントは微かに反応した。
最後に言った彼女とはきっと、この男にとってただの思い出にはしがたい人物なのだろう。
そう思わせる憂いを孕んでいた。
ハイタイは手を後ろに組んで貴族のように優雅に歩くと、一つの十字架の前で止まった。
丘の先を背にして一番奥にひっそりと佇む、細く小さな十字架。
「何年も来ていないのにしっかり手入れされている。さすがこの国の人達だな」
声色に優しさが滲んだ。その場で膝をついて、ハイタイは十字架の下に控えめに盛り上がる土に触れた。
「僕の母がここに眠っている。母だってマヌスの人間ではないのに、この地で息を引き取ったからとこうやって弔ってもらえたんだ。母といられた時間は長くはなかったけど、ここで過ごせた時間は幸せだった」
もう少し付き合ってくれよ、とラントを見て、ハイタイは目を閉じる。
ラントはラントで、自分の母を思い出していた。
穏やかで優しくて、我慢強い人だった。
しかし悲しいかな、母を思い出そうとすると必ず忌まわしい記憶まで蘇ってしまう。
巨大な魚の腹を裂いた時にずるりと出てくる臓器のように、ねっとりとラントの脳裏に焼き付いて離れない風景。
「僕は一応騎士だからね、戦にだってしょっちゅう出るし、鍛錬もすればそれ以外の仕事だってある。そう毎日母に想いを馳せているわけでもない。だけどどうしてもたまに思い出してしまうんだ。特にこう、気が滅入るような出来事がある時はね」
ふと顔を上げると、ハイタイと目が合った。
ラントもハイタイも黒い瞳をしているが、ハイタイの方はいくらか灰色が混ざっている。
バステラ人というのはこういった風貌なのかとぼんやり思うと同時に、灰色がかった瞳は柔らかく微笑み、ラントは意味もなく身構えた。
「いい歳をして何を言っているんだと思われるかもしれないが、未だに母に会いたいと思う。生きていてくれればと。例えばこの世界に魔術みたいなものがあったとして、それで何とかして生き返ることができるなら、僕はなんとしてでもその魔術を習得するだろうね」
照れたように笑ってハイタイは立ち上がった。
「同僚でもなくバステラ人でもない、おまけにマヌス人でもない君と話しているとつい饒舌になってしまったよ。すまない。思うことがあってここに来たものだから」
「死んだ奴はそのままにしといた方がいい」
掠れた声は泥だらけの地面に転がり落ちた。
ハイタイは少し驚いた表情を浮かべ、薄い唇を半開きにしている。
「魔術なんてない。あったところで、そんなもんはなんの意味もない。寂しいから生き返らせるなんて、生きている人間の薄汚いエゴだ」
終始うつむいてボソボソ喋ったが、おそらくハイタイには聞こえていただろう。
大国に仕える騎士様のご機嫌を損ねたら何をされるか分からない。
それでもラントは反論した。これも、いつも喚き散らす女のいない弊害のひとつだろうか。
「そうか。うん、確かにそうだね。まったく無意味な話だった。君は真面目だねラント君」
茶化すように言って、高笑いをした。声を上げているのにどこか上品で、今のように晴れた空を連想させる爽快さがあった。
「それでだ。君はいつまでここにいるつもりかな」
「分からない。分かったとしてもあんたに言うつもりはない」
「確かにそれはそうだけどね、まぁ詳しくは言えないが……ひとつ忠告しておく」
空のようにカラリとした声が密やかに呟く。
終始友好的だった仕草や表情は強張り、甲冑の擦れる金属音が煩わしく耳に残る。
マヌスに住んでいたことのある爽やかな青年から、一瞬でバステラ王国の騎士へと様変わりしたようだった。
「君は早くこの国を出た方がいい」
一回りある大きな身体を、ラントは思わず見上げた。
「どういう意味だ」
自分で思っていたよりも声に力が入っていた。
「言葉の通りだよ。詳しくは話せない。これで分かってほしい」
またすぐに元の心優しい青年に戻る。活発に微笑み、これ見よがしに友好さを訴える。
「異国の人間なら、まだこの国にさほど愛着もないだろう?」
そんなことを言ってハイタイは歩き出す。
田畑の新緑と海の藍と空の青が、世界の輪郭をはっきりとさせていた。
この世界の全てが一色になる瞬間を想像する。真っ赤に染まる瞬間を。
自分がこの地で平穏無事に一生を終える想像は全くできないし、するつもりもない。
ぬくもりに溢れた幸せな想像はできないが、しかしラントは、いつでも最悪に不幸な結末を、そういう想像なら簡単にできてしまうのだった。
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